「鬼平犯科帳」平蔵は盗みをしたことがあるか

 シャーロック・ホームズは、ときどき犯罪者と対抗するためだが、違法な行為をしている。とくに、悪質な脅迫魔として、何人も人々の運命を台無しにしたミルバートンの屋敷に忍び込んで、書類を処分したのは、不法侵入であり、また、文書を盗んだも同然だろう。さすがのワトソンも、この試みの前には、賛成できないことをシャーロック・ホームズに主張している。ホームズは、庭師に化けて屋敷に雇われ、ここの女性の雇い人と婚約までして、内部の情報を聞き出す。そして、絶対にミルバートンが寝ているときに、侵入するのである。しかし、このときミルバートンは約束があり、おきていて、ホームズたちが侵入した部屋にやってきて、ぶらぶら過ごしている。そして、そのうち約束の女性がやってきて、ミルバートンを銃で殺害してしまう。そして、彼女が去って、混乱している間に、書類を全部燃やしてしまい、逃れるのだが、ワトソンは捕まりそうになり、そのときワトソンは人相を見られてしまう。翌日警部がやってきて、人相を語るが、いかにワトソンに似ていても、ふたりが侵入犯と思われるはずもなというわけだ。
 では、平蔵はどうなのか。ホームズは創作の人物だが、長谷川平蔵は実在の人物であり、旗本の身分だから、盗みなど実際にはしなかっただろう。しかし、小説のなかでは、なかなか微妙に書かれている。

 実際には、不幸な少年時代を送ったはずはないが、小説では継母に徹底的にいじめられ、家を飛び出して、風来坊のような生活をしていたことになっている。しかし、そうした若いころを回想しても、父親を困らせることは絶対になかった、だから、犯罪に手を染めることはなかったとたびたび書かれている。
 そして、唯一の例外として、「泥鰌の和助始末」で盗みにくわわる寸前までいったとされる。平蔵が二十歳のころ、彦十から盗みの手伝いに誘われる。お金にもこまっていたので、岸井左馬之助といっしょに参加することにする。そしていよいよ約束の場所(乗り継ぎ)のところにいくと、3人が舟にのってやってきて、乗ろうとすると、なかの一人が、平蔵の覆面をとり、さんざん平蔵をなぐりつける。実は、平蔵たちが通っていた高杉道場にしばらく前にやって指導していた松岡重兵衛だったのである。旗本の息子である平蔵の将来を思って、やめさせたわけだ。実は、この松岡が久しぶりに盗みに加担する物語が、この「泥鰌の和助始末」である。和助と重兵衛が、助けを依頼した盗賊にだまされて殺されて、分け前を横取りされてしまうという、何か不自然な進展の話なのだが、とにかく、若いころに、一度だけ盗みに加担しそうになったことがあるが、寸でのところで、重兵衛によって説教されつつ、思い止まったという話になっている。ところが、これは第7集だが、22集の長編「迷路」では、正真正銘平蔵は盗みを手伝った過去が語られる。
 平蔵が若かったころ、無頼御家人の木村惣市の所業があまりに酷いので、切り殺してしまう。このため、幕府内でも問題となり、能吏だった平蔵の父信雄のため罪に問われなかったが、一時長谷川家の迷惑にならないように、勘当されていたという。つまり、初期の、父の迷惑になることは一切しなかったというのと、反することが書かれている。そして、この惣市の息子が源太郎といい、極道になっていたが、とくに父親が殺されたことを平蔵に恨みをもつことがない代わりに、盗みを手伝えと持ちかけ、父親を殺してしまった手前、一度平蔵は盗みを手伝ったことになっている。そして、一度だけという約束にもかかわらず、二度目が要求されたとき、平蔵は源太郎の右腕を切り落としてしまう。そして、この源太郎が、30年ちかくたって、平蔵に復讐しつつ、江戸を荒し回り、平蔵を窮地に追い込むのが、22集の長編「迷路」である。江戸中が混乱し、有効に対応できない平蔵は、事実上解任状態になるのだが、その時点では、平蔵は源太郎をつきとめて、逮捕にむかっており、最後の捕縛だけは目をつぶってもらう形での逮捕劇になるというきわどさまで追い込まれてしまったわけだ。
 つまり、当初は、盗みをしたことがない設定だったが、話を盛り上げるためか、ついに、池波は、盗みの過去があり、その際の出来事が、江戸中を恐怖に貶めた盗賊の暗躍事件を引き起こしたことにしたわけだ。
 
 時期的には、ずっとあと、つまり、平蔵が火盗改になったあと、休職のような形で、京都にいくことになるが、その途中で、善八と名乗る盗人と知り合いになり、盗みの秘伝という書物(善八が作者)を見せられ、後継者になってくれと頼まれる。そして、悪徳酒屋に盗みにはいるのを、事実上手伝うことになる。たいしたことはしていないが、たしかに善八と行動をともにしているから、捕まれば、盗みに加担したことになってしまうだろう。もっとも、そのあと、善八に身分を明かして、今後盗みをやめるように説得するのだが、池波は、いろいろな平蔵イメージを試していたのではないかと思われる。この京都行きで起きるさまざまな事件は、あまりリアリティがないのだが、それは、この平蔵像を模索していたからではないか。
 「鬼平犯科帳」は、24集の5話で終わっているので、最晩年の作で、平蔵の過去の盗み話をつくっている。これは、ネタ切れをなんとかしようかと、思いきった構成にしたのかも知れない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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