保育園で、0歳児にすりリンゴを離乳食をとしてあたえたところ、そのあと昼寝中に死亡する事故があった。その事故関連のことではなく、その際に考えたことがある。
近年は医療の発達で、以前なら死亡してしまう人が、赤ちゃんであれ、高齢者であれ、死なずにすむことが多くなっている。だから、0歳児が死んでしまうことは、滅多に起きないが、実は、数十年前までは、生後1年未満で亡くなる子どもは、少なくなかったのである。私が子どもの頃住んでいた家のとなりは、ある会社の社長が住んでおり、とても豊かであったし、長男は健康優良児のコンテストで入賞したような赤ちゃんだった。しかし、一歳になる前に、死んでしまったのである。事故ということはなかった。おそらく、自然の摂理として、弱い子どもは0歳までで亡くなり、1歳の壁をくぐり抜けた者は、長く生きられるというような自然の仕組みがあったのかも知れない。医療は、その壁を人為的にかなり破ったのだといえる。
しかし、そうはいっても、0歳がまだまだ安定した状態ではないことは、まちがいないのではなかろうか。
1990年代の初頭にオランダに滞在していたときに、とても興味深いことに気づいた。国際的にも代表的な福祉国家であったオランダの子育て事情が、同じく代表的な福祉国家のスウェーデンとは大分違うことだった。よく知られているように、スウェーデンでは女性の労働率が90%代の後半であり、専業主婦がごく珍しい存在だった。そして、0歳から保育園にいれて、夫婦とも働きが普通の姿なわけだ。しかし、オランダ人は、そうした感覚とは多少違うのだ。もちろん、すべての人がそうだというわけではないだろうが、小さいころ、とくに0歳の間は、親が子育てをすることを選択する夫婦が多いし、それが好ましいと考えられているというのだ。ただし、だからといって、母親のほうが仕事をやめるとか、産休をとるというのではない。(そういうこともあるだろうが)
オランダは、当時既に、ワセナール協定という協定によって、ワークシェアリングが定着していた。ワークシェアリングとは、労働時間を減らすことによって、その分就職の機会を創出する政策で、その土台として、フルタイマーとパートタイマーの区別をなくしたのである。だから、フルタイマーとは週5日勤務することをいい、4日以内の人をパートタイマーというが、ただ、仕事の日数や時間が異なるだけで、社会保険の条件は同じであり、賃金は同一労働同一賃金の原則で、それぞれの職務におうじて単価は異なるが、時間に比例するものだった。
そして、0歳の間は親が子育てをするために、夫婦がそれぞれ労働日を交互にとり、夫が週3、妻が週2で勤務すれば、どちらかが家にいて、育児ができることになる。もちろん、収入はへるが、子どもができる前に目一杯働いていれば、その間に貯金するなどの準備ができる。1歳以降は、保育園にいれるが、それもいきなり週5ではなく、少しずつ増やしていくというようなやり方も可能だ。週何日働くは、本人と会社の契約なので、自由に変更可能なのである。
そういう方式をとる若い夫婦はけっこう多いということだったが、実際に、私たちが住んでいたとなりの家では、まさにその方式で仕事と子育てをしていたのである。
もちろん、どういう育児が理想的か、などという話ではない。それぞれ事情が異なるのだから、理想像を語っても仕方ないのである。むしろ、それぞれの考えかたや事情に応じて、適切な方式を選択可能で、それが実現できることが望ましいといえるだろう。すりりんごの事故で子どもを亡くされた両親は、食事には気をつかっていたようで、保育園に注文をつけていたようだ。それを保育園も受け取り、そのように努力したのだろうが、現在の保育士の配置状況では、なかなか個別の要求に完全に応じきることが難しいという事情があるのだろう。そういう不安があったけれども、保育園にあずけていたのは、またそうした事情があったに違いない。具体的にはわからないのだが。もし、0歳の間、つまり、通常の離乳食を問題なく食べられるようになるまでは、自分で育てたいと思っていたかも知れない。そういう場合には、それが可能になるような勤務形態を可能にする政策が必要なのではないかと思うのである。育児休職とか、育児時間の保障など、以前に較べればずいぶんさまざまな保障がなされるようになっているが、オランダのように、夫婦で勤務日を調整して、親が育児をすることを可能にするような制度があってもいいのではないかと思うのである。もちろん、オランダは、育児のためではなく、いつでも働く日数を調整できるのだが、日本では、やはり、法で決めないと、夫婦の勤務先が異なる場合の調整は困難になるだろう。
私が学生の頃は、集団保育がいいのか、家庭保育がいいのか、というような議論がずいぶんあったが、大事なことは、それぞれの考えや状況にあわせて選択できることなのではないだろうか。