オペラ随想 聴衆の登場とオペラ

 現代の音楽に限らず、演ずる芸術は、聴衆の存在があって初めて成立する。文学にとっては読者が必要だが、まったく読者がつかない文学はありえる。そして、死後評価されるようになる文学も存在する。しかし、音楽は、聴く者の存在なしには存立し得ないといってよい。聴くものがいないまま、作曲家が死んだあと、何かのきっかけで、その作曲家の作品の人気がでることは、個別の曲としてはあるが、作曲家としては、私の知る限り存在しない。有名な作曲家は、生きているときから有名だったのである。何故そうなのか、確信はないが、おそらく、音楽は、創作(作曲)と鑑賞者(聴衆)の間に、演奏者という媒介者が必要だからではないと思う。古くは、作曲家が演奏することが多かったにせよ、やはり広く知られるようになるためには、他の音楽家によっても演奏されることが必要だったろう。特に、ロマン派以降は、作曲家と演奏家は分離してくるから、尚更である。演奏家もプロだから、曲への共感がなければ演奏しない。演奏家がすばらしい音楽だと思うから演奏する。そして、優れた音楽だと感じれば、今度は、演奏家が自分の存在意義として、活発に演奏して、広く知らしめるだろう。従って、優れた音楽を創作した作曲家は、聴衆をたくさん獲得し、そして、そのことによって、作曲家としての地位を固めていくことができる。 “オペラ随想 聴衆の登場とオペラ” の続きを読む

オペラの読み替え、筋変更は何故 ローリングリンの場合

 二期会の「蝶々夫人」の筋の変更について書いたが、筋の変更は、現在ではむしろ普通のことになってしまった。結末を変えるのは、むしろ大人しいほうで、時代や登場人物の社会的存在まですっかり変えてしまうことも珍しくない。ワーグナーの「タンホイザー」では、原作は、吟遊詩人の話だが、画家だったり、詩人だったりする。近年のバイロイトでは、自動車工場が舞台になっている。あまりに馬鹿馬鹿しいので、どうしても直ぐに視聴するのを止めてしまう。ワーグナーはどれもみな長いので、実際の舞台での視聴なら最後まで我慢するが、DVDやBDだと、途中で放り出してしまう。そうした素材の分析をこのブログに書くように心がける以外に、全部見る方策はなさそうだ。
 実は昨年の二期会での上演をみて、文章を書いていたのだが、アップしていなかったのがあるので、多少書き直してアップすることにした。 “オペラの読み替え、筋変更は何故 ローリングリンの場合” の続きを読む

ベートーヴェンはオーケストレーションが下手?

 もうひとつのベートーヴェンへの疑問が、オーケストレーションが下手だというものだ。あまり詳しく書かれていなかったので推測にすぎないが、この方は、ラベルとかマーラーなどを念頭において、ベートーヴェンのオーケストラ曲が、色彩感が乏しいと思っているのではないだろうか。しかし、ラベルやマーラーを基準にべートーヴェンを批判するのは、いかにも当時の状況を無視している。ラベルの時代には、楽器改良がほぼ完成し、更に奏者の技量もあがった。音楽学校が整備されてきたことも影響している。オーケストラの編成も大きくなり、華麗な響きだけではなく、さまざまな多様な音色を高い技巧で表現できるようになっていた。更にマーラーは、優れた指揮者だったから、自分のオケで試しの演奏をして、そのあとで修正することが充分に可能だった。
 では、ベートーヴェン時代の考慮すべき事情とは何か。
 第一に、ベートーヴェンの時代には、貴族のお抱えオーケストラ以外には、プロの常設コンサートオーケストラは存在しなかった。 “ベートーヴェンはオーケストレーションが下手?” の続きを読む

名曲って何? 「運命」は名曲じゃない?

 私は、CDや本の視聴者・読者のレビューを読むのが好きなのだが、ときに、かなり驚く文章にぶつかることがある。そのなかで、私にとっては最も強烈だったのが、ベートーヴェンの「運命は名曲じゃない」というのと、ベートーヴェンはオーケストレーションが下手だったというのがある。これには、心底びっくりした。来年はベートーヴェンのアニバーサル・イヤーということもあり、私のオケでも「田園」をやることになっており、また、ベートーヴェンの全集なども早速でている。
 ベートーヴェンのみならず、クラシック音楽のなかで、最も「名曲」と親しまれているのが、「運命」第五交響曲だと思っているので、「名曲じゃない」と言われると、あなたにとって「名曲は何?」と聞き返したいところだ。 “名曲って何? 「運命」は名曲じゃない?” の続きを読む

二期会「蝶々夫人」 後悔し続けたピンカートン?

