国民の教育権論の再建1 何故国民の教育権論は喪失したのか

 『教育』の私事性論文の批判を書いていて、そろそろ、本格的な論文を書くべきではないかという感覚になってきた。私にとっては、やはり教育権に関する論理をしっかり構成することを、第一の課題にしている。国民の教育権論が事実上崩壊し、それに代わる教育権論が登場していない以上、国民の教育権論の再建が必要である。
 そのために、これから、いくつかメモ風の文章をここに書いていくことにする。
 『教育』の論文批判にも書いたように、国民の教育権論が崩壊したのは、私事性理論が、重要な「委託」の部分を構成しなかったからである。しかし、いくつかの文献を読み直して、妙なことに気がついた。 “国民の教育権論の再建1 何故国民の教育権論は喪失したのか” の続きを読む

『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか

 『教育』2021年11月号の特別企画として、「今に生きる戦後教育学」と題する二本の論文が掲載されている。
 大日方真史「なせいま私事の組織化論か」
 福島賢二「私事の組織化論を教育の公共性論として発展させる」
である。前者が問題提起をして、後者がその検討をするという構成になっている。題からわかるように、国民の教育権論の中心的概念のひとつであった「私事性」に関する議論を、今日的に発展させることを意図している。しかし、大日方氏が書いているように、「1980年代以降、国民の教育権論は歴史的使命を終えたという評価もある」から、「今に生きる」と認識できるのかどうかも、議論の対象になるはずである。実際に、私は、国民の教育権論とこの私事性論は、議論としては死んだ、より正確にいうと「自爆した」と考えている。従って、そのことを認識しない二人の議論は、今後国民の教育権論を再生して活かすにしても、大きな壁にぶつかるといわざるをえない。 “『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか” の続きを読む

日本は本当に能力主義社会か11 岩田龍子の議論から2

 前回は、日本が能力評価を基礎にしているので、教育の荒廃が生まれていくという岩田氏の論を元に考察した。
 岩田氏によれば、日本は、能力評価であるが故に競争が熾烈になっている。そして、単に個別の領域における評価ではなく、全人格的な競争になってしまう。そして、能力が明らかになったとき(大学入試)、競争は終わるという。(自分の能力はこのくらいだ。)現在は、状況に多少の変化はあったとしても、だいたいにおいて、岩田氏の指摘は妥当であると思われる。
 大学入試ですべての競争が終わるわけではなく、これは第一段階であり、第二段階として、社会的威信の高い集団への加入競争があり、そして、そこに加入できると、第三段階として、そこでの昇進競争がある。しかし、それらすべてにおいて、特定領域でき「実力」が判定基準になるのではなく、潜在的可能性を示す「能力」評価によって行われる。そして、それ故に、日本的な様々な特質が現れるという。
・全人格的な競争があるが故に、競争への忌避感も強い。仕事の負担が違っても、給与は同じなど。
・職場は、特定の仕事をする人々の集まりではなく、人間協働集団であり、同僚が欠席したら、他の人が補う。確かに、私がオランダで生活していたときには、役所や銀行にいったときに、「今日は担当が休みなので、応じられない」と言われたことが何度もあった。日本なら、当然他の従業員が代わりにその仕事をするだろう。 “日本は本当に能力主義社会か11 岩田龍子の議論から2” の続きを読む

日本は本当に能力主義社会か10 岩田龍子の議論から1

 岩田氏は、日本を能力主義社会と規定しているわけではない。学歴主義という規定での能力の問題を扱っている。そして、そこには、大いに参考にすべき、そして検討すべき論点があるので、2回に渡って考察したい。

 岩田氏は、「実力」と「能力」を区分する。それは一般的な区分法とはいえないが、とりあえず岩田氏の意味で理解しておこう。「実力」とは、特定の分野のことを遂行できることで、分野が特定されていることが特質である。それに対して「能力」とは、潜在的な可能性をもっていることで、更に、特定の領域における可能性と、領域にとらわれない一般的な潜在的能力とにわかれる。 “日本は本当に能力主義社会か10 岩田龍子の議論から1” の続きを読む

親ガチャ問題を考える2

 では、親ガチャ問題はどうしたらいいのだろうか。結論的には、個々の状況によって、異なるのだから、一般的な解決法があるとは思えないが、個人的には、やはり、気持ちを変えること、そして、社会的な制度としては、個人の多様性を許容するシステムにしていくことだろう。
 私自身は、親から「ああせい、こうせい」などということは、全く言われず、また自分自身として、親の意向に添う生き方をしようなどとは、微塵も考えずに成長した。つまり、やりたいようにやってきたということだ。しかし、私の親、特に父親は、まさしく親ガチャ的苦しみのなかで、苦闘してきたといえる。戦前の話だが、けっこう優秀だったので、担任の教師がわざわざ家まできて、中学に進ませてやりなさいと、親を説得したが、極貧だったために、親が頑として聞かず、結局、義務教育だけで終了、家をでて、働きにでたが、幸いにも、前回書いた官庁設立の学校を受験して合格、中間管理職になる道筋を、自分で立てることができた。しかし、親への共感度はまったくなく、戦後結婚してから、里帰りは親が無くなった葬式のときだけだった。だから、今生きていれば、親ガチャ論議には、ずいぶん関心をもったに違いない。ただし、そういう父も、結局は、自分なりの人生を掴んだといえる。それは、おそらく、家を飛び出したからこそ、可能性が開けたといえる。

