ジュリーニの「リゴレット」を聴いて

 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮の、ヴェルディ作曲「リゴレット」を聴いた。これは、LPでももっていたが、LPは機械をもっていないので、処分してしまった。リゴレットを聴きたくて、ジュリーニのウィーン・フィルシリーズを購入して、聴き直したわけだ。ボックスで購入すると、単体よりずっと安くなるのでよい。しかも、今回はまったくダブリがなかった。
 リゴレットには、いろいろな思い出がある。ずっと昔のことになるが、二期会の公演を聴いたのが、唯一の生演奏だが、栗林善信がリゴレットを歌っていて、声よりは、演技に強い印象をもった。それ以来実演は接したことがないが、録音や録画ではいろいろと聴いてきた。

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バーンスタインのベートーヴェン交響曲全集の映像

 バーンスタインの演奏は普段あまり聴かないのだが、ベートーヴェンの交響曲を聴きなおしてみようと思って、数日かけて全部聴いた。ウィーンフィルとの映像バージョンだ。演奏については、今更言う必要がない、優れたものだ。ベートーヴェンの演奏は、特別なしかけをする必要はなく、楽譜の通りに演奏すれば、確実に効果があがるものなのだが、そういう安心できる演奏だ。演奏は1977年から79年の間に行われたもので、会場は、5番と9番がウィーン・コンツェルト・ハウスで、残りはムジーク・フェラインである。
 ベートーヴェンの交響曲は、すべて2管編成だが、映像でみると、オーケストラの編成が曲によって異なり、それだけでも指揮者の解釈が感じられる。通常、1番と2番はハイドンの影響が濃厚で、まだベートーヴェンらしさが確立されていおらず、3番の英雄に至って、ベートーヴェンとしての個性か確立すると言われている。しかし、バーンスタインは2番でベートーヴェンらしさは全開になると考えているように感じられた。というのは、1番は2管で演奏しているが、2番は完全な倍管になっていて、演奏もアタックの強いものになっている。編成で「おや?」と思ったのは、5番で、会場が広いコンツェルトハウスなのだが、とにかくたくさんの奏者が並んでいるのだ。5番はピッコロやコントラファゴットなどの、ベートーヴェンでは普段使われない楽器が加えられていることも影響しているのだろうが、弦楽器がやたらと多いのだ。カラヤンだって、これほど大きな編成で5番を演奏しただろうかと、思わせるほどだ。他の映像に比較して、そういうせいか音の凝集力がないように感じられた。録音のせいだと思うが。

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フルトヴェングラーのバイロイト第九再論

 徳岡氏のyoutubeを見ていたら、突然古いものがでてきて、最初新しいものと勘違いしてみていたのが、実は昨年のものだったことがわかった。フルトヴェングラーのバイロイト第九を論じたもので、私自身このブログで書いたものだが、再度聞き直してみる気になったので、EMI盤とバイエルン放送盤を全部ではないが、重要箇所をチェックしてみた。どちらがゲネプロで、どちらが本番かという、バイエルン盤がでたときに、大論争になった問題である。私自身は、EMI盤が本番で、バイエルン盤がゲネプロだと思っているが、徳岡氏は、その逆で、フルトヴェングラー協会で講演までしている。今回聴きなおしてみて、やはり、同じ結論だ。しかし、この問題は、結局、バイエルン放送局が、正式に表明しない限り真相はわからないのだろうし、あるいは、バイエルン放送局自身が、記録は残っていないのかも知れない。結局、聴いた者が、自分の物差して判断するしかないわけだ。

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ウィーン国立歌劇場150周年ボックス

 ウィーン国立歌劇場150周年記念CDボックス(22枚組)を、やっと全部聴き終わった。CDやDVDのボックスは多数もっているが、全部聴いたのはあまりない。それだけ魅力的なボックスだ。
 ウィーン国立歌劇場は、第二次大戦時の爆撃でほぼ消失してしまったので、再建に10年かかるという、かなり難事業で再開された。その戦後の主なオペラの全曲と、抜粋によって構成されている。 “ウィーン国立歌劇場150周年ボックス” の続きを読む

