ネット人格・ネトウヨ・人間の尊厳

 今回はおささんのネット上の意見をめぐる研究に関してのコメントです。(内容が他に比較して硬いので、である調になりました。)

 私は、20年くらい前、まだインターネットが普及する前のパソコン通信の時代に、激しい議論をする電子会議室の責任者を務めたことがある。あらゆる問題を思想的に扱う電子会議室だから、けんか状態などもかなり頻繁におきた。ある意味歴史に残るようなこともあったが、そこでは実にたくさんの貴重な議論を経験した。今でもネット上の表現の自由と管理のあり方については、そのとき私たちが残した議論と結論が、大きな影響力をもっていると考えている。
 そういう議論の中で、ネット上で展開される発言と現実に生活する人間の関係についての議論はとても重要なものだった。ネット上の発言はその発言が表す人格があるが、それを現実に存在する人格と統合的に理解すべきであるという見解と、それは別ものと理解すべきであるという見解が対立した。もちろん、単純にいうことはできず、実際にネット上で発言している人の意識によっても異なるきのであるが、そこでの議論の主流は、ネット上の発言の人格は、リアルな世界での人格とは別ものであると理解しなければならいというものだった。つまり、現実に生活している人格がネット上の意見を書いていることは、もちろん否定できないが、意図的にネット上では異なる人格を展開することが可能であり、実際にそうしている人も少なくない。極端にいえば、ネット上で異なる人格を前提にした発言を使いわけることも可能であるという見解が、そこで支配的だったのである。
 このことの派生効果もいろいろとあるが、基本的に、ネット上での振る舞いを、現実生活の振る舞いの反映である、あるいは、現実生活での人柄が、ネット上にも現れていると考えるべきではないということは、その後インターネットが現れ、とくに2チャンネルなどが大きく展開するようになって、より適切な見方であることが表明されたと思う。
 これは、ネトウヨの存在を考える上でとても重要な観点だろう。
 つまり、ネトウヨといわれる人たちは、ネット上だけで演じている人格である可能性が否定できないということだ。実際には、かなり合理的で、温和な人物であるが、ネット上であえて、極めて右翼的な、暴言を書き込んでいるということだ。もちろん、そうではなく、実生活でも右翼的である人もいるだろう。
 さらに、多くのネトウヨが存在している2チャンネルでは、ひとつのネームで書き込みをするのではなく、多くの人が使う「匿名」などの表示が多い。これでは、「人格」そのものが拡散してしまうことになる。先の電子会議室では、いかに実際の人格と異なる言動を示していても、常に同一のハンドルネームを使用することで、まとまった人格を想定することができた。しかし、2チャンネルでは、多くの投稿者は区別できないので、より過激な発言となる傾向があるように思われる。だから、ネトウヨとは、一人一人のネット上の書き込み者ではなく、書き込み者総体の特質であるという側面もあるかも知れない。もちろん、書き込みに番号はつくので、対応関係はある。しかし、同一の人物の特定は極めて困難である。
 話は別の側面になるが、誰でも、局面によって、あるいは相手によって、接し方や話し方を変えることがある。あまりにそれが違うと、批判されることもあるが、本来、人間には、今の自分と全く違う自分になりたいという欲求があるのではなかろうか。2チャンネルのような場所は、そうした「場」を提供しやすい特質をもっており、さらに、「匿名」が個人の実人物を隠すだけではなく、それぞれの書き込み者そのものの区別を捨象してしまう。だから、それぞれが普段いわないようなことをいいだし、それが全体として過激な書き込みになっていく傾向があるとも考えられる。だから、ネトウヨというのを、そこに参加している一人一人の書き込み者ではなく、その場全体の雰囲気として形成される特質とも考えられるのである。

 かなり勝手なことを書いてしまいましたが、完全に的外れというものでもないような気がしているので、参考にしてください。
 なお「人格」を取り替えつつ、別人格を演じたいという欲求を、病的な形で表現した有名な「ジキル博士とハイド氏」はぜひ読んでおくといいでしょう。

