law & order 飲酒運転と植物人間へのレイプ

 Law & Orderをみていると、日本とまったく法意識が逆ではないかと思うことがある。シリーズ8には、そう感じる例がふたつ続いた。
 3人がひき逃げ事故にあって死亡した。犯人が捕まるのだが、犯人とその弁護士は、飲酒運転をしていたので、意識がなく、無実であると主張する。そして、飲酒の事実を認められれば、無罪が確定するかのようにドラマは進行する。たまたま担当した判事が、飲酒運転撲滅を強く意識しており、この裁判をそれに活用しようとする。しかし、検察としては、ここで法の矛盾に突き当たる。犯人は、飛行機で飲酒をして、そのまま運転し、ひき逃げをするのだが、検察は、飛行機内で世話をしたCAに聴取する。15杯くらい飲み、ぐでんぐでんに酔っていたことがわかる。検察は、それでは無罪になるというので、それを隠そうとする。判事とも険悪になったりするわけだ。最終的には、3人も轢いて殺してしまったことへの反省の気持ちを引き出し、取引をするのだが、このドラマをみて、日本人ならそもそも納得できないものを感じるだろう。
 日本なら、飲酒運転で事故を起こせば、それだけで有罪だし、まして意識がないほど泥酔して、3人もひき逃げしたら、かなりの重罪になるはずである。酔っていたので意識がなく、故意ではないから無罪だ、などと思う人間はまずいないといえる。しかし、アメリカでは、無罪なのだろうか。まさか、法の規定を無視したドラマを作るはずもないのだから、なんとも不可思議だ。 “law & order 飲酒運転と植物人間へのレイプ” の続きを読む

『教育』を読む 2020.7月号 ナショナリズム・歴史・教育1

 『教育』の7月号の特集は、「ナショナリズムと歴史と教育と」「もう一つの教育を求めて」というふたつの特集からなっている。今回は、前者の佐藤和夫「ナショナリズムを乗り越えるつながりの形成のために」を検討する。優れた論考だと思うが、出だしの素材のきり方に疑問を感じる。(従って前半のみの検討)
 特集がナショナリズム、歴史、そして教育であり、佐藤論文もナショナリズムを乗り越えることを模索している。そしてまず、佐藤氏は、津久井やまゆり園で多数を殺傷した植松聖を俎上に乗せる。しかし、植松聖の起こした悲惨な事件は、ナショナリズムと関係しているのだろうか。 
 教育を生涯に渡る意味で使うなら別だが、ここで主要に問題になっている学校教育に関していえば、植松は決して、学校において虐げられたり、あるいは劣等感に苛まれたりしたような状況ではなかった。また、家庭においても一人っ子だった彼は、教師である父と漫画家である母に愛情豊かに育てられたと言われている。昔の彼を知る者は、とても優しかった印象をもっている。そして、父と同じように教師になるために、大学の免許取得できる課程に進んでいる。ここまでは、とりわけ問題行動も見られず、もし、初志貫徹して、教員採用試験を受ければ、大量採用時代だから合格して、普通の人生を歩んでいた可能性もある。(尤もその前に刺青に関心をもち、自分でもいれてしまったので不可能になっている。) “『教育』を読む 2020.7月号 ナショナリズム・歴史・教育1” の続きを読む

教育学を考える8 教師の自由と立場性2 牧柾名「教育の自由」論をてがかりに

 社会が発展すれば、様々な領域で多様性が展開する。戦後、日本人の人気スポーツは相撲と野球だったが、今や「国民的スポーツ」などというものが想定できないほどに、様々なスポーツが人気を誇っている。音楽も「歌謡曲」などと呼ばれたジャンルは、今や多くのジャンルに分化している。アルコール類も日本酒(それもほぼ一升瓶だった)とビールくらいだったが、今やワイン、ウィスキー、カクテル、サワー等々様々なアルコール類がスーパーマーケットに並んでいる。同じ種類でも、入れ物も多様な好みにあわせている。
 そうした発展のなかで、教育に対する志向が多様でないはずがない。私自身は、結論的には単純素朴に、多様な教育を最大限可能にするのが「教育の自由」であり、それは積極的な意味があると考えている。しかし、残念ながら、そう考える人は、決して多くないし、専門家ほど制限的な発想をするように思われる。 “教育学を考える8 教師の自由と立場性2 牧柾名「教育の自由」論をてがかりに” の続きを読む

