読書ノート『知の鎖国』アイヴァン・ホール(毎日新聞)1

 まだ全部ではないが、アイヴァン・ホール『知の鎖国』なる本を読んでみた。1998年に書かれた本なので、かなり古いが、日本が停滞に陥り、数年経過した時点での日本批判であり、この批判が適切であれば、日本が停滞から抜け出すのは難しいと思わせたに違いない。事実、日本は停滞から抜け出していないので、指摘は多くあたっていたということになるのだろう。
 一言でいえば、日本の知的専門職が、外国人に対して開かれておらず、外国人を差別しているという事例がこれでもかと出てくる本である。残念ながら、翻訳がよいとはいえないので、意味が鮮明でない部分がある。また、著者の誤解もあるような気がするが、しかし、日本人としては、このような批判に対しては、率直に耳を傾けるべきであろう。
 法律家(弁護士)、報道陣、大学教師、科学者と留学生、批評家の分野で、いかに日本社会の知的閉鎖的であるかを具体的に示している。まずは、大学教師の部分について考えてみたい。

“読書ノート『知の鎖国』アイヴァン・ホール(毎日新聞)1” の続きを読む

行き詰まった悠仁親王進学問題

 あまり根拠が示されていないのだが、youtubeでは多数、悠仁親王の進学に際して、筑波大学が断ったということが言われている。そこで、早稲田に志望を切り換えたというのだ。現時点で、確実な情報ではないので、どこに決まるかは論及しないとして、この問題は、予想よりも広い影響を与えているように思われた。教育問題でもあるので、避けて通れない気がした。
 進学を望まれた筑波大学付属高校の側から、この問題を考えてみる。もし、一般の入学試験を受けて、確かに高得点をとり、堂々と入学してもらえるならば、学校としてはかなりの名誉になるのかも知れない。しかし、誰がみても、学力不足の、特別な地位にいるひとが、そのひとのために設けられた特別入学制度「提携校進学制度」(特別裏口入学制度というべきか)を使って入学してくるとなると、名誉などとは遠い評価を受けることになるに違いない。

“行き詰まった悠仁親王進学問題” の続きを読む

新年早々だが、いじめ話題2

 旭川の事件に関しての続きであるが、今回は、論点になる部分についての考察をする。
 
1 いじめと自殺との関連性
 当時の校長は、いじめも否定し、当然自殺との関連をも否定しているわけだが、いじめというよりは、犯罪にまで至る行為であったことは疑いない。しかし、このいじめ・犯罪行為と自殺の関連性については、簡単にはいえない要素があることも事実だ。
 というのは、いじめ・犯罪行為があったのは、2019年の4月から6月までであり、その後被害生徒は入院不登校となり、9月には別の学校に転校してしまい、そこでも不登校と入退院をしている。これまでの報道を見る限りは、転校先の中学で、同様のいじめを受けたようには言われていない。しかし、PTSDを患い、苦しんで入院しており、その原因がY中学でのいじめ・犯罪であることも疑いようがない。自殺をしたのが、2021年の2月であるから、かなり日時が経過している。そして、2020年に、インターネットの相談コーナーでの相談の会話を聴いている限り、もちろん悩んでいるが、本人の対応はしっかりしている。

“新年早々だが、いじめ話題2” の続きを読む

旭川のいじめ自殺

 元旦にネットでニュースをチェックしようと思ったら、文春オンラインが北海道旭川で起きたいじめ自殺事件の、過去の記事を再度掲載しているものが目についた。もちろん、この事件については知ってはいたが、詳細を追いかけることはしていなかったので、改めて文春オンラインだけではなく、いろいろと調べてみた。テレビによく出てくる犯罪コメンテーターというべき小川泰平氏が、何度も現地調査して、かなり多数のyoutube動画をあげているのに驚いた。そして、事実を知るほどに、怒りの感情が増大してくるのは、多くの人と同様だった。大津の事件と、いじめの陰湿さと教育関係者の隠蔽体質は似ているが、隠蔽を破ったのが、メディアだったという点では、福島の須賀川一中の柔道部事故に似ている。
 旭川事件は、週刊文春が報道したことで、大きく動いたわけだ。つまり、文春の報道がなければ、隠蔽されたままだったかも知れない。

“旭川のいじめ自殺” の続きを読む

教育学を考える28 教育的価値2

 他の領域の価値ではなく、教育独自の価値は何か、それはあるのか。
 ずっと考えているのだが、かなり難しい問題であると感じた。つまり、これが教育的価値であるという内実が、あまり出てこないのである。勝田も「全面発達」しかあげていない。「全面発達」自体がかなり論争的な問題であるから、そんなありもしない概念が、価値というのはおかしいという批判もでてきそうである。勝田の議論は、教育的価値を論ずる場合の歴史性とか、産業構造とか、周辺の検討に終始して、本丸になかなかいかないのである。
 
 もう少し、教育の基本から考え直してみよう。
 宮原誠一の有名な「教育の本質」規定について考えてみる。1949年に書かれた「教育の本質」という論文で主張されていることは、現在なお有効であるといえる。それは、ふたつのことをいっている。