カラヤンのドキュメント「第二の人生」

 カラヤンのドキュメントである「第二の人生」を見た。3回目くらいだ。この手の映像は、一度見ればいいのだが、この「第二の人生」とか、クライバーのドキュメントなどは、繰り返し見る価値がある。
 「第二の人生」は、肉体が衰えたカラヤンが、新しい肉体を得て、すべてのレパートリーを最新のテクノロジーを用いて、再録音したいと語っていたという言葉からきている。実際に、最晩年のカラヤンは、ドイツグラモフォンとの契約を破棄して、ソニーに乗り換え、新しい録音計画を進めていくつもりだったという。ティルモンディアル社とソニーの共同作業は進行していたが、もっと本格化させるつもりだったのだろう。

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レコーディングでの不思議な例

 オペラの録音は大変なコストがかかるし、成功するには様々な条件を満たす必要がある。だから、途中で放棄された計画も少なくないだろう。そういうなかで、有名なミステリーともいうべきふたつの例を、何故そんなことになったのか、想像をしてみよう。
 第一は、オットー・ゲルデス指揮、ワーグナーの「タンホイザー」である。これは1968年から69年にかけて録音されたレコードで、今でも現役として発売されている「名盤」である。タンホイザーがヴィントガッセン、ヴェーヌスとエリザベードの二役でニルソン、ヴォルフラムがフィッシャー・ディスカウ、ヘルマンがテオ・アダムというキャストで、ベルリン・ドイツ・オペラの演奏だ。レコード会社はドイツ・グラモフォン。
 クラシックファンならば、たいていの人は知っている演奏で、この盤そのものの存在は知らなくても、オペラファンならば、この歌手陣をみれば、ほおーと思うだろう。それだけ超強力歌手たちである。そして、よほどの情報通でなければ、ゲルデスって誰だということになる。

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ワルターのワルキューレ

 本当に久しぶりに、ワルターの『ワルキューレ』を聴いてみた。このレコードは、(聴いているのはCDだが)いろいろな意味で、特別なものだ。1935年の録音だから、まだSPの時代で、片面5分のレコードに、ワーグナーの全曲など録音できるとは、とうても思えなかった時代に、EMIが指輪全曲に挑戦する企画として、録音が始まったと言われている。つまり、世界最初の「ニーベルンクの指輪」の全曲録音の試みだったという点。しかし、残念ながら、当時の情勢、おそらく、ワルターがユダヤ人であることの、様々な制約があったのだろう、ワルキューレ2幕の途中で中断した。そして、この不吉な徴候は、その後も続いたことでも有名だ。戦後、改めてフルトヴェングラーで指輪全曲を録音しようと、EMIは意欲的なプロジェクトを組んだわけだが、これも、フルトヴェングラーの死によって、やはりワルキューレだけで頓挫してしまう。そして、クレンペラー。これも基本的には、1幕だけが完成で、指輪全曲の予定だったのかはわからないが、とにかく、ワルキューレで1幕で頓挫。EMIが指輪全曲録音を完成するのは、80年代も末のハイティンク盤だった。EMIにとって、ワルキューレは呪われた音楽という風に言われたこともあった。巡り合わせとは、本当に不思議なものだ。しかし、これらはいずれも、非常な名盤と評価されている。ハイティンクは、例によって強烈な個性を発揮しているわけではないが、じっくりと聴けるし、安心感を与える。指輪にとって、安心感はいいことか、という疑問もあるが。 “ワルターのワルキューレ” の続きを読む