 上の文章では、人間の尊厳については、ほとんど触れていませんが、実生活の人格と、ネット上の人格がまったく異なるように、分裂した自分を演じているとすれば、その人にとっての「人間=自分」とは何々か、その人間的誇り、尊厳は、どうなるのか、という形で考えてみましょう。

人間の尊厳とは

尊厳とは、「とおとく おごそかなこと。気高く犯しがたいこと」という意味である。人間にとって気高く犯しがたいこととはなんなのだろうか。それは、その人の人格であると私は考える。人格は一人ひとり違っていて、それを否定されるということはあってはならないことだ。お互いの人格を認め、尊重しあうことで人間らしい集団生活ができるのだと思う。また、人間の尊厳が守られているということは、その人がその人らしく生きているということだ。しかし、今の社会ではありのままの自分を出せずに不便を感じながら生活をしている人も多くいるだろう。このように、人間の尊厳が侵されている場合について考えていきたい。

まず最初に思い浮かんだのが障害者についてである。障害を持っている人は、日常生活でさまざまな困難と立ち向かわなければならない。また、周りからの差別や偏見とも闘わなければならないこともある。このように、障害を持つ人たちは、健常者はなにも不便を感じない場面でもたくさんの苦労をすることが多くある。障害者をもつ子どもたちは特別支援学校で学ぶことができる。軽度の障害の場合などは、普通学校で健常児と一緒に授業を受けたり、特別支援学級で学んだりする。私は、普通学級で学んでいる軽度の障害を持った子に焦点を合わせて「人間の尊厳」について考えていきたいと思った。数ある障害の中でも私はLD(学習障害)について調べている。LDは基本的に全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、読む、話す、計算する、推測する能力のうち特定のものの使用に著しい困難を示す状態を指すものである。学習障害は、この特定の能力以外はほとんど健常者と同じくらいの能力がある。だから、障害であると気づきにくいときもある。LDであると気づいた場合でも、気づかなかった場合でも、その子にとっては授業を受けていてもそれは理解できないもので、自分だけ周りから取り残されていると感じるのではないだろうか。周りの子は理解が速くてどんどん進んでいくのに自分だけ授業に参加できなかったら学校に行きたくないと思ってしまうのではないか。どんな子にも教育は受けさせなければならない。その教育は適切なものでなくてはならないと考える。もしLDの子に配慮せずに授業を進めていってしまったら、その子は将来ずっと自分の苦手な分野に向き合えないのではなか。苦手な分野に向き合うことで自分を理解し、この分野が苦手だから違ったところで自分を活かしていこうと考えられるようになれると思う。自分のことを知って、相手にもわかってもらうことで人間の尊厳は確立される。そうするために、LDの子、また、それ以外の障害を持った生徒に対する支援がとても重要になる。支援をするためには周りの理解が必要だ。この障害がどんな障害なのかをまずまわりの大人たちが理解し、指導に当たらなければならない。

人間の尊厳が守られている状態とは最初に述べたようにその人がその人らしく生きていけるということだ。障害があったとしても、そのことを自分らしさと受け入れること、また周りも障害を理解して支えていくことで、人間の尊厳は守られると考える。そのためにはどのような教育、支援をしていくかが今後重要になる。

認知症から人間の尊厳を考えると(さぁやさんの文に対して)

