『教育』2021年10月号を読む 山田哲也「教員世界の地殻変動」

 『教育』2021年10月号の特集1は「教職員が楽しく働ける学校へ」である。同様の特集は、過去何度も行なわれている。それだけ、教職員が楽しく働けない現状があるということだろう。今回の特集でも、新任の最初の職場で、生徒たちに振り回され、懸命に生徒たちに入っていこうとして奮闘しながらも、先輩教師や管理職には適切な助言がえられず、結局一年を待たずに休職し、そのまま退職してしまった教師の手記が掲載されている。公立小中学校が、国内で最もひどいブラック職場であることは、多くの人に指摘され、広く知れ渡るようになってきた。しかし、文科省の対策は、かえってブラック度を強めこそすれ、問題解決の方向にはほど遠いものでしかない。
 そのようななかで教育科学研究会は、そうした職場でも最大限よい実践を行ないたいと努力している教師や、その方法を見いだそうとしている教育研究者の研究組織である。そして、今回の特集は、その努力の一端と見ることができる。巻頭論文は山田哲也氏の「教員世界の地殻変動」で、伝統的な教員文化が変容しつつあり、ある意味困難は増大しつつあるものの、その変動のなかに、「楽しく働ける学校」に発展する芽を探ろうとするものである。その個々の記述には、ほとんど頷くことができるのだが、しかし、構造的に理解するとき、違和感を感じざるをえない点がある。

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日本は本当に能力主義社会か9 中教審46答申の検討2 高等教育

 かつて文部省は、高等教育の内容については、ほとんど口を挟まなかった。中心は初等教育と中等教育だったのである。その伝統は、この46答申でも、完全には払拭されていない。1960年代の末に、大学紛争が荒れ狂い、東大と東京教育大の入試が中止となる事態にまで発展していたために、大学管理に関する臨時措置法で、大学管理に強い介入を行なったことから、次第に大学への政策的関与を強めていく傾向は生じていた。この46答申でも、わずかに積極的な提言がみられ、実現されたものもあった。
 しかし、最初に提起される高等教育の多様化政策は、現存の高等教育の種類をそのまま追認したものに過ぎない。以下のように分類するというのだ。
 第1種の高等教育機関(大学) 3~4年程度  総合領域型・専門体系型・目的専修型
 第2種 (短期大学) 教養型・職業型
 第3種 (高等専門学校)゛ 
 第4種 (大学院)3年程度の高度の学術の教授と社会人への再教育
 第5種 (研究院) 博士の学位にふさわしい高度の学術研究
 それまでは、ほとんどの場合大学院修士課程のあとに博士課程が続く制度だったが、最初から修士(大学院)と博士(研究院)を分けた制度を構想した点が新しいが、しかし、実際にそのように改変した大学院は、少数だった。
 

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新学期授業再開での保護者の対立

  Newポスト・セブンの記事で「デルタ株蔓延で進む校内の分断 親が登校派と休校派に分かれて互いを罵倒も」が非常に興味深い。単純にいうと、新学期が始まって、保護者の間に、登校派と休校派がでてきて、激しく罵りあうだけではなく、教員も巻き込んでの混乱が生じているというものだ。
 
 おそらく当事者たちは真剣なのだろう。最初の対立は、オリンピック・パラリンピックの学校連携観戦の実施をめぐってだったようだ。これは確かに、親のアンケートなどをとっていたので、行政が親を巻き込むことにもなった。そして、結論が正式にでるまでに二転三転したし、また、特にパラリンピックは自治体間の相違もあった。

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日本は本当に能力主義社会か8 中教審46答申の検討1

 1966年の答申が出たあと、日本だけではなく、国際的に教育に大きな問題提起をするような事態が生じた。それは1960年代後半、パリのカルチェ・ラタンで起こった青年運動である。それは、瞬く間に先進国に広がり、日本でも大規模な大学紛争が起きる。アメリカでは、学校教育に対する根底的な批判と新しいオルタナティブ教育をめざす学校が創設されていく。そうした青年運動の中心的な問題意識は、既存の学校教育への疑問であった。だから、大学だけではなく、高校や中学にまで影響を及ぼしたのである。
 日本では、高校や大学の進学率があがったが、激しい受験競争が伴っていた。不合格者の自殺者まで出た時代だった。また、高度成長が進んで、国民生活が豊かになった反面、その歪みも目立って来た。特に、都市部における公害は酷く、各地で公害反対運動が激化していた。そして、経済審議会答申が指摘していたように、国際社会・経済における日本の位置に変化が生じ、追いつき型から、創造的な技術開発が求められる状況になってきたと、認識され始めていたのである。

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日本は本当に能力主義社会か7 中教審後期中等教育答申の検討

 経済審議会の答申が1963年1月にでて、文部省は、同年6月に中教審に「後期中等教育の拡充整備について」という諮問を行う。理由として掲げられているのは、科学技術の革新、それに伴う社会の複雑高度化、各種人材の需要等に対応すること、そして、そのために、国民の資質と能力の向上を図るための適切な教育を行うためということをあげている。そして、検討すべき問題点として、
1期待される人間像について
2後期中等教育のあり方について
をあげている。そして、1966年10月に答申がだされたわけである。時期的にみれば、経済審議会の答申を受けて、文部省が「中等教育の完成」に対応する施策をまとめたことになるだろう。中教審の会長は、森戸辰男だった。森戸は、戦前東大の助教授だったときに、執筆した論文が問題とされて東大を追われた人物であったが、おそらく、戦後は、戦前的なリベラリストとして、政策立案に関わることになったのであろう。そして、次の戦後中教審の最も重要な答申といわれる46答申(1971年)をまとめることになる。