教育学を考える7 教師の自由と立場性1

 教育の自由にとって、教師が教える際の自由は、極めて重要かつ困難な問題である。日本における最大の論点のひとつである教科書検定をとってもわかる。教科書検定は、戦後一貫して問題であり続けているが、当初と現在とでは、問題の表れ方がかなり異なっている。
 まず、学習指導要領が法的拘束力をもつと文部省に宣言され、そして、教科書検定が永久化・強化され、それに対して家永三郎氏が、教科書検定は検閲にあたり違憲であるとして、教科書訴訟を提起した。その訴訟は、30年続いたが、その最終盤から様相が変わってきた。適切な区分かどうかについては議論があるが、左翼が中心であった家永訴訟から、その後、検定に関わる文科省との軋轢は、むしろ右翼から提起されるようになり、昨年から今年始めの検定結果については、右派教科書が検定不合格となって、教科書検定への批判が右派から巻き起こっている。 “教育学を考える7 教師の自由と立場性1” の続きを読む

Law & Order どちらが殺したのか

 第8シリーズ第4回は、非常に難しい、しかし興味深いテーマだった。
 誕生日のプレゼントを贈るために、友人に安く売ってくれるように頼み、ニューヨークの夜の暗い場所で待ち合わせる。妻は夫と一緒にそこにいくのだが、嫌がり早く帰ろうというが、夫は、約束なので車から出ると、待ち伏せていたのは、「殺人をしてみたい」という若者で、いきなり車内にいた妻を撃って逃走する。夫は急いで病院に運ぶが、頭部を撃たれていて重体だ。車内には小さい女の子が乗っていて、帰宅したあと、両親が喧嘩していたと警察に告げる。誤解した警察は夫を逮捕するが、直ぐに誤認だったことがわかり、捜査の結果、若者3人の仕業だったことがわかる。最終的に、そのなかの一人が、殺人そのものに興味があって、撃ったことを突き止める。
 助かることを期待していた夫に、脳死状態になったので、臓器提供をしてほしいという要請があり、夫はそれに応じる。
 裁判が進行するなか、検察が、妻のカルテをみて奇妙なことに気づく。死亡時刻、死亡診断書を書いた医師、そして、臓器摘出の時間があいまいだった。そして、臓器摘出した時点では、まだ妻は生きていたのではないかと判断する。そして、それがやがて被告側にわかってしまうと、殺人罪を問えなくなるので、漏れる前に、司法取引に持ち込もうとするのだが、何かおかしいと感じた弁護士が、取引を拒否する。そして、証拠提出をせまり、検察が隠していたことを突き止め、殺人罪が成立しないことを主張する。 “Law & Order どちらが殺したのか” の続きを読む

小池百合子氏が卒業証書を公開 さて?

 昨日の記者会見で、小池百合子氏が疑惑をもたれているカイロ大学卒業に関して、疑惑を否定して、卒業証書と卒業証明書とされるものを公開して、「自由にみてください」といったそうだ。毎日新聞の記者会見の記事を読むと、写真をとってあるが、突っ込みをいれる質問などがなされたのかは、疑問である。
 今後どうなるのかわからないが、今思うところを書いてみる。
 今年になって黒木氏の長い告発の文章、そして石井妙子氏の著作は、やはり、小池都知事としては大きな脅威となったはずである。そして、当然、弁護士と相談して、どうやって切り抜けるかを検討したはずである。最低限死守しなければならないのは、公職選挙法違反には問われないようにするということだったろう。つまり、卒業認定が虚偽ではないという形を作れるかどうかだ。そのために、カイロ大学や大使館に働きかけたはずである。その結果、カイロ大学から、卒業証書は正式のものであるという声明を、在日エジプト大使館から出させることに成功した。ほぼこれで、公職選挙法の学歴詐称という罪は逃れると踏んだのではないか。だから、卒業証書を公開した。 “小池百合子氏が卒業証書を公開 さて?” の続きを読む

教育学を考える6 教師側の選択と主体性

 学ぶ側の選択と主体性について前回考えた。では、教える側の教師にとってはどうなのか。教師は、学習者の意志、発達段階等によって拘束されるが、しかし、教師の職務を果たすためには、やはり、選択と主体性が保障されなければならない。教師も、当然学ばなければならないからである。
 では日本の教師は、こうした点からみて、どのような状況におかれているのか。
 私立学校は別として、公立学校は、勤務校を選ぶことができない。欧米は多くの場合、個別の学校の募集に応募して採用試験を受ける。もちろん合格しなければならないが、自分が働きたい学校を選択できる。日本では、県単位の採用試験を受けて、合格すれば教育委員会が配属を決める。つまり県単位の選択しかできない。基本的には移動に関しても同様である。
 教師としての学びはどうか。
 まず新任で最初にかかわる研修についてみよう。
 法令で教育委員会が教師のための研修を提供しなければならないと規定されているが、その研修は、10年研修以外は、ほとんど教師の主体性は認められていない。10年研修は、テーマ等を教師自身が決めることができる場合が多いようだが、そもそも10年目にそうした研修を義務付けられていること自体が、完全な自由ではないことを示している。更に10年毎に免許の更新講習を受けて試験に合格することも義務付けられている。 “教育学を考える6 教師側の選択と主体性” の続きを読む