 今回は、さぁやさんの5月21日「認知症に携わる人々の尊厳とは?」と6月17日「私の考える尊厳とは」についてのコメントです。
 認知証は、人間の尊厳を考える上で、もっとも中心的なテーマであるかも知れません。少なくとも他のいじめや犯罪とは異なる意味をもっています。それは、他のほとんどの領域は、人間関係のなかで生じるのですが、認知症は、もちろん人間関係も影響しますが、基本的には身体的な変化によって生じることです。むしろ、人間関係を喪失していくと、認知症になりやすいともいえます。「人間的」な要素は、多くが「脳」によって官吏されているわけですが、認知症は「脳の機能」が失われていくことによって生じるのですから、まさしく、人間らしくさの喪失でもあるのです。したがって、さぁやさんのいうように、普通の人間的な営みが失われることによって、人間らしさを失っていくわけですから、人間の尊厳を失っていくことでもあります。
 しかし、普通の営みができなくなること=人間の尊厳の喪失とはいえないでしょう。例えば、年をとると、歩いたり走ったりすることが、若いときのようにはできなくなります。身体的に衰えてくるので、できなくなる、あるいはできにくくなることはたくさんあります。しかし、走ることができなくなったとしても、人間の尊厳が損なわれていると感じる人はあまりいないようにも思うのです。さぁやさんは、いじめ、障害者への差別などもあげていますが、認知症になったからといって、いじめられたり、あるいは差別されたりは、必ずしもされません。通常高齢者ですし、人との関係が少なくなっているので、逆にそうした被害を受けることは少なくなるでしょう。
 日本で認知症が広く社会的関心を集めるようになったのは、有吉佐和子の『恍惚の人』がベトスセラーになり、映画化されたことがきっかけでした。この「恍惚の人」という表現にみられるように、一般的に人間らしさを失った状態でも、知的認識を失ってしまった当人にとっては、「恍惚=幸福な状態」と感じられる側面もあるわけです。私の義母は認知症を長く患っていましたが、そのことによって不幸な感じが生じていたかどうかは、あまりわかりません。現状に不満をもつことの多い人だったようなので、逆に認知症になったあと、穏やかになった側面もあるようなのです。認知症になって、家族のなかでどのように扱われるかにより、現れ方がかなり異なるようですが、軋轢が強いと、徘徊がおきやすいともいわれています。義母は一度だけ徘徊しかかりましたが、私が出て行くところをみていて、すぐに妻に連絡して追いかけたので、にこにこしながら帰宅して、その後まったく徘徊はしませんでした。だから、心の内面は完全にはわかりませんが、認知症になるとさまざまな消えていく思い出と、残る思い出があるとして、悪いことが残ったとは思っていません。
 では、その状態は人間の尊厳が保たれているのかといえば、やはりそうではないといわざるをえないのです。
 オランダで、安楽死が広く許容されているのは、自立的な生活ができなくなることは、人間性を失うことだという意識が、オランダ人には強いからだといわれています。つまり、衣食の管理が自分でできなくなると、既に人間的生活ではないと、オランダ人は感じるようです。
 衣食はまだまだ尊厳に関わるとはいえないとしても、排泄などを自分でできなくなることは、かなり尊厳にかかわると感じられます。しかし、認知症になると、そうしたことを恥と考えなくなるのか、あるいは、考えても諦めてしまい、次第に恥の感覚を喪失していくのか、私には、まだよくわからないのですが、進んだ認知症の人は、衣食、風呂、排泄処理等のすべてを介助してもらうことになります。
 そうした光景をみたり、考えたりすると、ゼミのときの学生諸君の反応のように、自分はそのようになりたくない、そうまでして生きていたくないと感じる人が多いのですが、しかし、認知症の家族については、でもできるだけ長く生きていてほしいと願う人がほとんどです。
 つまり、認知症にかかわって人間の尊厳を考えると、私たちのほとんどは、すごく矛盾した生活態度をとっていることに気づきます。さぁやさんだけではなく、このテーマを扱っていない他のひとたちも、ぜひこの「矛盾」をじっくり考えてみてください。

