クライスラー「美しきロスマリン」聴き比べ 髙木凜々子に共感

 今や押しも押されぬ大バイオリニストである五島みどりを、はじめて聴いたのは、15歳のときに日本で行ったリサイタルを、NHKが収録して放映したものだった。既に、音楽雑誌で紹介され、「五島みどりが京都で、ブラームスの協奏曲を弾いた」というような記事が出ていたのだが、まだ子どもなのにそんなに騒ぐのか、と思っていた。しかし、NHKの放送を見たときには、心底びっくりした。これが15歳の演奏家か、と。大人の演奏としても、唖然とするほど見事なものだった。そして、そのなかでも感心したのが、クライスラーの「美しきロスマリン」だった。それまでに、他の演奏でいろいろと聴いていたが、こんなに素敵な「美しきロスマリン」は初めて聴いたと思った。そして、音楽雑誌の評で、だれかが、五島みどりの「美しきロスマリン」を特別にすばらしかったと評価していた。早速、家にあったパールマンの演奏を聴いてみたが、何かつまらないのだ。あまりに整い過ぎた演奏だ。この曲では、控えめだが、自由にテンポが動くこと、あくまでも軽やかであること、そして、妙な強調をせずに、自然な躍動感があること、そして、上品であること、などが必要だ。テクニックはそれほど難曲ではないのだろうが、表現が非常に難しい。五島みどりの演奏は、それをすべてもっているように思った。

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コロナ用錠剤の早期の認可を

 コロナの感染爆発が続いており、酸素センターとか、パラリンピックの学校連携観戦、自宅療養者の死亡とか、多岐にわたった議論が行われているが、この第5波に限っていえば、不思議と出てこないのが、治療薬だ。入院することができれば、かなりの薬を投与することが可能になるので、かなりの確率で助かるようになっているが、入院できない人が東京だけで3万数千人もいるのだ。このなかで、死亡するひとたちが、今後増えてくることは間違いない。当然、病床の拡大、そして、野戦病院などが緊急に必要だと思うのだが、それと同時に、家庭で簡単に服用可能な薬が絶対に必要である。抗体カクテルがいかに有効だとしても、家庭で使用することは、極めて難しい。やはり、家庭での服用は錠剤である。そして、この議論が、5波にはいって、ほとんどなされていない。今こそ緊急に必要であるのに。
 実は、これまで錠剤としての薬の候補として、アビガンとイベルメクチンが話題になった。政府も表向きは、積極的な姿勢を見せているが、いまだに認可されていない。アビガンは、安倍首相が、昨年の5月中に認可したいと国会で述べていたにもかかわらず、いまだに認可されていない。イベルメクチンは、菅首相が積極的に推進したいというようなことを述べたが、同様に認可されていない。

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パラリンピックは中止すべき、パーソンズ会長の発言に怒りが

 オリンピックの開催については、事前にあれほど議論があったのに、パラリンピックについては、主要メディアは沈黙している。ネットでは中止論もあるが。オリンピック開催前には、コロナ感染は、東京で、7月始めの週平均感染者数(1日あたり)500人であるが、8月15日では4000人を超えている。しかも、8月になってからの公表された感染数は、以前にも増して、実際の数よりは、かなり低くなっていると想像できる。それは、陽性率の異常な高さ(4割を超える日がある)と、実際に積極的疫学調査を縮小するという都の方針がだされていることによる。陽性率4割で4000人という数字は、検査数を適切なだけ引き上げれば、1万とか2万人の感染があると想像できる数字である。積極的疫学調査をやめるのならば、感染数の実態をより正確に把握できる、別の方策を提示し、実行する必要があるが、そういうことはまったくしない。パラリンピックに対する反対が強くならないように、感染者数の見かけを少なくするための措置としか思えない。
 オリンピック開始前の中止論が盛んだったころよりも、感染は10倍以上に拡大しているのだ。にもかかわらず、メディアがなぜ、パラリンピックをやるべきか否かの議論すらしないのか。

