「鬼平犯科帳」平蔵は盗みをしたことがあるか

 シャーロック・ホームズは、ときどき犯罪者と対抗するためだが、違法な行為をしている。とくに、悪質な脅迫魔として、何人も人々の運命を台無しにしたミルバートンの屋敷に忍び込んで、書類を処分したのは、不法侵入であり、また、文書を盗んだも同然だろう。さすがのワトソンも、この試みの前には、賛成できないことをシャーロック・ホームズに主張している。ホームズは、庭師に化けて屋敷に雇われ、ここの女性の雇い人と婚約までして、内部の情報を聞き出す。そして、絶対にミルバートンが寝ているときに、侵入するのである。しかし、このときミルバートンは約束があり、おきていて、ホームズたちが侵入した部屋にやってきて、ぶらぶら過ごしている。そして、そのうち約束の女性がやってきて、ミルバートンを銃で殺害してしまう。そして、彼女が去って、混乱している間に、書類を全部燃やしてしまい、逃れるのだが、ワトソンは捕まりそうになり、そのときワトソンは人相を見られてしまう。翌日警部がやってきて、人相を語るが、いかにワトソンに似ていても、ふたりが侵入犯と思われるはずもなというわけだ。
 では、平蔵はどうなのか。ホームズは創作の人物だが、長谷川平蔵は実在の人物であり、旗本の身分だから、盗みなど実際にはしなかっただろう。しかし、小説のなかでは、なかなか微妙に書かれている。

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抽選で選ぶ 日本人の感性なのか

 私が所属している市民オーケストラは、毎年12月に市民合唱と合同の演奏会を行う。合唱団と一緒ということは、当然大規模な合唱曲を演奏するということだ。代表的にはベートーヴェンの第九だが、これは3年か4年に一度行い、その間に、毎年違う曲目をやるわけだ。今年は、コロナのためにのびのびになっていたロッシーニの「スターバト・マーテル」を演奏することになっている。
 合唱団は、毎年応募で年ごとに編成するのだが、ずっと、希望者全員を、よほどのことがない限り受け入れてきた。しかし、コロナの影響で、大人数はまずいということになったのか、私は運営ではないのでわからないのだが、コロナ以降の復帰である昨年の第九で、人数制限をすることになった。そして、定員をオーバーしたときには、抽選をします、ということになっていた。そして、それは今年も踏襲された。
 
 私はこの抽選方式に、ずっと違和感を感じている。抽選は、一見公平なようでいて、非常に不公正な方式ではないかと思うのである。もちろん、選抜するもとの人々が決まっていて、そのなかからだれかを選ぶ、しかも、メンバーであれば、基本的にだれでもよい、というときには、抽選もいいかもしれない。古代ギリシャでは、公的な役職を抽選で選んだという。現在の裁判員も一種の抽選である。しかし、外部からの募集で、希望を募ってメンバーを構成するときに、抽選は非常に不公正だと思うのである。

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日本テニス協会は何のためにあるのか

 テニスの全仏オープンで、ボールをボール・ガールにあててしまって、失格(さらに賞金とポイントの剥奪、そして罰金)となった加藤選手に対して、「処分は受け入れざるをえない」という声明を、日本テニス協会がだしたということで、ネット上ではたいへんな批判が巻き起こっている。私も、「テニス協会」って、なんのためにあるのか、と疑問をもたざるをえなかった。ルールにしたがって、ということらしいので、どのように説明されているのかを、元のものを見る必要があると思った。テニス協会のホームページにいくと、たしかに、以下のような声明文があった。全文を引用しておく。
 
加藤未唯選手が、困難な状況を乗り越え、全仏オープンのミックスダブルスで優勝しました。
日本テニス界にとっては、昨年の柴原瑛菜選手に続く快挙です。加藤選手のプレー、そして
ティム・プッツ選手とのコンビネーションは、とても素晴らしく感動的でした。温かい
ご声援を頂いた日本中のファンの皆さまには、心より感謝申し上げます。