私の考える尊厳とは

我々はゼミで尊厳を犯されている人々に着目した課題について掘り下げている。しかし、尊厳というのは何かという根幹から考える必要がある。

私の考える人間の尊厳というのは人間が人間らしく生きる事であり、日常生活で最低限の権利があること、普通に生きられることだと思う。
“人間らしく”や“普通”というのは、難しいことではなく当たり前のことが出来ることである。
 私たちは朝起きてご飯を食べて歯を磨いて学校へ行って学び帰宅するといった何気ない毎日を過ごしている。私たちが当たり前にしていることである。
 しかし、ご飯を食べる事が出来ない・歯を磨くことも出来ない・学校へ行く事も出来ないと想像するとどうであろう。日常生活の最低限の権利があるとは言い難い。
 私たちはいじめや障害者について調べる人が多いが、全員のテーマに共通して言えることは、人間の尊厳は社会の中で差別や軽蔑をされると自分の存在価値を見失う人が出てくるということである。差別や軽蔑はもちろんあってはならないことである。
 例えば障害者は、障害者という理由だけで職につけなかったり公共で変な目で見られたりする。学校ではいじめによって引きこもりになってしまう人もいる。
 同じ人間なのに人間らしく生きることが出来ていない人たちが少なからずいることがわかる。尊厳を守ることが大切なことである。
 人間は一人一人ちがった個性があり、人間として尊厳というのは有するものであり、生きていれば誰もがもつ平等の権利である。
当たり前の生活をすることを前提として、人間としての価値観や存在を大切にすることが人間の尊厳の大切さにつながると考える。
 上記のことが私の考える人間の尊厳である。

いじめをプラスに転化するとは

 今年度のゼミもだんだん軌道に乗りつつあるので、これまで書かれた学生の見解に対して、少しずつコメントをしていこうと考えている。まずは最初の投稿であるまいさんの文章だが、非常に重要で、かつ難しい論点が提起されている。それは次の文章だ。

私は以前いじめを受け、自分の欠点を見直すことができたりその後いじめられている人の気持ちを少し理解できるようになったりと、いじめられた経験がマイナスなことばかりではないと思う。しかしこのように考えられるのは早期発見や当時の先生が助けてくれたり家族が悩みを聞いてくれたりしたので、そこまで深刻な問題に至らなかったのだと思う。いじめを“なくす”より“軽減する”ことが尊厳を守ると考えたときに重要になってくるだろう。いじめがあっても教師がそれを気づけるように、子どもと教師の信頼関係を強くしたり、いじめられている子を助けたいと思う子が1人でもいてその子が行動に移すことができるようになったりすればいじめが止められると推測する。

