抽選で選ぶ 日本人の感性なのか

 私が所属している市民オーケストラは、毎年12月に市民合唱と合同の演奏会を行う。合唱団と一緒ということは、当然大規模な合唱曲を演奏するということだ。代表的にはベートーヴェンの第九だが、これは3年か4年に一度行い、その間に、毎年違う曲目をやるわけだ。今年は、コロナのためにのびのびになっていたロッシーニの「スターバト・マーテル」を演奏することになっている。
 合唱団は、毎年応募で年ごとに編成するのだが、ずっと、希望者全員を、よほどのことがない限り受け入れてきた。しかし、コロナの影響で、大人数はまずいということになったのか、私は運営ではないのでわからないのだが、コロナ以降の復帰である昨年の第九で、人数制限をすることになった。そして、定員をオーバーしたときには、抽選をします、ということになっていた。そして、それは今年も踏襲された。
 
 私はこの抽選方式に、ずっと違和感を感じている。抽選は、一見公平なようでいて、非常に不公正な方式ではないかと思うのである。もちろん、選抜するもとの人々が決まっていて、そのなかからだれかを選ぶ、しかも、メンバーであれば、基本的にだれでもよい、というときには、抽選もいいかもしれない。古代ギリシャでは、公的な役職を抽選で選んだという。現在の裁判員も一種の抽選である。しかし、外部からの募集で、希望を募ってメンバーを構成するときに、抽選は非常に不公正だと思うのである。

 このようなときに、選抜方法は、基本的には3つあると思う。
 第一は、このような抽選。第二は、応募順(先着順)、第三が、なんらかの方法で資質を調べ、資質のある人をとる、という3つである。入学試験や入社試験は、まず例外なく第三の方式をとるだろう。大学の水準や企業の成果は、構成する人材によって左右されるから、求める資質があるかどうかを、重要な判断基準にするのは当然だろう。それに対して、なにか商品や賞金を、自由な応募のなかなから当選者を選ぶ場合には、多く抽選の方式がとられる。これは、応募者といっても、かなり広い範囲、日本全国から応募可能にしていることがほとんどであり、かつ一定の期間を設定する場合、期間までに応募できるし、応募者の資質等はまったく問題にしないという点で、受け入れられやすいからであろう。ある商品の宣伝的意味をもたせ、熱心な購買者を有利にしたり、あるいは有利になりたい、というのであれば、多数応募(葉書を何枚もだす)などの手段が排除されない。
 しかし、合唱団のメンバーというのは、どうなのだろうか。私が疑問に思うのは、もともと、もらえる可能性が極めて低い、そうした応募と、多くの人が外れるわけではない合唱への参加とは違うのではないかと思うのである。しかも、合唱への参加は、熱意は重要だろう。熱意のある人が、早くだしたのに抽選にもれたら、ひどくがっかりするのではないか。私が考えたのは、そんな方式にしたら、あまり応募は増えないのではないかということだったが、案の定、この2年間、定員より下回る応募しかなかった。第九は例年の半分以下に定員を絞ったにもかかわらずである。私の感覚では、先着順で、定員をオーバーした場合には、お断りすることがあります、ということになっていれば、急いで応募しようという気になり、抽選でおちたらどうしよう、などという心配をすることもない。迷っていて、遅れてしまい、オーバーになったといわれても、それほど不快感はもたないだろう。自分が遅れたのだから、仕方ないと思うに違いない。
 
 もう大部前になるが、公立の義務教育学校、つまり小中学校でも、学校選択ができるようにしよう、という動きがあり、そのための審議会にはいったことがある。私は学校選択論にたっているので、大学の同僚が推薦してくれたようなのだ。そして、学校選択に賛成する立場が多数であった(というより、そういう人が集められたのだが)ので、そのことはすんなり決まったのだが、定員をオーバーしたときの方式が議論になった。私がよく知っている、全国で学校選択を実施しているオランダが採用している先着順(もれた人はウェイティングリストに載せてもらうか、諦める)が、公正だと思っていたので、そう主張すると、私からすると意外だったが、ほとんどのひとが、抽選がいいというのだ。実際に、抽選になったし、また、学校選択を実施した自治体のほぼすべてが抽選にした。学校を選ぶということは、積極的にある教育を求める、ということだから、選択したひとから選抜するのを「偶然性」に委ねることは、おかしいと思うのである。やはり、熱心に求めているひとと、それほどでもないひととでは、結果に反映するような方式にすべきなのだと思うのだが、そういうことは、あまり考えないようだった。深く考えて抽選がいいというよりは、あくまで私の印象だが、こういうときは抽選でやるものではないか、というような感性があるように感じた。
 
 結局、抽選というのは、まったくの偶然に委ね、当人の努力や資質、意欲を考慮しない選抜方式である。こうして、何かをやろうという企画で、参加者の能力や意欲に大きく影響される事業を、意欲などを考慮することなく、偶然に委ねることが自然に、かつ広範に受け入れられているということは、やはり、前に私がかいていたように、日本は「能力主義」の社会ではないように思ってしまうのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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