ボエームのCD カラヤンは何故ベルリンフィルを使ったのか

 プッチーニの傑作ボエームは、トロバトーレと異なって、ドラマに無理がなく、よくあるパターンの物語である。貧しい恋人の一方が(たいてい女性だが)、不治の病にかかり、死んでしまう。オペラでは椿姫もそうだ。だから、特別にドラマの進展としては面白くないが、出会いの場面の演出や、友人たちの絡み具合に、このボエームの面白さがある。先日映画版を見直して、改めてこの曲の魅力を再認識した。映画は、ネトレプコのミミ、ヴィラゾンのロドルフォで、指揮はド・ビリー。オペラ映画が制作されるのは、近年では珍しいが、やはり、ネトレプコという、歌手として優れているだけではなく、女優としても十分に通用する美人ソプラノが現れたので、実現したのだろう。出産後、いかにもオペラのプリマドンナという風格になってしまったが、この時期の彼女はまだまだ映画女優として主演が可能な雰囲気をもっていた。声もミミに相応しく細いが、強い声をもっていた。この映画は実際に映画館で見たのだが、今回見直したのは、クラシカジャパンで放映されたものを録画したものだ。

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佐々木問題の間違った受け取り 文春記事の柱は渡辺直美ではなく、MIKIKO排除にある

 佐々木氏擁護の文章がけっこう出始めているが、的外れだと感じる。というのは、文春の記事は、オリンピッグなどというキャッチフレーズで、渡辺直美氏を侮辱するようなアイデアをだしたということは、ある意味、おまけのような部分であって、記事を読めば、もっとも力をいれて書いているのは、演出の責任者が、4人も交代していて、しかも、ほとんど協力関係がないような状況、それでも、一応まとまった成果をあげつつあり、IOCからの高い評価をえていたMIKIKO氏を排除して、自分の思い通りの案を作っていこうとした、しかも、そのなかで女性を排除したという佐々木氏のやり方を批判した記事だった。おそらく、リークした人物がいるのだろうが、それは、佐々木氏を追い落とそうという意図だったろう。それは間違いない。そして、その主な理由は、佐々木氏のリーダーシップでは、世界に誇れる演出は不可能なのに、独善的に突っ走っているという危機感だったのではないかと、私は想像している。もちろん、その正否はわからない。佐々木氏がどのようなプランを進行させていたのか、また、IOCに評価されていたというMIKIKO氏のプランがどういうものなのか、まったく部外者にはわからないわけだから、判断のしようがない。そして、文春リークというやり方がフェアであるかは、大いに疑問の余地がある。

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「日本型学校教育」中教審答申批判 3

 今回は、「8人口動態を踏まえた学校運営や学校施設の在り方について」を検討する。ここでいう人口動態は、
・少子化
・高齢者人口の増大
・労働人口の減少
・人口増減の偏り
等である。
 高齢者人口の増大や労働人口の減少は、大きな社会的、政治的な課題であるが、教育的課題とは言い難い。生涯学習や、リカレント教育の課題としては、当然改善していく必要があるが、ここでの課題としては、学校教育であり、主には義務教育段階なので、考慮されてもいない。
 主に課題となっているのは、子どもの人口が少なくなっている地域での問題である。確かに深刻だと思うのは、1市町村1小学校1中学校という市町村が233団体(13.3%)あるのだそうだ。これまでの文科省のこうした状況認識から出てくるのは、ごく当たり前のように、学校の統合だったが、この答申では、他のいくつかの提言をしている。

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面白くもないドタバタ劇はうんざり 佐々木宏問題

 オリンピックの仕事を担っている人たちがすべて、このような人であるとは思わないが、次から次へと出てくる、このナンセンスなできごとは何なのか。
 森氏といい、この佐々木宏氏といい、オリンピックに関わっている人には、いわゆるオリンピック精神に合致した精神をもっている人は、いないのではないかと思えてくるほどだ。それだけ、オリンピックとは、虚像なのか。あるいは、あまりに利権に走ってしまった日本のオリンピック関係者の異様な姿なのか。森氏と佐々木氏の共通点は、女性蔑視、女性差別意識という点だ。しかし、考えてみると、初回オリンピックは、女性の参加を認めていなかったことでわかるように、近代オリンピック創設者のクーベルタンは、実は女性差別主義者だったともいえるのだ。何しろ、フランス兵が弱くなったから、体力増強を図る目的があったという位だから。
 そういう点とは別に、今回こうしたリークが「今」なされたのは、なぜだろうかということに、興味がいだかざるをえない。なにしろ、一年前のことなのだ。lineのやり取りをしたメンバーから出たか、あるいは、そのメンバーが誰かに話し、それを聞いた人がリークした可能性があるが、現時点でだしたということは、オリンピック開催に対するネガティブキャンペーンをする意図を示したということだろう。また、式を演出するチームに、まとまりがないことも憶測させる。 

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白鵬を擁護する

 3日目からの休場が決まって、再び白鵬に対する批判や引退勧告が強くなっている。ヤフコメをみても、そういう意見がほとんどで、白鵬を擁護する書き込みはほとんどみられない。しかし、白鵬非難の見解を見ると、よく考えればおかしなものだ。
 私は相撲ファンでもないが、日本人だから小さいころから相撲は、時々は見てきた。小さいころの印象は栃錦・若乃花のライバル同士の相撲だ。それから、大鵬、柏戸、北の湖、千代の富士、貴乃花と、なんとなく印象に残っている程度だ。しかし、私の若かったころの大相撲と、今の大相撲は、かなり印象が違う。それは、端的に、強い力士はほとんどが外国人、特にモンゴル人ということだ。やっと、日本人横綱稀勢の里が誕生したら、早々に引退に追い込まれてしまって、またまた、外国人のみの横綱になっている。この二人が引退したとしても、代わって日本人の誰かが、すぐに横綱になるというわけでもない。そんな力士は、いないわけだ。つまり、国技などといいつつ、結局は外国人に頼って成立しているという状況がある。

