我がオーケストラの演奏会

 今日は、私が所属する市民オケ、松戸シティフィルハーモニーのファミリー・コンサートだった。ということで、いつものようなブログを書く時間がないので、演奏会のことを書きたい。
 曲目は、ウェーバー作曲「舞踏への勧誘」、ビゼー作曲「組曲ローマ」、そして、ブラームスの交響曲2番だった。
 クラシック音楽は、作曲家が創作した楽譜通りに演奏するのが、大原則なので、編曲は滅多に演奏されない。モーツァルトがヘンデルのメサイアを編曲したバージョンがあるが、CD1、2しかでていないし、実際の舞台で演奏されることは、現在ではほとんどないに違いない。モーツァルトが編曲しても、こうなのだから、やはり、編曲ものは異端として扱われる。ところが、2曲だけ、むしろ原曲よりも有名で、頻繁に演奏されるのが、この「舞踏への勧誘」と、ムソルグスキー作曲、ラベル編曲の「展覧会の絵」だ。ともに原曲がピアノ曲、編曲者が有名な作曲家であり、かつすぐれたオーケストレーションの名人である点が共通している。「舞踏への勧誘」は、ベルリオーズの編曲だ。いかにもロマン派の曲らしく、舞踏会で男性が女性を踊りに誘い、若干のやりとりのあと、おどりだす、そして、最後に挨拶して終わるというものだ。男性がチェロに割り当てられ、我がオーケストラには、チェロの名手がいるので、ここは実に、後ろで聴いていてもほれぼれした。

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HIMARIを聴く

 吉村妃鞠が、N響の定期演奏会で演奏したことを、youtube動画をみて知ったので、早速聴いてみた。HIMARI となっているので、既に国際的に活躍していることであり、五嶋みどりが midori として活動していることに倣ったのかも知れない。確かに世界中で活躍しているのだから、吉村妃鞠よりは、親しまれるに違いない。
 熱心に追いかけているわけではないので、久しぶりに聴くのだが、音がきれいであることにびっくりした。以前の、本当にまだ小さい子どもで、かなり小さいバイオリンをつかっているときには、こんな小さい楽器で、あのような音がでるのかとびっくりしたけれども、それでもやはり、大人のプロソリストの音ではなかったが、今回のN響との演奏では、完全に大人の美しい響きだった。まだかなり身体は小さいし、フルサイズではないのだろうが、コメントによるとストラディバリウスだというが、ウィキペディア情報ではアマティで、やはり分数バイリオンということだ。私には、正確なところはわからないが、本当に美しい音だった。しかし、演奏は、圧倒的にすばらしいとまではいえないものを感じた。というのは、前に聴いたコンクール時のものよりは、ずっと大人しく、お行儀のよい演奏なのだ。そして、オーケストラ伴奏よりも、ピアノ伴奏のほうが、すばらしい演奏になっていることが多いように思われた。

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高い目標をもつこと(大谷とエル・システマ)

 今日は、普段雑多に考えていることについて書く。
 大谷翔平は、誰にも大きな驚きを与える存在だが、私が最も驚くのは、生活のすべてを野球の向上のために使い、常識的な付き合いすら断ってしまうほどの、ストイックさである。日ハムの新人としてはいったときに、先輩の食事の誘いを断ったとか、それは今年ヌートバーと再開して、食事に誘われたときにも、「寝るから」といって断ったというように、一貫した姿勢であり、ニューヨークで試合のためにいっても、まったく街にでないので、街の印象もないという徹底ぶりだ。それだけではなく、食事も、完全に野球のためのものにして、定期的に血液検査をし、それに基づいて栄養を考えるのだそうだ。味はほとんど気にしないとか。練習方法も、おそらく専門のスタッフがいるのだろうが、二刀流の実現するための必要なトレーニングを開発し、無駄なことはしないのだそうだ。

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オペラは死んだのか?

 車田和寿氏のyoutubeで、「オペラは死んだのか?」というテーマの映像がでた。大変興味のあるテーマなので、早速みた。
 実は、オペラは死んだということは、これまでにも、いろいろなひとによって言われており、それぞれまったく違う角度から、そうした問題を扱っていた。
 
 第一は、新しく魅力的で、大衆的な人気を獲得するオペラが作曲されなくなった、という意味で言われる。たとえば、最後の人気オペラは、リヒャルト・シュトラウスの「バラの騎士」で、100年も前だ。それ以降、オペラはたくさんつくられたが、たとえば、人々が自然に口ずさむようなメロディーをもっていて、人気のあるオペラは作曲されていないという。私もそれには同意する。「ボツェック」は高く評価されているが、大衆的人気があるとはとうてい思えないし、その一節が自然にでてきて、口ずさむなどということはないだろう。

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指揮者の晩年7 オットー・クレンペラー 心身の苦難を乗りこえて

