松竹氏除名の大きすぎた影響

 松竹氏除名の波紋はまだ収まらない。というより、ますます拡大している。朝日や毎日の社説に志井委員長が噛みついたのが、メディアの反感を買ってしまったように思われる。その後、様々なメディアが、扱い始めた。
 松竹氏除名の反応は、大きく分けてふたつあった。ネット上の意見などをみれば、はっきりわかる。
 最も多いのは、もともと共産主義は独裁制であるという認識をもっているひとたちは、「それみたことか」と溜飲を下げたような反応である。共産党が嫌いなひとたちが、ますます嫌いになり、自分の見解が正しかったことを再確認したということだ。
 それに対して、共産党に共感をもっていたり、部分的にせよ支持していたひとたちは、大きな衝撃を受け、これまでの支持を捨てる方向に向かったひとたちである。

 そして、ごく少数だが、除名は規約違反をしたのだから当然だと、共産党の除名措置を支持したひとたちだ。しかし、文章を読む限り、その少数派は、本来の最初のもともと反感をもっているひとたちが、党の強硬派を装って書いている雰囲気を、私は感じる場合が多かった。共産党にとって、深刻な事態になっているのは、第二のひとたちがたくさんいるということだ。そして、メディアとして取り上げた場合でも、第二の潮流に属するものが多い。朝日や毎日もそうだし、一月万冊もとりあげ、本間龍氏と今井一氏の対談で、かなり詳しく扱っていた。
 
 そして、もっとも深刻なのは、国民に恐怖の感覚を植えつけたことだろう。党首公選などは、ある意味国民的なコンセンサスとでもいうべきことだ。そして、当たり前のことを、党の勢いが低下していることをなんとか打開するために、党首公選を提案したら、それを「党に対する攻撃である」と認定して、反撃が必要だから、除名するのは当然だと断言した。この善意の改善の提案を「攻撃」と受け取る感性に、ドン引きしたと表明した人が大勢いた。当然のことだろう。そして、このことの影響は本当に大きいのではないだろうか。
 
 しかし、私が最も残念に思ったのは、共産党は、きちんとした議論をすることができない党になってしまったのかということだった。そして、時代の変化についていけない集団になったのかということだ。
 改善案を「攻撃」として受け取り、改善案の不十分性を、相手が納得するような議論を展開することで説得しようとしなかったこと、まったく説得力のない、正式には決定されていないことを「決定」であるかのように、(公選はしないと決定した)言い張って、議論の俎上に載せないこと、そして、権力をもって処分をしたことは、建設的な議論能力を喪失していることを、露にしてしまったことと受け取られる。
 時代の変化に対応できていないことは、党首公選をまったく考慮できないことにも現れているが、IT関連への、共産党の影響力の強い団体の姿勢を見るとよくわかる。総合雑誌で、デジタル化しているものはほとんどが保守系であり、リベラル系はデジタル化されておらず、私のように、紙の媒体の書籍をほとんど買わなくなった者にとっては、入手しがたいものになってしまった。現在では、保守こそ革新的であり、リベラルが保守的というのは、実感として感じるところだ。個々の政策については、保守・革新などがそのまま判断基準になるものではないが。
 
 もうひとつ、公選について。
 私が勤めていた大学は、いまどき珍しいが学長を全教職員(職員も含むことに注目)の選挙で選んでいる。以前は、独裁的な理事長兼学長がいたが、そのころからトラブルも多く、深刻な事態になったことあった。そして、妥協として、不祥事を起こした理事長の責任を問わないことと引き換えに、学長の公選を実施したのだ。その後もずっと公選は実施されているが、以前のような不祥事はまったく起きていないし、困難な大学の冬の時代に、協力体制が壊れるようなことはない。トップの公選とは、組織の活性化と協力体制の促進、そして、不満の不適切な表出を防ぐ点で、とても効果があるのだ。
 国立大学が法人化され、学長の公選がどんどんなくなっているが、共産党は、それを批判しているのではなかたのだろうか。大学では、公選しないのは反民主的で、共産党は公選すると民主主義が崩れるのか。納得する人がいるとは思えないのだが。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です