“教育学を考える28 教育的価値2” の続きを読む

教育学を考える27 教育的価値1

 教科研の教育学部会で、教育的価値についての議論があったそうだ。教科研ニュースに議論の紹介が比較的詳しく紹介されている。しかし、私には、極めて基本的な問題、そもそも「教育的価値」とは何かという点は議論されていないので、不満だった。教育的価値は、教科研の戦後初期の理論的リーダーだった勝田守一の主要な主張のひとつだったから、「教育的価値」とは何かについては、議論の余地がないと考えられているのだろうか。勝田守一著作集第6巻の目次をみると、「教育的価値」という言葉がでているのは、一カ所しかない。「教育の概念と教育学」という1958年に書かれた論文に「教育的価値」という節がある。しかし、この論文においても、では何が教育的価値なのかということは、「例えば全面発達」といういい方がされているだけで、それ以上の具体的価値内容は記されていないのである。
 
 では、教育的価値とは、どういう文脈で出てくるのか。

“教育学を考える27 教育的価値1” の続きを読む

日本は本当に能力主義社会か12 コネ採用 日大田中体制から

 本日(12月26日)に時事通信の記事「日大に「縁故採用」規定 職員応募、学長・監督の推薦必須 田中体制で強化」が掲載されている。 https://news.yahoo.co.jp/articles/ba0fe2910f8dfe7d2fffb640a175eaa6ea49c1dc
 ヤフコメが実に多様な意見が出ていて、珍しい現象だと思う。また見出しを読むと、日大が縁故採用をルール化しているような印象を与えるが、記事を読むと、必ずしもそうではない。
 記事によると、日大の2022年度大卒職員(一般職)採用選考試験実施要項によると、応募資格は
(1)大学の長等(他大学の長も含む)により推薦された者
(2)日大競技部に所属し、優秀な競技歴を有し、かつ将来競技部の監督・コーチの後継者となることについて期待し得る者
(3)日大任期制職員(一般職)にある者で、所属部科校長等により推薦された者
 要するに推薦状が必要であるとしているだけで、推薦状を大学が発行する場合には、実際に文章を書く人がだれかは別として、推薦する名義は学部長であったりする。ただし、この記事が批判的に扱っていることは、このことではなく、以下の部分だと思われる。

“日本は本当に能力主義社会か12 コネ採用 日大田中体制から” の続きを読む

遊びと学習3

 今回は具体的にどのようなことが、学校教育における子どもの指導で、遊びと学習という観点から大事なのかを考えてみる。
 以下は、ケン・ロビンソン『創造的な学校』の最初に出てくる話だ。
 ある公立の中学は、かなり荒れていて、赴任する校長が直ぐに交代してしまうような学校だった。そのなかで、ある校長が腰をいれて実践を始めた。当初は、とにかく喧嘩をさせないことにエネルギーを注ぎ込まざるをえなかったというが、やがて、喧嘩をしなくなると、学校の勉強などは嫌いな生徒たちに対して、各人にとって重要なことを、そのまま認め、教師たちに遠慮なく没頭できるようにした。

“遊びと学習3” の続きを読む

遊びと学習2

 人間の脳が、遊びのような活動をしているときに、最も活性化するということから考えて、学びの効果は、遊び的要素によって向上することは、容易に想像できる。かつて、優れた業績をあげた人は、その分野に取り組んでいるとき、かならず遊びの精神をもっていたに違いないのである。もちろん、そこには大きな壁を乗りこえるという苦難があっただろうが、それも楽しいこと、好きなことをやっているからこそ克服できたのであろう。
 以上のことを踏まえて、学校教育について考えてみる。各種調査によって、日本の子どもたちは、学校に楽しくて通っていることがわかっている。もちろん、いじめや不登校という問題もあるが、大多数の子どもたちにとって学校は楽しいところなのである。しかし、その楽しさは、友達と一緒に過ごせるからであり、勉強が楽しいという子どもは、極めて少数しかいないこともわかっている。本来学校は学ぶところなのだから、勉強が楽しくなければ、効果的な学習をしている子どもはわずかしかいないことは、疑う余地がない。そして、その傾向は、近年ますます高まっている。
 学習指導要領による内容規制だけではなく、スタンダードなる言葉によって、教え方、行動様式までが、ある一定のものに揃えることが志向されている。

“遊びと学習2” の続きを読む

遊びと学習1

 子どもが遊ばなくなったといわれるが、コロナは遊びについて考えさせる契機ともなっているようだ。コロナで行動が不自由になり、遊びも制約され、家庭内でのゲームなどが増えたというようないい方がある一方、全国の学校が休校になり、学校という制約がなくなったので、子どもたちは自由に遊べるようになったという人もいる。(神代洋一「新たな子ども時代の遊びを」『教育』2022.1)そういえば、全国学校休校中、我が家の前の公園では、けっこうたくさんの子どもたちが遊んでいたように思う。ただ、それが一般的な現象だったかどうかはわからない。
 コロナとは無関係に、昔風の子どもの遊びが少なくなってきたことは、時代的趨勢として確実にいえることだろう。地域によってずいぶん異なると思うが、理由はいくつか考えられる。

“遊びと学習1” の続きを読む