 ここで書かれていることは、
1 いじめられた経験は、自分の欠点を見直す機会となったり、いじめられている人の気持ちがわかるという点で、マイナスばかりではない。
2 いじめはなくすことより、軽減することが、人間の尊厳を考えるうえでは、重要である。
3 子どもと教師の信頼関係を強くし、いじめられている子どもを助けたいと思う子どもがいて、行動できればいじめは止められる。
以上の3点である。
 2番目はある意味現実的であろうが、ただ、いじめをなくすことは不可能だという主張になるとすれば、少なくとも学級レベルではいじめのない学級つくりは不可能ではないし、また、実際に優れた教師の指導の下で可能になることはあるだろう。ただ、なんとしても、最悪の悲劇を生まないという決意を表すという意味で、重要な指摘であると考えられる。
 3番目は、日々の実践の中で、いじめ対策としては、もっとも重要な視点のひとつだろう。現在いじめが陰湿化したり、あるいは悲惨な状況になったりするのは、誰もいじめを止める子どもがおらず、完全に孤立してしまうと感じられるからだろう。絶対的な味方がいれば、それほど重大な決意をする可能性は極めて低いといわれる。確かに、昔はいじめをとめる子どもが、たいていは学級内に数名はいたといわれる。また、比較的子どもが多く、けんかの機会も多かったので、けんかの延長としてのいじめが多く、そのうち自然に消滅することも少なくなかったし、また、リーダー的な子どもが抑制機能を果たしていたともいえる。しかし、近年は、いじめをとめると逆にいじめの対象になるので、とめたいと思っていてもなかなか止められない傾向があるとされる。実際に、いじめをとめたために、自分がいじめのターゲットになってしまった経験をもつ学生もいる。したがって、このまいさんが実現すべきとした、子どもと教師の信頼関係をどのようにすれば形成できるのかが、明らかにされる必要がある。
 私の考える点としては、以下のようなことが考えられる。
 まずは、教師が常日頃、もっとも弱い子どもたちの味方であること、弱いからこそ味方であるという姿勢を示し、それを子どもたちにしっかり認識させることだろう。もっとも弱い子どもの味方であるということは、何か助けが必要となった場合、かならず自分の味方をしてくれると信じてもらえることになる。
 ただ、それだけでは足りない。さまざまな判断について、ぶれないことである。ルールをぶれずに実行することは、意外に難しい。どうしても感情が入って、普段違反をしない子どもと、普段から違反をしている子どもとで、後者をより厳しくしてしまいがちになる。逆に、多少のことを目をつむってもいいかと妥協的になったりする。子どもは、新しい教師の場合に、「試す」行為をよくするものである。この教師は厳しいか、どこまでは許すか、あるいはいっていることを本当に実行する教師なのか、などを、自分たちでぎりぎりの悪いことをして試すわけである。そうしたときに、決めたルールの逸脱を認めてしまうと、次第にエスカレートする。そうしたことで、ぶれない対応が重要なのである。
 弱い子どもの味方であること、判断がぶれないことが、確実に実行されていれば、いじめ等が発生しても、誰かが教師に知らせてくれる可能性が高いように思われる。
 さて、最も難しいのは1番目のことであろう。
 確かにまいさんのいうように、いじめのような、傷を負うような体験をしても、それを完全に否定的にとらえるのではなく、積極的に活かすことができる反省を引き出すことは、重要なことのように思う。しかし、原則として、いじめはマイナス面だけではない、という「定式」化してしまえば、いじめがあったほうがいいことのように思われる危険性があるし、また、いじめがなければ学べないことがあるかのように錯覚する子どもも出てくるかも知れない。
 私は小学校のころの「行事」などはほとんど覚えていないが、なぜか、卒業式のPTA会長の挨拶の一部だけは鮮明に覚えている。それは、「艱難汝を玉にす」ということばを紹介したのだが、要するに、苦労をすることで人間は成長できるのだという意味である。小学生が正確に意味を理解することなどできないわけだが、何故かこの部分は鮮明な記憶として残っている。
 「かわいい子には旅をさせよ」などいうのも同じ意味だが、では、いじめも艱難だから、積極的にするのがいいのか、などということにはならないだろう。艱難も好んで作り出すのがいいとは断言できない。
 いじめがおきないことを最大限の努力目標として、いざ起きてしまったこときに、それを次のことにどのようにプラスに転化させることができるか、これはいじめに限らずあらゆることでいえることではあるが、そうした意味で賛成できる。ただ、やはり、どのようにして、プラスに転化できるのか、そう簡単ではないはずである。

人間の尊厳と教育

尊厳とは、誰にでも平等にあるものだと私は思う。生活の場、労働の場、教育の場、どんな場所、場合においてもそれは犯されることなく、尊重されるべきだ。そして、人間の尊厳は個人が社会の中で、その人格や考えを理解され、尊重されて初めて成り立つものだと思う。
このように考えたときに、私は障害者の尊厳は尊重されているのだろうかと疑問に思った。
よく電車で、障害者の方が大声を出したり歩き回ったりしているのを見て、嫌な顔をしたり笑ったりする人を見かける。障害者は悪気があってこのような行動をしているわけではないのに、周りの人から批判や誤解されてしまうことが多い。このような状態では、障害者の尊厳が尊重されているとは言えないのではないか。
では、なぜ障害者は誤解されてしまうのだろうか。私は、障害への理解や知識が少ないことが原因ではないかと思う。もし、電車に乗っている人たちに障害の知識があり、障害者がとる行動の意味が分かれば、誰も障害者に対して嫌な顔をしたり笑ったりしないと思う。障害について何も知らず、どうしたらよいのか分からないから「なんなんだろう?」と思ってしまうのではないだろうか。

