バーンスタインの演奏は普段あまり聴かないのだが、ベートーヴェンの交響曲を聴きなおしてみようと思って、数日かけて全部聴いた。ウィーンフィルとの映像バージョンだ。演奏については、今更言う必要がない、優れたものだ。ベートーヴェンの演奏は、特別なしかけをする必要はなく、楽譜の通りに演奏すれば、確実に効果があがるものなのだが、そういう安心できる演奏だ。演奏は1977年から79年の間に行われたもので、会場は、5番と9番がウィーン・コンツェルト・ハウスで、残りはムジーク・フェラインである。
ベートーヴェンの交響曲は、すべて2管編成だが、映像でみると、オーケストラの編成が曲によって異なり、それだけでも指揮者の解釈が感じられる。通常、1番と2番はハイドンの影響が濃厚で、まだベートーヴェンらしさが確立されていおらず、3番の英雄に至って、ベートーヴェンとしての個性か確立すると言われている。しかし、バーンスタインは2番でベートーヴェンらしさは全開になると考えているように感じられた。というのは、1番は2管で演奏しているが、2番は完全な倍管になっていて、演奏もアタックの強いものになっている。編成で「おや?」と思ったのは、5番で、会場が広いコンツェルトハウスなのだが、とにかくたくさんの奏者が並んでいるのだ。5番はピッコロやコントラファゴットなどの、ベートーヴェンでは普段使われない楽器が加えられていることも影響しているのだろうが、弦楽器がやたらと多いのだ。カラヤンだって、これほど大きな編成で5番を演奏しただろうかと、思わせるほどだ。他の映像に比較して、そういうせいか音の凝集力がないように感じられた。録音のせいだと思うが。
1番から順に聴いていったが、まず2番に感心した。私のオーケストラが演奏するとき、必ず指揮者に言われることは、ベートーヴェンは絶対に一音一音力を抜いてはいけない、ということだ。どんな指揮者でもいう。きれいでも緊張感が欠けた音だと、ベートーヴェンではなくなってしまう。バーンスタインの2番は出だしから、力がはいっている。3番はこの全集のなかで、一番の名演だと感じた。最初のふたつの和音が実にバーンスタインが望んだように鳴っている。オーマンディが日本にフィラデルフィアのオーケストラと演奏旅行にきたとき、英雄のリハーサルで、このふたつの和音の練習だけで30分もかけたというのは、有名な話だ。このふたつの和音をどう演奏することを指揮者が望むか、ピタッと揃っている音なのか、揃っているよりは、膨らみを求めるのか。こういうときには、映像は非常に参考になる。多くの指揮者は、手を振り降ろすが、バーンスタインは、ボクシングのジャブのように、手を前に素早く振り出して、引っ込める。その動作と和音をだすタイミングを相当練習したのではないだろうか。音は、ビタッと揃って、しかも鋭角的で強いものになっている。
5番と6番はあまり楽しめなかった。5番は、クライバーのような勢いのある演奏が好きだし、6番は「田舎についたとき」のうきうきした気分があまり感じられなかった。7,8番はよかった。特に8番のメヌエットは、踊るバーンスタインが印象的。9番の評価は難しい。3楽章のアダージョのスローテンポは好きになれない。この楽章は、もう少し速いテンポをとったほうが、ずっと「歌」になると思う。
最も興味が沸いたのは、この映像は、どのように撮影したのだろうかという点だ。撮影は、まずフィルムを使う方法から始まったが、当然クラシック音楽でもそうだった。フィルムは、映像と音を別に収録して、あとで重ねる。そして、映像は通常カットに分けて撮る。だから、交響曲などをライブ演奏で収録したフィルムは、ほとんどないはずである。そのうちビデオテープが発明されて、状況が変わる。NHKのイタリアオペラでは1950年代、60年代でもビデオによる映像が残っており、オペラの全曲を見ることができる。しかし、ビデオが登場してからしばらくは、ビデオの映像の質はたいへん悪く、ほとんど鑑賞に耐えないものだった。だから、本格的な商品としての音楽映像は、フィルム撮りだった。フルトヴェングラーの「ドン・ジョバンニ」やカラヤンの「ばらの騎士」などは、いまでもDVDで正規に発売されている。