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甲子園大会への疑問

 毎年、甲子園大会の季節になると、疑問が再燃する。甲子園大会というのは、日本のスポーツをだめにしている象徴だとすら思う。とにかく、あまりにひどい環境で行われている。これまでは、酷暑と日程が問題だったが、今年はそれに豪雨が加わっている。今日朝のニュースを見ていたら、昨日の甲子園の試合の模様が放映されていた。とにかく、酷い雨が降り続いているのに、試合が継続され、グランドが水浸しになって、痛烈なゴロか内野手の前で止まってしまうほどに、水たまりが大きくできており、とにかく泥水のなかでプレーをしている状態だ。投手が投げたボールが、捕手が飛び上がって取るような高い球になってしまう。いくらなんでも酷すぎると思っていたら、8回コールドゲームになった。ずっと大雨のなか、泥水のなか、8回までプレーさせたのだ。これなら、グランドでの50度でも、当たり前のように試合をすることは、なんとも思わないのだろう。無観客だから、ここまで引っ張ったのだろうか。とにかく運営する側の、選手に対する配慮の気持ちがまったく感じられないのだ。

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ロックダウンは間違った方法だ

 尾身会長が、ついにロックダウンを可能にする法改正を求めるかのような発言をしたと報道されている。しかし、この一年半、コロナと向きあってきて、政府そして、尾身委員会が、本当に意味のある提言をして、それを実行したということに思い至らない。唯一、ワクチン接種が始まったときに、そのスピードを途中からあげたことくらいか。そのワクチンすら、当初は非常に遅れて、欧米ではかなり進んだ段階で、日本はやっと始められたという体たらくだった。
 八割おじさんこと西浦教授の人流削減政策ばかり強調されて、本当に必要なことは、政策化されてこなかったわけである。それが今でも続いている。
 これまで何度も書いたように、必要なこととは
・検査と陽性者の隔離
・発症者の早期の入院治療
・ワクチン
・家庭で服用できる薬
 こうしたことが政治・行政で行うべきことである。国民は、マスク・三密を避ける・手洗いなどの感染予防を徹底すること。このように、両方がやるべきことをやっていれば、感染はかなり防げるし、また、発症しても、重症化を減らせる。

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アフガニスタンの首都陥落

 アメリカの完全撤退表明から、アフガニスタンの首都陥落まで、予想以上に速かった。まだ米軍の撤退が完了していない段階で、既にガニ大統領は他国に亡命してしまった。首都の混乱を防ぐためだなどと言っているようだが、もちろん、殺されないためだろう。もちろん結果としては、混乱が小さくなるし、タリバンとしても、わざわざ捕まえる必要もないに違いない。アメリカが再び介入してくる可能性は低いのだから。
 それにしても、この20年間は何だったのか。そういう疑問に駆られる人は多いはずである。実際に、ベトナム戦争からリアルタイムで、報道に接してきた世代の多くは、アメリカのアフガニスタン介入は、やがてはベトナムの二の舞になると予想されていた。そうした予想からすれば、意外に長くもったというべきかも知れない。国内の対立があると、国を保つことが、本当に難しく、国民が不幸になってしまう、典型的な例がアフガニスタンだ。

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張本のボクシング発言(再)

 張本が、女子ボクシングについて発言したこと、そして、抗議を受けての謝罪に対して、まだ非難が殺到しているらしい。今日のサンデーモーニングでの謝罪を見たが、あれも気にいらなかったようだ。最初にアナウンサーが謝罪を述べ、関口、張本というような順に謝罪していったのだが、謝罪はしていた。ただ、私は、どうも張本にしても、非難している側にも、疑問を感じるのである。前に書いたが、私はボクシングという競技に、スポーツ性を感じないので、商業的な格闘技として行うことには、とやかく言うつもりはないが、スポーツとしてオリンピックなどにいれることについては、大きな疑問を感じるのである。張本自身は、ボクシングが大好きな人間だ。張本への疑問はそこにある。