このことから、私は障害者が尊厳を持って生活していくために、障害の知識を多くの人が持ち、理解することが必要だと思う。そのために、学校教育での障害児と健常児の統合教育が大切だと考える。
現在、日本には特別支援学校があり、障害のある子どもの多くが特別支援学校に通っている。障害児が特別支援学校に行くことは、障害児がニーズに合った教育を受けることができる反面、障害児と健常児の関わりをなくしてしまうということでもあると思う。このような分けられた教育では、子どもが障害を理解することは難しいと思う。しかし、子どもの頃から統合教育によって障害児とふれあうことで、遊びながらその子を理解したり、関わり方が分かったりと、子どもなりに障害というものを理解できるのではないかと思う。そうすれば、先に述べたように障害者が誤解されることもなくなると思う。障害児も健常児も関係なく、一緒に教育することは大変だと思うが、離れていてはお互いに理解することは絶対にできない。一緒に過ごすことで、少なくとも「障害が分からない、関係ない」と思う子どもは少なくなるのではないかと思う。
そして、障害児にとっても健常児とのふれあいは必要だ。特別支援学校では、障害についての専門的な知識を持った先生達が障害児のニーズに合った生活指導や学習指導をする。それは障害児にとって良いことだと思う。しかしその反面、健常児とふれあう機会はなくなってしまう。また、地元の学校に行かないため、自分の住む地域の人との関わりが少なくなってしまうというデメリットもある。
特別支援学校のような、周りの人がみんな障害を理解している環境で自分に合った教育を受けることは大切なことだ。しかし、障害児も将来は社会の中で人と関わりながら生きていく以上、健常児や地域の人との関わりを持つことも大切なことなのではないかと思う。
そうすることで、大人になったとき、仕事や生活をしていく上で過ごしやすい環境を作ることが出来るのではないかと思う。

しかし、現在の教育現場では障害児を受け入れることは難しい。統合教育に必要な教師の人数も、障害児のニーズに合った教育ができる教師も全く足りていない。実際問題としては、日本で統合教育を実現することは厳しいのではないかと思う。
だから私は、障害児と健常児の交流学習を進めていくべきだと思う。特別支援学校の子どもと、普通学校の子どもが定期的に交流する形なら、現在の教育体制でも十分可能だと思うし、学校間で交流の回数や時期を調整することもできる。何より、障害児にとって適切な環境で学習しながら、健常児との交流もできるという点が良いと思う。
現在、この交流学習を実施している学校は全国にある。中でも埼玉県では、独自に「支援籍」という特別支援学校の児童・生徒が地元の学校にも籍を置き、定期的に交流するという制度を取り入れている。
今後はゼミの活動として、この支援籍の効果や実際の体験談、課題などから障害児と健常児の交流教育を考えていきたい。

スクールカースト

 ゼミのテーマが人間の尊厳ということで私が人間の尊厳が侵されている事例として思い浮かんだのが「スクールカースト」についてだった。スクールカーストとは学校の教室内で自然発生的に起きる生徒間の人気の度合いのことを示す。インドのカースト制度に似ていることからスクールカーストという言葉が生まれた。
 
 スクールカーストのある教室では下のランクのものは教室で騒ぐことが許されていない。常に上のランクのものに目をつけられないよう、目立たないように気を使い続けなければならない。上のランクのものには教室で騒ぐ権利があり、クラスの空気を変える権利がある。このようなことが現代の学校の教室で起きている。このことは人間の尊厳を侵していると私は考え、スクールカーストを個人テーマにすることにした。他にも私にはこのテーマを設定した理由がある。私自身、高校時代にスクールカーストを経験していた。上のランクではなかった私はクラスの上のランクのものに目をつけられないように無意識にだが気を使っていた。とてもモヤモヤした気持ちで高校時代を過ごしていたのを覚えている。大学に入ってからスクールカーストという言葉を知った。高校の頃のあのモヤモヤの正体はこれだったのかと気づいた。それでスクールカーストに興味を持ち、二年生の授業で自分でテーマを設定して発表するという授業があったのでスクールカーストについて調べ発表した。このゼミの中では以前自分が調べた内容をさらに深めていきたいと思っている。