今の鮮明な映像に比較すれば、かなりぼやけたものだが、NHKのデル・モナコが出演している「オテロ」などに比べれば格段に見やすいものだ。カラヤンは、画質を重視したので、当初はずっとフィルムを使っており、そして、その手法をいろいろと研究し、実験的な撮影方法を様々に駆使したのが、カラヤンの最初の映像バージョンのベートーヴェン交響曲全集だ。1967年から1972年にかけて撮影されており、その間に撮り方に大きな変化がある。カラヤンは1967年前後にパリアッチ、カバレリア・ルスティカーナ、ボエームなどのオペラ映画を制作している。これは最初から映画として上演されるように企画されているので、もちろん、映像はカットごとに撮影されている。映画なので、ごく自然に見ることができる。しかし、コンサートとなると、事情が異なってくる。音楽の映像を先導したカラヤンは、実にたくさんの実験的撮影をしたが、いずれもカット割りの手法を最後まで捨てなかった。それには、もうひとつのこだわりがカラヤンにはあったようだ。それは、コンサート会場、特に舞台上にカメラがあってはいけないというものだ。そして、その考えは、ビデオでそれなりに鮮明に撮影できるようになっても、続いた。しかし、それは演奏家の考えによっても左右されるだろう。バーンスタインのベートーヴェンは、その過渡期だった。
現在のライブ映像は、カメラを数台舞台上や客席において、複数の映像を演奏中撮影しつづけ、調整室で映像を切り換えつつ、ひとつの映像作品にまとめる。演奏は失敗することもあるので、その部分は、複数の演奏会で収録した「うまくいった」部分と取り替えるとか、それでもうまくいかない場合には、その部分だけ取り直して、それを基本の映像にはめ込むわけである。
ところがカット割り方式で撮影すると、全体を大きく撮影する場面は、本物のライブ演奏であるが、各楽器のクローズアップは、その楽器セクションの人だけが並んで、近接したところにカメラを置いて撮影する。だから、その映像は、非常に不自然なものになる。ラトルが初めてベルリンフィルを指揮するために、フィハーモニアのホールに来たときに、そういう映像撮りをしていると最中だったので、非常に興味深く見たと語っていたことがある。彼の世代では、そんな撮り方はしないということだろう。
こうした撮影方式は、時代として仕方なかったのだろうが、やはり、カラヤンは、これに固執したところがある。そのために、現在採用されているような方式を承認すれば、カラヤンのライブ映像はもっとずっとたくさん残されたに違いない。カット割りの方式だと、多くの時間と手間がかかるし、演奏と映像がずれること、演奏している様子がいかにも不自然になること、等々の欠点がいろいろある。カラヤンは、カメラが映ることがどうしても許せなかったのかも知れない。
さて、バーンスタインに戻ろう。この映像は、そうしたふたつの方式の過渡期に撮影されたものだ。バーンスタインは、若いころにニューヨークで、若い世代のための解説を含めた番組をたくさん制作しており、そこには、大きなカメラと操作する人が複数写っているので、カラヤンのような拘りはなかったはずである。しかし、このベートーヴェンの映像には、カメラはまったく写っていない。(ちなみに、後年のクライバーのウィーンフィルの演奏会の映像では、カメラが写っている。)だから、おそらく、ウニテル社会の方針として、カット割りの映像を含めたものになっているに違いない。
そうすると、バーンスタインはカメラの前で、指揮を演技として行ったのだろうか。カラヤンは、まったく拘りなく、というより、むしろ積極的に、隣接するカメラの前で、指揮する演技をやったそうだが、バーンスタインはどうだったのだろう。カラヤンの映像では、明らかに、第一バイオリンはおらず、その場所に置かれたカメラが、カラヤンの指揮を撮影したとわかる映像が少なからずある。しかし、このバーンスタインのベートーヴェン全集では、そうした映像があったとは気づかなかった。すると、バーンスタインのアップは頻繁に出てくるのだが、どうやって撮影したのだろう。文献にあたって調べたいと思っている。