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自衛官候補生による銃撃事件 おどろいたこと

 実弾射撃訓練中の新人自衛官候補生が、指導的立場の自衛官3人に発砲し、2人を死に至らしめ、1人に重症を負わせる事件が起きた。自衛隊内部の銃撃事件は40年ぶりだそうだ。もちろん、事件そのものにも驚いたが、もっと驚いたのは、高校卒業後まだ2カ月しかたっておらず、正式の自衛官でもない候補生が、実弾射撃を実際にするのだという事実だ。自動車教習所で、法令も学ばす、運転の心構えなども充分に講義されないうちに、路上教習にでるようなものではないだろうかと思ったものだ。
 高卒1カ月では、本人がどのような人物であるかもわからない段階ではないだろうか。もしかしたら、精神疾患を抱えているかもしれないし、入隊に際して、人物調査はするのだろうから、人格的な問題はないということになっているのかもしれないが、調査だけではわからないことがあるだろうし、実際に、ともにある程度共同生活をしてこそ、わかることがある。そうした一定期間の観察期間のあとで、実弾を扱うようになるのかと思っていた。しかし、今回は4度目の訓練だったというのだから、本当に早い時期から訓練が始まるのたろう。

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五十嵐顕考察20 戦争責任2

 関係ないことから書くが、昨日は五十嵐著作集の編集委員会で一日でていた。だから、このブログを書く時間がほとんどなかった。しかし、毎日書くというノルマを課しているので、結局、電車のなかとか、昼食を食べているときに、カフェに陣取って、スマホで書いた。実はスマホで文章を書くのは初めてだった。以前、ゼミの学生で、通学の電車の行き帰りで卒論をだいぶ書いた者がいて、そんなこと可能なのかと思っていたが、スマホの日本語入力は、私がパソコンで使っているものより、何倍も優れていて、長めの文書を書いていると、入力の途中で、どんどんそのつもりの変換が示されて、速く書くことができる。もちろん、パソコンには及ばないが、意外と書けるものだとおもった。
 さて、戦争責任論についての続きだ。五十嵐は、終戦後1年後に、帰国している。だから、東京極東軍事裁判などの進行はリアルタイムでみることができたから、はっきりと知っていたとおもわれるが、東京裁判についての言及は、私がこれまで読んだなかでは、ほとんどない。逆に、東京裁判に充分意識がいかなかったことを反省しているくらいだ。前回書いたように、日本に対して行われた裁判については、学徒動員されて処刑された木村がほとんど唯一の関心で、五十嵐が言及した「わだつみ」関連の戦死者のほとんどは、戦死ないし野戦病院での病死である。

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五十嵐顕考察20 戦争責任問題1

 五十嵐は戦争責任について問題にし続けた。しかしその重点は変化した。
 当初は戦前の軍国主義への批判であった。専門の財政学の観点でも有効な批判をした。たとえば義務教育費の国庫負担をしたとき、あわせて思想取り締まりの部局を文部省は設置した。これは国家が必要な政策をとりつつも軍国主義を進めるという両面の事実を指摘する優れた分析だった。当初、地方に義務教育の費用までも負わせていたのを、調整という合理的な目的があるにせよ、国家が補助をするという形をとって、教育費を国家管理するようになり、そのことによって、国家の観点から重視したい分野に多く配分できる体制を構築していったわけである。思想局を設置するというのは、極めて例外的な、しかし露骨な教育費を媒介にした国家統制であった。そうした財政の流れを的確についていたわけである。