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8月15日に思うこと

 今日は「終戦記念日」ということになっている。しかし、日本が正式に終戦に至ったのは、8月15日ではない。9月2日、ミズーリ号での休戦協定を結んだ日である。事実、8月15日をもって、日本軍の軍事行動は止んだが、連合国には、まだ戦闘行為を継続している部隊があった。とくに、ソ連軍は日本人たちに対する攻撃をやめてはいなかったのである。すべての連合国軍が戦闘をやめたのは、日本が正式に降伏文書に署名した9月2日である。
 では、何故、日本は8月15日を終戦の日として、教科書や公式の行事として認定しているのか。それは、さまざまな解釈があるだろうが、戦争を終わらせたのは、天皇の意志であるという認識を確定させるためだと、私は思う。8月15日に行われたのは、天皇が前日録音した「玉音放送」が流したことだ。その趣旨は、結論としてはポツダム宣言を受け入れたと、国民に対して公表することだった。その他には、大東亜戦争は、アジアの解放のためだったとか、連合軍の虐殺が激しくなったので、日本の将来を考えたとか、いろいろなことを言っているが、要するに、これは、日本が降伏したことを、連合軍に伝えたと、国民に知らせたメッセージであり、「戦争か終結」したことを、正式に知らせる文書ではないのだ。実際に見たこともない人が多いかと思うので、文末に全文を掲載しておこう。

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ふたつのバイロイト第九 根拠と証拠について

 徳岡直樹氏によるフルトヴェングラー、バイロイト第九の検証youtubeに対して、私は二度に渡って議論を呈したが、それに対してコメントがついた。コメントの趣旨は、根拠と証拠が乏しく、「~~と思う」という書き方が多すぎるということだった。証拠はないが、根拠は書いてある、そもそもこうした話題は、主観的なことがほとんどで、徳岡氏も同様だという回答だ。一応返事はしたが、もう少しつっこんで整理したいと思う。
 こうしたことにあまり興味のない人には、何やってるんだと思うだろうが、ベートーヴェンの第九交響曲最高の名演奏といわれるフルトヴェングラーの第九、しかも、もっともよく聴かれる1951年、バイロイト音楽祭再開の冒頭の日に演奏された録音には、ふたつの異なった録音があるとされている。両方とも同じ日付の演奏となっているのだが、明らかに異なる演奏である。しかも、EMI、バイエルン放送協会のテープによってオリフェオという企業が発売しているもので、フルトヴェングラーの演奏であることを疑う人はいない。これらの演奏には、当初からさまざまな逸話がつきまとっていた。

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日教組制度検討委員会報告(一次)の検討3 入試を廃止するための前提

前回、高校の義務化と公立私立の関係が、課題として残るとして、今回に続けた。
 「国民の教育要求」に依拠するといっても、国民の教育要求は一様のものではないし、また、ぶつかり合う要素もある。また、その要求を実現したとしても、更にその実現が新たな問題を引き起こすこともあるだろう。小学区制が実現したとしても、私立学校との関連という問題が生じる。また、地域総合制高校が、本当に、多様な教育要求を包み込むことができるという問題も生じるに違いない。したがって、現に表れた要求だけではなく、その先を見越した構想が必要となるのではないだろうか。
 当時としては、極めて大胆であった「入試の廃止」を明確に、検討委は提起していた。しかし、それは、徹底した制度構想とはいえなかった。高校三原則を実現したとしても、入試は残るからである。小学区としての入試、更に私立高校の入試が残る。「入試の廃止」である以上は、公立高校の入試だけ廃止しても、あまり意味がない。にもかかわらず、高校三原則の実施に留まっていたから、入試の廃止は、単なる題目で、具体的な制度構想にはなっていなかった。

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