 今日東京二期会の公演「蝶々夫人」を東京文化会館で見た。実は「蝶々夫人」はあまり好みのオペラではなく、プッチーニは「ボエーム」だけあれば、と思っているほうなのだが、今回はイタリアの若きマエストロ、バッティストーニが指揮をするというので、出かけた。バッティストーニは、「トロバトーレ」「オテロ」に続いて、3回目だ。1987年生まれというから、まだ32歳だが、指揮者として既に巨匠ではないかと思われるほどの活躍をしている。「トロバトーレ」と「オテロ」は、ヴェルディだからやさしい、とは言わないが、直球勝負でいけると思うが、「蝶々夫人」はかなり変化球が多いし、前二曲と違って、音楽的魅力において少々劣るから、指揮者の力量がシビアに試されるのではないか。スコアをみると、私などにもわかるのだが、拍子感からかなりずれたメロディーがよく出てくるが、それは、rit. を大げさにやるように書いてある。しかし、いきなりrit.を遅くすると、つながりが不自然になるから、自然にテンポを緩めながら、rit.を伸ばすように演奏しなければならない。オケと歌手をあわせるのも、こういうときには、難しいだろう。そういう部分がふんだんにあるし、テンポも頻繁に変わる。マーラーの後期の作品も同じような傾向があるので、お互いに影響しあっているのだろうか。
 昭和の終わり頃か、あるいは平成の始め頃か、「蝶々夫人」は日本を侮辱しているのではないか、特に、「蝶々夫人」は初演が失敗しているために、何度も書き直しが行われているが、その過程で、そうした侮辱的要素が生まれてきたのではないか、というような議論が、何度か行われていた。 “二期会「蝶々夫人」 後悔し続けたピンカートン?” の続きを読む

大作曲家の作品1

 昨日は、私の所属している松戸シティフィルの演奏会だった。松戸市がオリンピックにおけるルーマニアのホスト市になっているということで、ルーマニアの代表的な作曲家であるエネスク(以前はエネスコと呼ばれていた)の作品を演奏した。そして、指揮者として、ルーマニアのオーケストラの常任指揮者を務めている尾崎晋也さんが振った。海外で活躍されている大変優れた指揮者で、やさしい雰囲気で厳しいことをどんどん指摘することで、私個人としては、普段なら諦めてしまうような難しいパッセージもなんとか弾けるようになろうと、かなり練習したつもりだ。本番も普段よりは弾けたと思う。
 ルーマニア祭のような感じで、新聞(朝日、毎日)が取り上げてくれたために、オケ単独の演奏会としては、けっこう聴衆もたくさん入ったような気がする。
 ブログで、自分のオケの演奏会のことは、いままで書いたことがないが、書く気になったのは、大変珍しい「ルーマニアの詩」という曲が入っていたからだ。CDでも2、3種類しかでておらず、ユーチューブにも2つくらいしかない。交響詩のジャンルにはいると思うが、2楽章で30分もかかる。珍しいというのは、この曲が作品1だということもある。つまり、まだ音楽院の学生だったころの作品らしく、エネスクが、後年苦しいときには、この作品の作曲していたころのことを思い出しながら、自分を励ましていたと、指揮者の尾崎さんが教えてくれたのだが、作品1というのは、みんな青春の思い出なのだろうか。 “大作曲家の作品1” の続きを読む

歌舞伎を初めて見た

 今年度で大学も終わるので、大学からのプレゼントとして、歌舞伎の券を贈られた。一度くらい見ておきたいと思ってはいたが、私はオペラファンなので、まあ実際に見に行くことはないだろうとは思っていたのだが、こういう機会はぜひ利用させてもらおうと思って、昨日出かけた。場所は日比谷線の東銀座駅から直接いけるようになっているのだが、直接いけるのは、展示やお土産屋さんの並んでいるビルで、実際に歌舞伎座の劇場に入るには、外に出てから、道路に面している入り口から入る。暑くて、一斉に並んで入るので、かなり不便な仕組みだ。ロビーも狭いし、普段慣れている音楽会場とは違う。だが、この夏いったバイロイトの劇場はロビーがお世辞にも広いとはいえなかったので、似たようなものかも知れない。バイロイトは、休憩時間中は、外に(といっても庭園だが)出て,ビールやワインを飲む。歌舞伎座は、多くの人がお弁当を買っていて、座席で食べていた。休憩時間中は飲食オーケーなのだそうだ。音楽会とずいぶん違うと思ったのは、上演が始まってからも、時間的制限なく、遅刻してきた人を席にまで、係の人が案内していたことだ。クラシックの音楽会では、演奏が始まったら、通常はなかに入れないか、入ったとしても、席にはつけずに、後ろに立って聴かなければならない。 “歌舞伎を初めて見た” の続きを読む