 オットー・クレンペラーは、指揮者としては、かなり波乱の富んだ人生を送ったひとだ。若いころから、双極性の精神疾患を患っていたといわれ、それが原因で、歌劇場支配人やオーケストラとトラブルを起こしていた。更に、ヒトラー政権から逃れて渡ったアメリカで、脳腫瘍にかかって、大きな手術をしている。更に、飛行機のタラップからおりるときに、踏み外して大怪我をしたり、更に、ホテルで寝煙草が原因でシーツが燃え、かなりの火傷をして、大がかりな皮膚移植手術を受けている。
 こうした身体的なトラブルだけではなく、アメリカの市民権を得ていたが、戦後初期にハンガリーの歌劇場で指揮をしていたために、マッカーシー旋風が吹き荒れていたときに、共産主義と関係があると疑われて、パスポートの没収にあったりしている。

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生の演奏会か録音か

 先日、音楽会をこよなく愛するひとと話す機会があった。極論すれば、上手なCDより、多少劣るとしても、生の演奏会のほうを聴きたいという意見だ。そこは、重なる部分もあるが、違う部分もあると感じた。
 もちろん、録音は所詮音の缶詰であって、実際の演奏ではない。ライブ演奏といっても、人際には、ほとんどの場合修正してある。人間が演奏する以上、ミスはあるから、リハーサルや複数の演奏会の録音をとっておいて、ベストのものを主体に、他の録音でミスを修正するのである。クラシック音楽に、文字通りのライブ放送がほとんどないのは、ミスなしの演奏など、ほぼ無理だからだ。スポーツの場合には、相手がいるので、当然ミスは多い。しかし、それも観戦の面白さだと思うひとが多いだろう。

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トロバトーレを聴く

 トロバトーレは、最も好きなオペラのひとつだ。最近は、一人の指揮者が同じオペラを、何度も録音・録画するが、以前はオペラの全曲録音はかなり大変な作業で、カラヤンやショルティでも、複数回録音したオペラは少ない。しかし、カラヤンはトロバトーレを4種類出している。ミラノ・スカラ座とのモノラル(主演はマリア・カラス)、ベルリン・フィルとの録音(レオタイン・プライス、ボニソッリ、カプッチルリ)、ウィーン・フィルとの録画(ドミンゴ、カプッチルリ)、そして、カラヤンとしてはめずらしいザルツブルグライブ(プライス、コレルリ)だ。最後のライブは、カラヤンが正式にセッション録音したわけではないが、生前から市販されており、かつカラヤン・コンプリート、オペラ集にも入っているから、発売そのものは認めていたのだろう。他には4回というのは、バラの騎士くらいだろう。

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チェロのトラブル 適切な湿度の必要性

 今年に入ったころからだろうか、どうもチェロの鳴りが悪くなったような気がしていた。これは昨年夏あたりから、左手の痛みが出て、そのことによって、うまく楽器が扱えなくなっているのかと思っていた。
 チェロをやったことがある人はわかると思うが、チェロは弦が太いので、かなり力がいる。そして、練習をあまりしない状態から、久しぶりに弾くと、腕や手が痛くなるものだ。しかし、この時の痛さは、逆で、毎日練習しているのに、弾き始めると、それだけ痛くなるのだ。いよいよ歳なのかという思いと、ひょっとしたら、コロナワクチンの副作用だろうかという思いもよぎった。私はまったく副作用がなかったのだが、どうもワクチンを打った左手だけが痛い。そして、それが楽器の鳴りに影響しているのかなどと思っていたわけだ。昨年の7月に4回目、今年の1月初めに5回目のワクチン接種をしたので、ありうるとは思う。

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アバドのコンプリートをめぐって

(昨日書いてアップを忘れていた文です)
 数年前、ネット上の友人は、好きな指揮者としてフルトヴェングラー・ムラビンスキー・クライバーをあげた。それに対して、返答として、私はワルター・カラヤン・アバドをあげた。はっきりした好みの差だ。友人は、おそらく音楽を深く沈潜するような聴き方をするに違いない。音楽は単なる快楽ではなく、精神的な要素がある、と。しかし、私は、音楽に関しては、まったく快楽派なので、音楽は、楽しく美しいのがよいと思っている。そういうなかで、最もセンスのよい快楽派が上記3人だ。もっとも、ワルターもカラヤンもアバドも、単に音楽は美しければよい、と考えているわけではないと反論する人もいるかも知れないが、少なくともいわゆる「精神派」でないことはたしかだ。

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ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート メストこそベスト

 今年のウィーン・フィル、ニューイヤーコンサートはフランツ・ウェルザー・メストの10年ぶりの登場だった。メストは、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を、シーズンが始まったばかりの時点で辞任するという、いささか感心しない行動にでたため、10年の間があいてしまったのだろうか。その後国立歌劇場には出ていないはずだ。しかし、不思議なのは、カラヤンもウィーンのオペラにはでないのに、ザルツブルグには出ていたのと同様、メストもザルツブルグ音楽祭でのオペラ上演の中心になっている。

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