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親ガチャ問題を考える1

 今日(10月6日)の羽鳥モーニングショーで、親ガチャ問題を扱っていた。最近よく聞く言葉だ。子どもの人生が、親によって左右され、個人の努力によって変えられないという意味らしい。その程度が強まっていて、それが格差社会を助長しているというわけだ。モーニングショーでは、その典型的な表れとして、東大生の家庭の知的、経済的優越性を例としていた。結局、勉強好きにするような家庭の雰囲気、そして、小学生の中学年から始まる塾での競争を可能にする経済力、そうした要素がないと、子どもが東大に合格しにくくなっている。だから、そういう要素を欠いた家庭に生まれた子どもは、どうしようもないのだ、という番組の主張だった。
 しかし、こうした見方には注意しなければならない。社会の変化をどの程度のスパンで見るかに、大きく影響されるからだ。
 第一に、時代的な流れを見る必要がある。
 ほんの150余年前までは、日本は封建身分社会であり、武士とその他の身分では、生まれによって、大きな違いがあった。武士のなかでも、大名に生まれるのと、幕府の御家人に生まれるのとでも、相当な影響の差が出ただろう。もちろん、そういうなかでも、個人の努力の余地がなかったわけではない。福沢諭吉のように、貧しい下級武士に生まれても、世の中の激動を生き抜いて、歴史に名を残す偉業をなし遂げた人物もいる。

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教師への超過勤務手当て不支給を違法ではないが、実情にあわないとした判決

 埼玉県の教師が、教師の超過勤務に残業手当を出さないのは違法であると訴えた訴訟に対する地裁の判決が出た。形式的には、原告の敗訴であるが、実質的にはかなり勝訴に近いといえる。
 現在、教師に対しては、勤務時間外に命じることができる勤務内容を限定している。そして、その時間外勤務に対しては、超過勤務手当てを支給しないかわりに、4%の特別手当てを支給する体制になっている。しかし、実態は、限定された内容以外に、非常に多くの時間外勤務が行なわれ、事実上強制されている。それは違法ではないか、というのが、提訴の理由である。多くの教職員から支持が寄せられ、私も確か応援メールをだした記憶がある。
 判決は、教職員給与特別措置法(教特法)によって決まっており、違法ではないと結論付けた。法解釈の大原則として、一般法に対する特別法の優位というのがあり、労働基準法よりは、教特法が特別法であるから、法解釈上は、教特法に従って判決をせざるをえない。だから違法ではないとしたのである。

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『教育』2021年10月号を読む 山田殻変哲也「教員世界の地殻変動」4

 山田哲也氏の文章の検討は、前回で終わっているので、今回は、私なりの「学校を楽しく働ける場」にするための、基本的に必要なことを書いてみたい。もっとも、私は、教育制度論が専門であり、かつ、あくまで研究者であるので、ここでは、早急に実現可能なことではなく、実現は遠いとしても、必要なことに焦点をあてたいと思う。
 
 まず考えねばならないことは、組合がずっと主張してきた「労働者」としての権利である。そして、「専門職」としての権利である。このふたつは、完全に調和するのだろうかということがある。もちろん、労働者としての権利を、憲法上の人権である労働基本権のレベルでいえば、専門職と全く齟齬があるとは思わない。しかし、一般的に労働者を時間を基本に働く存在と考えると、専門職とは具体的に合わない面が出てくる。
 労働基本権と、憲法で規定されているのは、「団結権・団体交渉権・団体行動権」であるが、これは労働組合であろうと、職能団体であろうと、妥当するものである。憲法では「勤労者」となっており、時間で拘束されるという意味での「労働者」に限定されないからである。しかし、この時間で規定されるという点で、労働者と専門職は、重ならない部分が生じる。もちろん、学校の教師が、勤務を時間で拘束されても、なおかつ専門性を重視されることはありうる。しかし、教師の専門性は、時間に囚われない部分が必ず存在するのである。それが、無限定労働につながることになる。

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『教育』2021年10月号を読む 山田殻変哲也「教員世界の地殻変動」3

 いよいよ、山田哲也氏が提案する「教職員が楽しく働ける学校へ」の内容である。
1 学校教育に対するさらなる資源の投下、つまり教職員の増員
2 教員文化に生じつつある変化をテコに、子ども・保護者との対話に開かれた「民主主義的な専門職性」を可能にする職場同僚関係を構築
3 同時多発的な草の根の取り組みと、組合活動や民間教育研究・実践運動のような従来から続く粘り強い社会運動とを接合し、合理的な判断に基づく学校制度の改善を企図する取り組み
 以上の3点である。
 もちろん、これらのことに異議はないし、むしろ、ずっと多くの教職員が求め、努力してきたことといえるだろう。逆にいえば、そうした努力にもかかわらず、何故、実現してこなかったのか、ということの分析もあわせて必要なのではないだろうか。そして、要検討の内容はないのだろうか。

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『教育』2021年10月号を読む 山田哲也「教員世界の地殻変動」の検討2

 前回は、求心的関係構造とその弱体化に関する検討を行なった。
 今回は、職務の無限定性と献身的教師像について検討する。これは、ペアのような関係だ
が、やはり、単純に議論すべきことではない。学校職場がブラック化している最大の要因が、この「無限定性」にあるわけだが、これは、確かに、積極的な意味での教員文化としての側面があるが、他方、行政が安上がりの労働を押しつけるための仕組みを作り上げたことも見逃すわけにはいかない。
 戦後民主化された教育の世界で、教師たちが要求したことは、労働者としての権利だった。この場合、労働者とは、労働内容が明確化され、それ以外のこと(雑務)をむやみに押しつけられることなく、労働時間が規定されており、それを超過する場合には、超過勤務手当てを支給するということである。つまり、定量労働ということだ。しかし、これらがきちんと決められて実行されたことは、戦後一度もなかった。それだけではなく、憲法で保障された「労働基本権」すら、教師には一部制限されたのである。

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