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飲食店の深夜営業は当たり前なのか

 コロナ禍の緊急事態宣言が解除の動きになっていくが、解除になると一番変わるのは、飲食店の営業時間だろう。すぐに自由になるかどうかは、現時点でわからないが、やがて以前の状況に戻ることは間違いない。しかし、飲食店が深夜までやっていること、そして、酒が中心の店は、もっと遅くまでやっていることが、本当にいいことなのだろうか。またスーパーなども遅くまで開店しているが、これだって考えなおす必要があるのではないか。
 もちろん、どうしても深夜に働く必要がある職種もあるから、全面的に閉店になることがいいとは思わないが、仕事が終わると、一杯やって、深夜に帰宅するというのが、労働者としての健全な生活とは思えないのである。

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ヴェルディ「トロバトーレ」への思い

 ヴェルディ中期の3大傑作といわれる「リゴレット」「トロバドーレ」「椿姫」は、すべて本当に全編素晴らしい音楽で満ちあふれている。そして、それぞれ特徴的な性質があるが、トロバドーレは、なかでも際立った特色がある。音楽は、美しいメロディーがずっと続くが、エネルギーに満ちている。内に向かうのではなく、あくまでも外に放射するような熱がある。これがトロバトーレの最大の魅力といえる。そして、もうひとつ、オペラはあくまでも筋をもったドラマであるから、劇としての魅力も大切であり、優れたオペラは、劇としても優れているのが普通だ。あまり台本の質を考慮せず、依頼の仕事を引き受けたために、オペラとして成功しなかった作曲家として、シューベルトとヨハン・シュトラウスがいる。(後者は「こうもり」のみ成功)では、トロバトーレはどうかというと、誰もが感じるように、あまりに奇怪で、奇妙奇天烈な筋なのだ。
 まず、最初に、その奇妙な筋を確認しておこう。
 最初ルーナ伯爵の家臣フェランドが兵隊たちに、過去の話をするところから始まる。
 先代ルーナ伯爵の次男をジプシーの老婆が占うと、次男が病気になったので、老婆は火刑に処せられた。しかし、焼け跡から子どもの骨が出てきた。それが次男だと思われたが、今のルーナ伯爵は、弟が生きていると思って探しているという話である。

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読書ノート『政治家の覚悟』菅義偉

 政治家の本は、これまでほとんど読んだことがないが、やはり、総理大臣になったひとが、何をどのように考えているのか、知る必要があると思い、Kindleで購入できるので、読んでみた。おそらく、ゴーストライターが書いた文章だろうが、非常に読みやすく、菅首相の考えや発想法がよくわかる。そして、わかると同時に、このひとは、やはり権力主義者なのだということと、彼の政策は、個別領域のなかでの発想に留まっており、体系性とか、論理一貫性はないのだということが、よくわかる。もちろん、個別政策の中では、なるほどと納得できるものもあるが、いろいろと疑問がおきるものが多い。

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『検証全国学力調査』(教科研)出版記念研究会に出席して

 この本の読書ノートを書いたので、こうした研究会には出席しなければいけないと思い、参加した。Zoomを使ったオンライン研究会で、30名程度が参加していたようだ。基本的には、教科研のひとたちなので、この著書に異論を唱える議論はもちろんないのだが、ひとつ非常に重要な指摘があって、私も教えられるところが大きかった。
 それは、全国学力調査は、学力調査と同時に、学習状況調査を行っており、学校でどのような指導をしているか、あるいは、家庭でどのような学習をしているか、また、さまざまな家庭内の条件などが調査されていて、これは不可分の関係になっており、どのような指導や家庭学習をしていると、どういう問題への正答率が高いか、などという統計もだされる。これは、学校での指導や家庭での親に対するコントロールであって、その点での検討が必要であるのになされていないという、この本に対する批判的なコメントだった。確かに、そういう側面があるだろう。もっとも、点数や順位ほどに、現場の教師に、そうした指導方法、学習方法の指摘が浸透しているかどうかは、かなりあやしいとは思うが、教育委員会や校長の指導によって、少しずつ浸透することは間違いない。

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欠席者に合格通知?

 読売新聞(2021.3.12)によると、試験に欠席した受験生に合格通知が届き、出席して合格点をとっていた受験生は不合格になっていたという。そうしたミスが生じたのは、合格点をとっていた受験生が、間違った席に座ったために、その席の受験生が合格になり、合格の受験生は、自分の席に座らなかったから、欠席扱いになって不合格になったのだろう。大学としては、合否をただし、それぞれの受験生に謝罪したという。北九州市立大学文学部比較文学科でのできごとということで、大学は、「大学全体の信頼を損ねるもので、深く反省している」とした。そして、試験監督の確認が不十分で、ミスに気づかなかったということが、原因とされている。
 しかし、昨年まで大学に勤め、何度も入試監督に付き合ってきた者としては、どうも大学の謝罪の内容は、腑に落ちないのである。これだと、その教室の監督をしていた教員が、ミスをしたことになるから、何らかの処分でもされるのだろうか。処分はさておき、私自身の経験から、違う席に座っていた受験生を、本人が正しいとしているのに、監督の教員が気づくのは、なかなか難しいのではないかと思うのだ。

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