カラヤンの「春の祭典」

 私が属している市民オーケストラが、今年の5月の演奏会で、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲を演奏するはずだった。しかし、コロナ禍で演奏会自体が中止になり、練習もその後できない状態が続いている。最悪の場合、今年は、演奏会なしだ。本当に困ったことだが、政府も自治体も適切な対応をしないので、このまま長引くだろう。それはさておき、「火の鳥」はアマチュアオケにとって、非常な難曲だ。しかし、「春の祭典」はその何倍も難しい。だいたい、「春の祭典」を正確に演奏できるようになれば、オーケストラとして一人前だということになっている。よくもまあ、こんなに複雑で入り組んだ曲を作曲したものだ、とは指揮者で作曲家の徳岡氏が述べていた。実は、私のオケも「春の祭典」をやろうという雰囲気に一時なったらしいが、やはり無理だということで自重したようだ。プログラムは各セクションの責任者と選曲委員が決めるので、技術的検討が行われたのだろう。
 徳岡氏のyoutubeの番組を、私は登録して見ているのだが、「春の祭典」を取り上げていたので、注意してみた。モントウ、ブーレーズとかメータとか、その他名前を忘れてしまったが、何人かの演奏の特徴を解説したあと、徳岡氏が最も気にいっている演奏は、1960年代のカラヤンの演奏だというのだ。そこで私はびっくりしてしまった。 “カラヤンの「春の祭典」” の続きを読む

オペラ「ボリスゴドノフ」リムスキーコルサコフ改訂版も悪くない

 普段は、かなり部分的にしか見ないDVDを久しぶりに全曲視聴してみた。「ボリスゴドノフ」は、ユニークなオペラだ。また、私にとっても、思い出深いものでもある。
 何がユニークかというと、オペラの題材として、その国のトップの人物が主人公になっているものは、他には思いつかない。伯爵などのような貴族が主人公というのは、いくつかある。「セビリアの理髪師」「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」等。しかも、ボリスゴドノフは歴史上の実在の人物であり、悲劇的な死をとげる。だからオペラも、とにかく、全編暗い、陰謀だらけの話である。しかも、唯一美しい音楽が流れるポーランド貴族の娘であるマリーナの部屋以外は、音楽もほとんどが重苦しい。作曲したムソルグスキーが、最初の草稿を、劇場当局に見せたところ、あまりにも暗い話、暗い音楽なので、もっと女性を登場させなさいというアドバイスがあって、マリーナの場面が付け加えられたと言われている。劇場が不当な要求を、ムソルグステーに押しつけたという批判があるらしいが、実際のところは、ムソルグスキー自身がその批判をもっともだと思い、改作をしたものが、通常上演されている。ごく稀に第一稿の演奏やCDもあるが、私はマリーナの場面が一番好きなので、第一稿は視聴する気がおきない。 “オペラ「ボリスゴドノフ」リムスキーコルサコフ改訂版も悪くない” の続きを読む

カルロス・クライバー雑感

 本日はちょっと気楽に、カルロス・クライバーに関することを。
 これまでオーケストラ演奏の映像でもっていないものがけっこうあって、アメリカ発売で安いものがあったので購入した。これで、CDとDVDで、正規に録音・録画されたものは全部そろった。海賊版を購入する趣味はないので、そもそも海賊版をほとんどもっていないが、クライバーでは、シカゴを振ったベートーヴェンの5番がある。しかし、これはとてつもなく音が悪く、明らかに聴衆が密かに座席で録音したものだろう。これに懲りて、いくらクライバーでも、他に正規以外の録音を購入することはなかった。
 クライバーという指揮者は、ほんとうにいろいろなことを論じたい要素に満ちた存在だ。彼に関して、不思議な現象は、枚挙に暇がない。ファンなら常識になっていることだが。
 何故、自ら父親の反対を押し切って指揮者になったにもかかわらず、指揮をしたがらなくなったのか。父親よりも、誰もが高い才能を認め、父の演奏よりも優れていると、両方聴いたことがある人が述べているのに、父親には遠く及ばないと言い続けたのか。 “カルロス・クライバー雑感” の続きを読む