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ウクライナのダム破壊はだれが 舛添氏の議論

 舛添要一氏が、ウクライナのカホフカダムをウクライナとロシアのどちらが破壊したのか、について、論文を書いている。「【舛添直言】ウクライナのダムを破壊したのは誰か、双方が情報操作で火花」
 結論をいえば、どちらとも断定はできない、わからないというべきだというのだ。そして、そのあと、この戦争は激しい情報戦が行われており、どちらの情報も自軍に有利なように、嘘・でたらめを平気で流すのだということを、断定できないことの補強としてだしている。その例として、ノルドストリームとノルドストリーム2のパイプラインが損傷したことをあげている。この事例では、ほとんどの日本人は、ロシアがやったと信じたが、実はアメリカがやったという説がでてきて、アメリカは公式にはその説に対してコメントしていない。だから、ロシアではなくアメリカと考えられるのだというわけだ。そして、全体のニュアンスとして、そのパイプラインの例によって、ダム破壊もウクライナがやったのではないか、と言いたげなのだが、結論は先述したように、「わからない」である。しかし、「わからない」と主張するために、文章をわざわざ書くのだろうか。私のような勝手なブログではなく、列記とした商業的な場である。
 
 さて、パイプラインの件だが、日本人はほとんどがロシアがやったという説だったというが、私は、結論的には、ロシア説に傾いていたが、若干ではあるが疑問を呈した。

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0歳児の保育・育児

 保育園で、0歳児にすりリンゴを離乳食をとしてあたえたところ、そのあと昼寝中に死亡する事故があった。その事故関連のことではなく、その際に考えたことがある。
 近年は医療の発達で、以前なら死亡してしまう人が、赤ちゃんであれ、高齢者であれ、死なずにすむことが多くなっている。だから、0歳児が死んでしまうことは、滅多に起きないが、実は、数十年前までは、生後1年未満で亡くなる子どもは、少なくなかったのである。私が子どもの頃住んでいた家のとなりは、ある会社の社長が住んでおり、とても豊かであったし、長男は健康優良児のコンテストで入賞したような赤ちゃんだった。しかし、一歳になる前に、死んでしまったのである。事故ということはなかった。おそらく、自然の摂理として、弱い子どもは0歳までで亡くなり、1歳の壁をくぐり抜けた者は、長く生きられるというような自然の仕組みがあったのかも知れない。医療は、その壁を人為的にかなり破ったのだといえる。
 しかし、そうはいっても、0歳がまだまだ安定した状態ではないことは、まちがいないのではなかろうか。

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リチャード・ボニング 評価されない指揮者だが

 国際的に活躍している、あるいはしていた指揮者は、ほとんどが熱烈なファンがいるものだが、リチャード・ボニングが好きだという人は、あまり聞かない。というか、まったく聞いたり、読んだりしたことがない。そして、CDの批評でも、ボニングの指揮を誉めたレビューはほとんどなく、指揮者がボニングでなければ、名盤になっていたのに、というようなレビューすらある。経歴をみても、オペラ指揮者ではあるが、有名オペラ劇場の音楽監督になったことはないようだ。しかし、オペラファンには名前はよく知られているし、また、CDの録音も多数ある。だから、レコード会社からは、有力指揮者として遇されていたことはまちがいない。
 では、なぜ、評価が低く、また人気があるとはいえないのか。そして、本当に実力のない指揮者だったのか。

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遊びは権利か? 2

 では、遊びは権利ではなく、何なのか。それは、通常の人間がだれでももっている欲求であるから、欲求を満たすために、だれでも自分の意思で行うものであり、権利・義務関係とは無縁であるべきだということだ。遊びの定義は、いろいろとあるが、私なりにまとめると「自分のやりたいことを、自分の意思で(他人からの誘いからでもよいが、最終的には自分の意思で)行うこと」である。仕事と別に考える必要もないし、そのことによって、リラックスできること、などでなくてもよい。多くの人にとっての理想は、遊びを仕事として、それで生計がたてられることだろう。ニューヨークフィルの常任をおりて、フリーとして主にヨーロッパで指揮活動をするようになったバーンスタインは、自分の指揮活動は、すべて遊びだ、だから、ギャラはすべてアムネスティに寄付する、といって、アムネスティに振り込むようにさせていたという。「ウェストサイド・ストーリー」で一生贅沢をして暮らせるだけの資金を獲得しているので、やりたいことだけを指揮者としてやる、ということだった。

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