バイロイトでパルジファルを鑑賞

 8月5日、バイロイトでパルジファルを鑑賞してきた。私自身は、ワーグナー党ではないので、好んでワーグナーを聴くわけではないが、なんといっても、オペラ好きではあるので、一生に一度はバイロイトにいきたいと思っていた。今回別の用でドイツにいき、バイエルンに滞在していたので、バイロイトのチケットを申し込んだところ、とれたのはラッキーだった。演目としては、あまり聴いたことがなく、親しまれているとは言い難いパルジファルだったが、ワーグナーが唯一、バイロイト劇場の音響を前提に書いたオペラなので、よかった。
 しかし、粗筋などの解説を読んでも、パルジファルというオペラは、どうもよくわからない。しかも、ワーグナーが書いた台本のように演出が行われることは、最近はほとんどないようで、特にバイロイトは、荒唐無稽ともいいたいほど、妙な演出となっている。音楽や演奏よりも演出が話題になる傾向は決していいとは思わないが、あまりに原作とはかけ離れた演出をされると、話題にせざるをえなくなり、演出家の術策にはまってしまうということだろうか。 “バイロイトでパルジファルを鑑賞” の続きを読む

ウィンナワルツのウィーン風

 昨日は、私の所属する市民オケのコンサートだった。観客も多かったのは、曲のせいか、コンチェルトをやったせいか、あるいは、天気がよかったせいか。演奏する側としては、やはり聴衆が多いといい感じだ。ミスもいくつかしてしまったが、眠気覚ましのチェコレートを食べたせいか、途中、疲れはしたが、最後まで気力がもった。
 ブログにこれまで、自分の出た演奏会について書いたことなどなかったのだが、普段考えていることを、今回の演奏曲目で再度考えさせられたので、書いてみる気持ちになった。
 前プロという最初の曲で、ヨハン・シュトラウスの「春の声」を演奏した。演奏会全体のテーマを「春」としていて、最後のシューマンの交響曲第一番が「春」という題なので、5月にふさわしいというわけだ。「春の声」は、シュトラウスのワルツでも、特に人気の高い作品で、メロディーはクラシック音楽のファンではなくても知っているだろう。ところが、ウィンナ・ワルツというのは、非常に演奏が難しく、ちゃんとしたウィンナ・ワルツはウィーン・フィルの専売特許のようにいわれている。ベリルンフィルにしても、シカゴにしても、シュトラウスのワルツをやっても、ウィーン風にはやらない。欧米文化を土台にしているひとたちでも、感覚的にできないのだ。 “ウィンナワルツのウィーン風” の続きを読む

音楽の国際化5 録音とネット

 グッドールは、「音楽を変えた5大発明」の最後に「録音」をあげていたが、当然、映像も重要な要素である。音楽そのものの想像に、楽譜の発明が甚大な影響を及ぼしたことは、既に述べたが、録音技術の発展、そしてインターネットの発達が、楽譜発明時とはまったく逆の方向で、作曲に大きな変化をもたらしたといえる。

 かつては、音楽を鑑賞するには、演奏の場にいなければ不可能であった。それでは、特定の音楽が広まるには、限界がある。印刷術が発明され、普及する前は、楽譜があったとしても、作曲された音楽は、作曲家が活動している範囲を大きく超えて鑑賞されることは稀であったし、また、作曲家が死んでしまうと、一部の人間以外には、その音楽を知ることが難しくなった。バッハが、死後忘れられた作曲家となったとよくいわれるのは、そのためである。しかし、音楽の専門家たちにとっては、バッハは決して忘れ去られることはなかったのであり、モーツァルトもベートーヴェンも、作曲を学ぶときには、バッハの音楽を熱心に研究したのである。しかし、それは、バッハの書いた楽譜や、誰かが写譜したものを、誰かが所有していて、それを見ることができたときに、可能だっただけである。
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