では
具体的に何を調べていくのか。まずスクールカーストの上下関係を形成してしまう要因を調べていきたいと思っている。主に知られているものとしては、容姿や学力、運動の得意不得意などがある。また最も重要なものがコミュニケーション能力だと言われている。これらの様々な要因が複雑に絡み合い、スクールカーストは形成されていると言われている。他に調べる内容としてはいじめとの関連についてである。スクールカーストといじめは同じものではないが全く別のものとも言えない関係にある。全てのいじめがカーストから発生している訳ではないが多くの場合にはカーストで下のランクのものがいじめられる割合の方が高いようである。研究の中で私はどのような場合においてスクールカーストはいじめに発展してしまうのか調べていきたいと思っている。また現場の先生にもインタビューを行いスクールカーストをどう思っているかや、「教室内カーストを書いた鈴木翔さんにもインタビューを行っていきたいと思っている。

「人間の尊厳」を侵すクレーマーズ

 人間の尊厳が侵されているケースを考えてみたときに、始めに浮かんだのはクレーマーに代表される道徳性を欠いた客の言動や態度だ。

 近年、クレーマーやモンスターペアレントなど道徳性を欠いた者たちの存在が、度々メディアに取り上げられている。そのような異分子に対して疑問や憤りを抱くようになったのは最近のことで、少し前までは「お客様は神様」という考え方が一般的であった。
現代人である私はそのような考え方には否定的で、高圧的な態度だけでなく、敬語で話しかけているのに“タメ口”で答えられると疑問を感じる。
 “タメ口”とは、主に二つの場面で用いられる言葉だ。一つ目は、友人関係や血縁などのお互いに親しい関係である場面。もう一つは、上司から部下や先輩から後輩など格差が存在する関係である場面。この二つの場面で客が用いる“タメ口”は後者であり、その“店員よりも客が優位に立っている”という立場誇示に対して誰も疑問を持たない。
もし、“タメ口”の客に対して“タメ口”で対応すると十中八九そのことでクレームをつけられるだろう。

なぜこのような理不尽なことがまかり通るのか。

客と店員は互いに納得して金と商品を交換しているだけなので、等価交換である以上、立場も同等のはずだ。
しかし、そのような疑問を抱く人は少なく、“客優位説”が世間には蔓延している。また、少し前までは“客は神様説”とより過激であった。
 だが、そのような考え方が広まったのは“大量生産社会”になってからで、むしろ江戸時代以前は売り手の方が優位であった。 このことは、現代の社会でも例外ではないだろう。
例えば、芸術作品など“特定の人物にしか作れないモノ”である場合や、“一見さんお断り”などの高級店だ。これらのケースは客よりも店側が明らかに優位である。このことを踏まえると、私たちは“客は店員より立場が上”という常識に囚われ、流されてしまっていると言える。

 これまでの内容は、クレームを受ける側を中心とした個人的な見解である。
そこで、“店員と客の立場関係”や“クレームの実態”などをバイト経験の有る学生を対象にアンケートを取り、そこから共通点や傾向などを見つけていきたい。
また、クレームを言う側の視点にも立って、「クレームを言ったことがあるか」、「クレームを言った理由」、「クレームと苦情の違い」などのアンケートを同時進行で進めたいと考えている。

