トロバトーレを聴く

 トロバトーレは、最も好きなオペラのひとつだ。最近は、一人の指揮者が同じオペラを、何度も録音・録画するが、以前はオペラの全曲録音はかなり大変な作業で、カラヤンやショルティでも、複数回録音したオペラは少ない。しかし、カラヤンはトロバトーレを4種類出している。ミラノ・スカラ座とのモノラル(主演はマリア・カラス)、ベルリン・フィルとの録音(レオタイン・プライス、ボニソッリ、カプッチルリ)、ウィーン・フィルとの録画(ドミンゴ、カプッチルリ)、そして、カラヤンとしてはめずらしいザルツブルグライブ(プライス、コレルリ)だ。最後のライブは、カラヤンが正式にセッション録音したわけではないが、生前から市販されており、かつカラヤン・コンプリート、オペラ集にも入っているから、発売そのものは認めていたのだろう。他には4回というのは、バラの騎士くらいだろう。

 
 トロバトーレの魅力は、なんといっても、音楽の情熱的な力だろう。出てくる音楽すべてが、魅力的なメロディーだが、単に美しいというのではなく、外に向かってほとばしりでるようなエネルギーに満ちている。だから、ライブ上演で、熱気が出てくると、まるでソリストたちの真剣勝負、緊迫したスポーツの試合のようになる。私自身経験した上演では、藤原歌劇団が上演し、名指揮者エレーデが指揮した上演がそうだった。フィオレンツァ・コッソットがアズチェーナを歌い、4人のソロはすべて海外勢だったが、コッソットが最初のアリアで、すごい熱唱を披露し、数分間の拍手が続いた。そして、その後は、ソリストたちが、負けじと力を振り絞っているのが伝わってきた。
 しかし、音楽は最大級の魅力なのだが、筋はまったくはちゃめちゃである。優れたオペラは筋もしっかりとした、演劇的価値があるものが多い。シューベルトは、オペラ作家として成功しなかったのは、ひどい台本にばかり作曲していたからだと言われている。だが、このトロバトーレは、演劇的なひどさにもかかわらず、その欠点を補ってあまりある音楽の魅力で、人気オペラになっている。
 オペラの筋は、伯爵家にふたりの男の子どもがいる。あるとき捕らえられたジプシーが火あぶりになり、その復讐に娘が、伯爵の子どもをひとりさらって、火に投げ込んだつもりが、実は自分の子どもを投げ込んでしまったのだ。結果ジプシーの娘は、伯爵の子どもを育てて、兵士に成長する。他のひとりは伯爵を継いでいる。ところが、この二人は一人の伯爵の侍女をめぐって争っており、侍女は、ジプシーの隊長になっているマンリーコに惹かれる。マンリーコは死んだと誤解して、修道女になろうとするところを、伯爵がさらおうとするが、やってきたマンリーコとともにいってしまう。そして、基地にいるところを、マンリーコの母親が捕まったという知らせをうけて、マンリーコは助けにいくが、逆に捕まって死刑をいいつけられる。それを知った侍女(レオノーラ)は、伯爵の意を受け入れることを条件に、マンリーコの助命を願う。しかし、その後服毒自殺してしまうので、マンリーコは処刑され、母親アズチェーナは、「復讐が成就した」と叫んで幕となる。
 
 この筋の妙なところはたくさんある。
・伯爵の子どもを、ジプシーの女性がさらうことなどできるのか。
・できたとしたも、その子どもではなく、自分の子どもを、さらった伯爵の子どもと間違って、火に投げ込むななどありうるのか。
・そのことを知ったのに、なぜ、大事に伯爵の子どもを育てるのか。
・侍女が、主人である伯爵に愛されているのに、なぜ、ジプシーの兵隊長をとるのか。(ラダメスが、王女アムネリスより、敵国の奴隷アイーダを命懸けで愛するのとにている。いずれも不自然?)
・しかも、兄弟なのに、伯爵とは死んでも一緒になりたくないほど嫌いで、マンリーコは自分の生命を捧げても救いたい。
・息子のように育ててきたマンリーコが処刑されると、「復讐はなった」と叫ぶのか。復讐したかったら、育てないはずなのに。
 冷静に考えると、このような不自然極まりない話なのだが、音楽を聴いていると、このような不自然さも、あまり意識しなくなり、自然な展開にも思えてくる。
 
 名曲だけにたくさんの名演がある。そのなかでも際立っているのが、セラフィン指揮のスカラ座版だ。それに次ぐのがカラヤンのウィーンのライブ映像だ。
 カラヤンのこの映像には、非常に珍しい事件がある。本来、その少し前にだされた録音とほぼ同じメンバーで、ユーロビジョン用のウィーンでの上演だったが、直前に、マンリーコがボニゾッリからドミンゴに代わった。詳しいことを知らず、ずっと「事情があって」という報道に何だろうと思っていた。レコード発売後の記者会見で、カラヤンはボニゾッリを非常に高く評価していたので、どうしたのだろうと。
 最近その真相がわかった。テレビ放映があるので、カメラチェックもあったのだろう、客をいれての公開ゲネプロで、ボニゾッリが、カラヤンの指揮に不満で、もっていた小道具の刀をカラヤンにむけて投げつけたというのだ。ボニゾッリは、どうやら、数世代前の歌手気質をもっていて、長く伸ばしたり、高い声を思い切り歌うことを好み、楽譜に忠実に歌うことを求めるカラヤンとは、あまり合わなかったらしい。それで、伸ばすことをきるように指示したカラヤンに刀をなげつけたというのだ。通常の練習であれば、穏便にすることもできたろうが、なにしろ客が入っている目の前でのできごとなので、さすがに降ろさざるをえず、急遽ドミンゴを外国にいたのを呼んだということだ。ただ、このドミンゴの歌唱は、本当にすばらしいので、かえってよかったともいえる。ただし、有名なハイcはドミンゴは歌えないので、下げて歌っている。呼ばれたドミンゴが、それていいかと確認を求めて、カラヤンも認めざるをえなかったようだ。そういう下げねば歌えない歌手を、カラヤンはまず使わないのだが。しかし、大勢がみているまえで、おもちゃとはいえ、カラヤンに不満を爆発させて、刀を投げつけるとは。
 
 さて、今名盤のセラフィン盤を聴きながら、この文章を書いている。
 ルーナ伯爵を歌うために生まれたなどと言われるバスティアニーニ、戦後最高のアズチェーナであるコッソット、ベルゴンツィのマンリーコとアントニエッタ・ステルラのレオノーラも優れている。そして、なんといってもセラフィンの指揮だ。エネルギーの放射ともいうべき歌唱がずっと続く。昨日メータ指揮のCDを聴いたが、これに比べると、緩い感じが否めない。
 セラフィンには、もっとたくさんのステレオ録音を残してほしかった。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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