教育学を考える5 選択と学びの主体性

 前回は多様性の重要性を論じた。多様性があれば、次にそのなかから自分の意志で選択できることが大切になる。多様性を認められても、自分の意志で選ぶことができなければ、多様性の意味がない。現在の日本の高校は、極めて不十分であるが、教育は多様である。その多様性は偏差値ごとにある程度振り分けられた生徒が集まるために、偏差値にあわせて教育が行われることから生じているに過ぎないのであるが。形式的には受験という選択をするのだが、競争に敗れた者は選択できないから、歪んだ選択というべきだろう。多様性と選択は、こうした歪んだ形ではなく、選択意志が最大限保障されるものでなければならない。
 では選択とは、単に権利としての形式的な概念なのだろうか。それとも、教育的価値をもつ概念なのだろうか。もちろん、選択は権利であり、それが出発点であるが、教育的価値をもつ。つまり、自分で選択できる能力を獲得することは、現代社会において重要なことといえる。
 教育学では「学習」という言葉を、「主体的な意志によって学ぶ行為」と考える。心理学でいう「行動変容」ではない。「教育」は、学習を促す行為と考えてもよいほど、「学習」こそが重要な概念である。勝田守一の名著は『能力と発達と学習』という表題である。今、文献の跡づけはできないのだが、当初生涯教育と言われた言葉が、生涯学習になっていくには、藤岡貞彦や佐藤一子らの提起があった。行政的にも、社会教育→生涯教育→生涯学習と担当局の名称が変遷していく。生涯学んでいくことが大事であり、生涯の観点から見ると、教育は学習の援助と考えるのが合理的なのである。 “教育学を考える5 選択と学びの主体性” の続きを読む

ジプシー男爵序曲の聴き比べ カラヤンとクライバー

 ヨハン・シュトラウスの「ジプシー男爵序曲」の聴き比べをしてみた。カラヤン2種とクライバー。いずれも、ライブの録画で、しかも、カラヤンの映像ソフトとしてめずらしい部類だが、ライブそのものなので、ヘンテコリンな楽器群の映像が一切ない。実際に、ライブ会場でカメラが撮ったものだ。今のライブ映像としては当たり前だが、カラヤンの映像のほとんどは、演奏はすべて後撮りか、ライブ映像でも部分を使用し、後で、指揮姿とか楽器群毎に撮ったりする。特定の日時のコンサートライブの映像は、カラヤンに関しては、今回紹介する以外では、ベルリンフィル100年記念演奏会の「英雄」、何度かのジルベスターコンサートくらいしかない。そして、共通することは、いずれのライブも非常に評価が高いという点である。生前の評価とは全く違って、カラヤンは録音よりもライブを重視する指揮者だったことがわかる。
 視聴したのは、
1983年、ベルリンフィル・ジルベスターコンサートのカラヤン指揮
1987年、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのカラヤン指揮
1992年、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのクライバー指揮
である。いずれも文句のつけようのない名演奏であって、比較するのも変な話だ。好き嫌いで選ぶものだろう。 “ジプシー男爵序曲の聴き比べ カラヤンとクライバー” の続きを読む

矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む(続き)

 矢内原の論を踏まえて、考えを発展させたい。
 日本国憲法の「信教の自由」条項は、私は順調に機能したと思う。しかし、かなり微妙な問題も起きている。
 戦後日本で起きた宗教に関係する最大の事件は、なんといってもオウム事件だろう。日本における戦後最大のテロ事件であるし、また、サリンを使ったという点で、世界でもそれまでに類のない事件であった。一宗教団体が、何故あのような事件を起こすことができたのか、人間としての問題と、財政的問題と両方の面でいまでも考えねばならない課題であり続けている。何故、優秀な人材が麻原のような人物に取り込まれ、あのような犯罪まで犯してしまったのかという問題は、多くの論者によって考察されてきたが、結局、真相は分からない。優秀な人物は悪いことをしないなどということは、歴史を見ても、全く成り立たない命題であるから、優秀な人材が取り込まれたこと自体は、不思議ではない。優秀な人材が社会的に適切に評価されるとも限らないことを考えれば、ある意味不遇を囲っていた人材が、才能を振るう場を与えられれば、そこにのめり込むことは、大いにありうることではないだろうか。たくさんの手記もあるが、個々の事例に関して、どのように取り込まれていったのかについては、正直あまり興味がないので、触れないことにする。私自身は、どうやって悪に入り込んでいったのかよりは、教育学者として、どのように困難を克服していったのか、その力をどうやって獲得したのかに関心がある。 “矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む(続き)” の続きを読む