人間の尊厳 障がい者支援について

 私は、特別支援学校に通う障がいをもった方々が、卒業後にそれぞれの進路先でどのような支援体を受けているのかを調べていきたいと思う。調べようと思った理由は、ジョブコーチ(職場適応援助者)という支援事業があるということを知ったからである。ジョブコーチとは障がい者が職場に適応できたり、人間関係や職場でのコミュニケーションを改善できるよう、支援計画に基づきジョブコーチが職場に出向いて直接支援を行うといった事業である。私はジョブコーチについて知り、この支援事業は障がいを抱えた人であっても、それぞれの場所で自分らしく生きていくための支援であると思った。私は人間の尊厳とは自分らしく生きること、であると考えているので、特別支援学校を卒業した後のサポートは、人間の尊厳と大きく関わってくると考え、このテーマに決めた。

ジョブコーチについて調べていくと、他にもさまざまな支援体制があることが分かった。
その一つに、障害者雇用促進法がある。これは障がい者の雇用対策として、企業に対して雇用する労働者の2.0パーセントに相当する障がい者を雇用することを義務付けたものである。この雇用支援によって、多くの障がい者の進路の幅が広がったのは確かである。しかし、私は障がい者にとって、「雇用されること」よりも「働き続けること」の方が大切なのではないかと考えている。だが、就職することができても、障がいについて周りから理解を得ることができずに職場になじめず辞めていったり、コミュニケーションを上手く取れず、仕事に適応することができなくて自信を失っていったりする人が多いことが現状である。また、その現状をふせぐためのジョブコーチの数が足りていなく、多くの障がい者が就職先で悩み苦しんでいることも事実である。私はどうすれば障がいを持った方が自信をもって働き続けることができるのかや、現在の支援体制が本当に障がい者のためになっていることなのか、なども考えていきたい。

また私は、支援体制などについて調べるとともに、支援を受ける側の、障がいを持った方々や、その家族は支援体制についてどう思っているのか、改善してほしいことや、このような支援があれば・・・といったような、支援を利用する人々の思いを伺うことができればと考えている。

調査方法としては、文献やインターネットなどを利用して、特別支援学校を卒業した障がい者の方々のために、どのような支援体制が整えられているのかを調べる。いくつかの特別支援学校にたずねて、卒業後はどのような進路があるのかも知りたい。そして調べたことなどを基にして、実際に障がいを持った方が働いている企業や作業所などに行き、本人や上司、責任者などの方々にインタビューしていきたいと考えている。

学校現場におけるこどもの尊厳

私は「学校での子供の守られるべき尊厳」について考察していきたいと考えている。

まず、学校現場で教師が子供に不快に思うようなことや傷ついてしまうような行為を行うことも、子供の尊厳が侵されているといえるのではないだろうか。私が小学生だった時に「嫌いな食べ物も残さず食べないと昼休みがもらえない」というルールがあった。また「人前で話すことが苦手な子に泣きながらクラスメートの前で発表させる」ということもあった。これはその子にとって嫌なことであり、尊厳が侵されている状況なのである。

しかし、教師の立場から考えてみると、今後進学したり社会に出たときに必要であるから行わせていることもあるかもしれない。また、できなかったことができるようになったという達成感を味わってほしいからこそ、そのようにしていたのかもしれない。このような教師の意図をきちんと受け取ってもらうことは難しいことである。時にはその意図が伝わらないまま子供が投げ出してしまうこともあるだろう。

一方、子供が不快感を抱いたり、傷つくことがあったとしても、なかなか教師に伝わらなかったり、言い出せないということも事実であろう。いくら子供が、教わる立場であるからとはいっても、守られるべき尊厳は存在するのである。

このような教師と子供たちとの心のすれちがいは実際に教師になれば誰もが経験する道であると考える。だからこそ私は、週一回、小学校に行かせてもらっているという環境を生かして、教師と子供の両方の観点から、子供の守られるべき尊厳について考えていきたいと考えている。

 

調査方法としては週一回行かせてもらっている小学校での観察や実際に先生方からお話を伺っていく。また、子供側の視点も得るために、文教大学の学生に過去の学校生活で教師からの押しつけと感じたことについてのアンケートも協力してもらう。