指揮者の晩年7 オットー・クレンペラー 心身の苦難を乗りこえて

 オットー・クレンペラーは、指揮者としては、かなり波乱の富んだ人生を送ったひとだ。若いころから、双極性の精神疾患を患っていたといわれ、それが原因で、歌劇場支配人やオーケストラとトラブルを起こしていた。更に、ヒトラー政権から逃れて渡ったアメリカで、脳腫瘍にかかって、大きな手術をしている。更に、飛行機のタラップからおりるときに、踏み外して大怪我をしたり、更に、ホテルで寝煙草が原因でシーツが燃え、かなりの火傷をして、大がかりな皮膚移植手術を受けている。
 こうした身体的なトラブルだけではなく、アメリカの市民権を得ていたが、戦後初期にハンガリーの歌劇場で指揮をしていたために、マッカーシー旋風が吹き荒れていたときに、共産主義と関係があると疑われて、パスポートの没収にあったりしている。

 こうした事情が大いに影響したとおもわれが、歌劇場やオーケストラの常任指揮者になっても、あまり長く続かず、せいぜい数年で移動している。安定したポストに留まって、じっくり仕事ができたのは、最晩年のフィルハーモニア・オーケストラの常任指揮者となって以降で、大量の録音、しかも、ステレオで残すことができた。同年代のフルトヴェングラーが、ステレオ時代を迎えることが、なかったことを考えると、何度も大病を患ったにもかかわらず、比較的長生きできたことは、幸いだった。日本にも、晩年のフィルハーモニア時代の録音が知られるようになった。
 しかし、若いころの活動をみると、晩年の録音のレパートリーとはかなり印象が異なる指揮者だったことがわかる。それは、現に生きている作曲家の新作を多く指揮していたことである。まだポストを得られる前の時期に、マーラーに会い、「復活」の舞台裏の指揮を任され、マーラーに激賞されたことで親しくなり、一般にマーラーの弟子といわれているが、作曲家との親交は、マーラー後も続いたわけだ。自身が作曲もしているので、同時代の作曲家とは感覚的にも近かったのだろう。あまり同時代作曲家の作品を取り上げなかったカラヤンとは対照的だ。
 しかし、晩年のフィルハーモニアとの大量の録音のなかには、同時代の作品は、あまり入っていない。古典派、ロマン派の作品が大部分を占めている。
 
 こうした人生の荒波のためか、精神的な疾患をかなり晩年まで抱えていたためか、演奏スタイルは、かなり大きな変化があったらしい。私自身は、たくさんのオーケストラの演奏を聴いていないので、判断ができないのだが、有名な事例としては、マーラーの「復活」の演奏だ。7,8種類の録音があるそうだが、あらゆる「復活」の録音なかで、もっとも演奏時間が長いのも、短いのもクレンペラーの演奏であることは、間違いないようだ。差が40分あるという文章を読んだ記憶があるのだが、ひとつの交響曲の演奏時間が、40分も違うというのは、あまりに違い過ぎるから、20分の間違いかも知れない。最速といわれるコンセルトヘボー・オーケストラとの演奏が70分で、比較的ゆっくりとされるフィルハーモニアが80分だから、40分の差というと、110分かかることになる。ただし、20分の差というのも、同じ指揮者の演奏時間としては、かなり異例な相違だ。オーケストラの特質やホールの響き、そのときの指揮者の気分によって、テンポが変わるのだろうが。
 若いころの演奏は、比較的速いテンポが多かったとされるが、晩年は、椅子に座っての指揮や、身体の衰えなどのために、テンポが遅くなったといわれている。
 しかし、今回いくつか聴きなおして感じたのは、遅いのは古典派に多く、ロマン派の音楽は、それほど遅くもない場合がけっこうあることだった。そして、古典派、特にベートーヴェンは、遅くがっしりした重量戦車のような歩みのものが多いが、ロマン派の演奏は、これまでのイメージとは違っていた。HMVの解説記事では、感情移入などには見向きもしない、無骨さを前面に押し出した演奏ばかりのように書かれているが、耽溺的な感情移入はないにしても、叙情的な音楽では、十分に叙情性が表現されている。意外だったのは、チャイコフスキーがよかったことだ。むしろ、アバド、シカゴの「悲愴」のぼうが、無骨な感じで、チャイコフスキーらしさに欠けている。
 
 題名の晩年のクレンペラーは、フィルハーモニアというオーケストラで、存分に指揮活動と録音をすることができ、しかも、オペラやコンチェルトの共演者は、いつもEMIとして可能なベストメンバーが集められた。だから、オペラの録音でも、キャストの弱点が見当たらない演奏ばかりだ。そういう意味で、幸せな最晩年を送った指揮者といえるだろう。
 だが、真相はわからないが、最晩年にトラブルがあったという。
 身体の弱ったクレンペラーが倒れた場合を想定して、第二指揮者が必要と考えたオーケストラが、アバドに依頼した。アバドは快諾したのだが、自分の座を奪われるのではないかと恐れたクレンペラーが猛反対して潰れたというのである。しかし、そのあと、どのくらい経過していたかはわからないが、やはり、同じような意味でムーティに依頼したところ、クレンペラーも受け入れ、そして、クレンペラーの死後、ムーティがフィルハーモニアの指揮を引き継ぐわけである。
 これが本当なら、生涯トラブルの多い指揮者だということになるが、いくつか不自然なところがあり、クレンペラーの意向でアバド案が潰れたのかはわからない。というのは、フィルハーモニアというオーケストラは、EMIの中心的なディレクターだったレッグが創設したもので、EMIの最も重要なオーケストラのひとつだった。しかし、アバドはドイツグラモフォンやデッカに録音していたので、EMIが難色を示した可能性もある。ムーティは既にEMI中心だったから、問題なかったので、クレンペラーの意向より、会社の都合だとも考えられなくもない。
 
 かなりのステレオ録音を残してくれたことは、よかったが、残念なことは、オペラ、特にワーグナーとひとのみ、ベルク、バルトーク、シェーンベルクなどのオペラを録音しなかったことだ。ワーグナーは、指輪の録音計画か走り出していたが、ワルキューレの一部で終わってしまった。EMIは、戦前のワルター、戦後のフルトヴェングラーとクレンペラーと、3大巨匠、いずれも指輪はワルキューレだけで頓挫してしまった。完成させたのはずっとあとのハイティンクだった。
 マーラーは、演奏しなかった交響曲が少なくないということだが、ワルターも6番は一度も演奏しなかったとか。弟子だと、かえって「全部」とはならないのかも知れない。マーラーは、すべて名演だ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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