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日本は本当に能力主義社会か6 経済審議会答申の検討3 中等教育の完成

 人的能力の開発政策は、教育面においては、ハイタレント要請と中等教育の完成がふたつの柱になっている。今回は、中等教育の完成について、検討する。
 教育訓練の側における能力主義の徹底といっても、それぞれ多様な個性・資質・能力があるから、それに応じた教育は、画一的なものではなく、コースの多様化、進級・進学の弾力化、ガイダンスの強化、試験制度の改善等が必要であるとする。そして、これに、中学で学校教育を終える者のために、その後も何らかの制度的な教育を与えることが、中等教育の完成ということである。ヨーロッパでは、義務教育を終えて、次の全日制の学校に進学しない者は、成人に達するまで、週2回程度学校に通う義務就学の規定があり、企業もそれに協力する必要がある、という体制をとっている国が少なくない。答申の提言は、成人に達するまでではなく、高校教育の終了程度までを想定している。(もっとも、今後日本でも成人年齢が18歳になるから、この制度を実現すれば、成人に達するまでは、すべての者が教育をうける義務をもつことになるのだが、現時点では、そうした政策案は提示されていない。)

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日本は本当に能力主義社会か5 経済審議会答申の検討2 ハイタレントとは

 経済審議会答申の中核は、ハイタレント養成であるように受け取られている。そこで、答申のハイタレントとは、どういう存在なのか、その養成のために何が必要だと提言しているのかを確認しておこう。前回は答申本文を扱ったが、本文のあとに、各分科会報告があり、教育に関係するのは、「養成訓練分科会報告」であり、ここで、ハイタレントを扱っている。
 
 まず、何故ハイタレント養成が必要か。社会的要請と、それに応えられない現状の問題というふたつから主張されている。
 必要性は、日本経済の構造変化であり、新しい経済・技術状況への対応が必要だという点にもとめている。そして、その対応には、自主技術を確立する必要がある。つまり、その後もさんざんいわれ続けたことであるが、追いつき追い越せ型の経済では、欧米の先進技術を学び、それを改良することで、国際競争に参加することができた。しかし、今後は、自主的な技術を開発していかなければ、日本経済が成り立っていかないという危機意識である。この答申では、あまり触れられていないが、結局、その後強力になってくるNIESなどに、既存技術の面では、逆に追い越されてしまい、既存の領域では、むしろ敗北してしまうことになる。実際に、この危機意識は、その後の日本経済の停滞によって、証明されたといえるのである。しかし、当時はまだ高度成長の真っ只中であり、日本の国力がどんどん伸びていた時代だから、こうした、あまりに長期的視野にたった提言は、なかなか理解されなかったともいえる。

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日本は本当に能力主義社会か4 経済審議会答申の検討1

 能力主義を日本の社会と学校教育にもたらしたのは、1963年に、経済審議会が答申した「経済発展における人的能力開発の課題と対策」である。それ以外にも、いくつもの答申が重ねられ、中教審でも、呼応する答申があるが、まずは、中心的な位置を占めていると認識されていたこの答申を、じっくり読み返してみることにした。
 当時、日教組やそこに結集する学者たちにとって、この答申は、完全に批判の対象であり、乗りこえるものだった。しかし、その批判は、特に教育学の面では、一面的だったように、今では感じられる。この答申が、着実に実行されたから、日本社会が格差社会となり、さまざまな社会問題や教育問題を喚起したのではなく、むしろ、歪んだ実行や実行されない部分があったために、問題が噴出したという見方も成立するように思うのである。(*1)そこは、今後検討するとして、今回は、この答申には、どのようなことが提言されていたのかを確認しておくことにする。

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パラリンピック学校連携観戦への疑問

 パラリンピックが始まり、オリンピックではほとんど中止された学校連携観戦が、かなり減ったとはいえ実施されている。オリンピック開始時とは比べ物にならないほど、コロナの感染が拡大しているにもかかわらず、学校連携観戦が強行されているようにみえる。そして、強行であることからくる、いかにもおかしな対策が取られている。そして、ましなことだと思われることでも、批判されたための後追い策になっている。
 例えば、当初公共交通機関を使用して、ひとつ前の駅で降りてから徒歩で会場にくるようにという指示だった。それは、最寄りの駅は、観客が多く利用するので、子どもたちは歩けということだった。この炎天下に、本当に歩かせていたら、かなりの熱中症患者がでただろう。それが、貸し切りバスを使用することが認められた。無観客になったからだ。しかし、駐車場等が使用可能かどうかはわからない。主な会場の周辺は、厳しい道路制限が実施されているから、会場によるようだ。

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日本は本当に能力主義社会なのか2 日本経済の停滞と二世政治家

 能力主義原則は、近代社会の原則のひとつであり、古代や封建時代への復古主義者でもない限り、だれでも原則的には積極的に認めるものである。しかし、他方、その弊害もずっと指摘されていた。そうした検討は、次回以降に譲るとして、今回は、能力主義が、日本では徹底しているどころか、軽視されていることを示す。
 
 まず次のグラフをみてほしい。

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