オペラの読み替え、筋変更は何故 ローリングリンの場合

 二期会の「蝶々夫人」の筋の変更について書いたが、筋の変更は、現在ではむしろ普通のことになってしまった。結末を変えるのは、むしろ大人しいほうで、時代や登場人物の社会的存在まですっかり変えてしまうことも珍しくない。ワーグナーの「タンホイザー」では、原作は、吟遊詩人の話だが、画家だったり、詩人だったりする。近年のバイロイトでは、自動車工場が舞台になっている。あまりに馬鹿馬鹿しいので、どうしても直ぐに視聴するのを止めてしまう。ワーグナーはどれもみな長いので、実際の舞台での視聴なら最後まで我慢するが、DVDやBDだと、途中で放り出してしまう。そうした素材の分析をこのブログに書くように心がける以外に、全部見る方策はなさそうだ。
 実は昨年の二期会での上演をみて、文章を書いていたのだが、アップしていなかったのがあるので、多少書き直してアップすることにした。

 これから、たまにオペラについての随想を書いていくことにする。オペラは社会を反映する度合いが、音楽のジャンルのなかでは格段に高いものだと思う。単純化すると、オペラは支配層に奉仕する文化だという見解と、オペラは社会変革を担う文化的闘いの場であったという見解がある。もちろん、それは極論であり、実際の論も、また現実もその中間にあるだろう。では、どこら辺にあるのか。最終的な目標は、そのことを考察することだが、もう少し気楽にときどきに書いていくつもりである。
 オペラ上演の中心的な担い手が、歌手→指揮者→演出家と変化してきたことは、広く認められるところだろう。現在は、演出家が注目され、新しいプロダクションが上演されると、多くが演出について論評が書かれる。それを是とする人も少なくないのだろうが、疑問を感じる人が、多いのではないだろうか。演出家が前面に出てくるのには、それなりの理由があるのだろうが、そうしたことは、おいおい考えていきたい。
 一昨日二期会の「ローエングリン」を聴いてきた。東京文化会館で、指揮は準・メルクル、演出が深作健太、キャストは、フォーグラ=金子宏、ローエングリン=小原啓楼、エルザ=木下美穂子、テルラムント=小森輝彦、オルトルート=清水華澄等である。
 ダブルキャストの第二グループで、グループとしては初日であったためか、最初はなんとなく調子がでない感じであったが、第二幕あたりから調子がでてきて、しり上がりによくなっていった感じがした。しかし、好みの問題だとは思うが、音楽を軽く扱う箇所がいくつかあっで、不満が残った。婚礼の合唱は、舞台裏で歌われて、めでたい感じが出ず、続くローエングリンとエルザの二重唱は、テンポが速く、愛の二重唱という雰囲気は希薄だった。歌手のなかでは、清水華澄のオルトルートが非常に優れていた。しかし、合唱はすばらしく、演奏はとても満足した。
 やはり、いろいろと考えてしまうのは、演出だった。
 まず簡単に、粗筋を確認しておこう。
 王の子ども、ゴットフリートを白鳥に変え、エルザにゴットフリート(弟)殺しの濡れ衣をきせたフリードリヒとオルトルート夫妻は、ハインリヒ国王にエルザを裁くように進言するが、助けにきたローエングリンがフリードリヒを決闘の裁判で勝利し、夫妻は追放され、ローエングリンとエルザを、素性を尋ねないという条件で結婚の約束をする。追放された夫妻は、エルザに、ローエングリンへの疑念を起こさせようとして、素性を尋ねさせようと働きかける。そのことを知ったローエングリンはフリードリヒを倒す。結婚したあと、エルザを結局、ローエングリンに素性を質問してしまい、ローエングリンは、素性を明かしつつ、ゴットフリートを人間に戻して、国王であることを告げて去っていく。エルザとオルトルートが倒れてしまうが、死んだのかどうかは、はっきりしないのだが、たぶんワーグナーは二人は死ぬという設定にしたと考えられる。
 最近の演出で議論になるところは、原作の筋を変更している点だが、このローエングリンも重要な変更があった。第三幕で、結局テルラムントやエルザは死んでしまうはずであるし、また、プログラムの解説にそのように書いてある。しかし、上演では、主な登場人物は誰も死ぬことなく、ローエングリンは去っていくが、まるで「めでたしめでたし」のような雰囲気で終わる。去っていったローエングリンが天井(天上?)から、後継者のゴットフリートを示しているから尚更だ。ローエングリンは悲劇のはずだということもあるが、プログラム解説と実際の上演が全く違っていたりするのは、やはり大いに疑問である。
 それ以外にもいろいろと疑問が残った点がある。
 ローエングリンは、なかなかやってこない。2度目の呼び出して、白鳥に乗ってやってくるわけだが、今回の演出では、最初から、ローエングリンが舞台上にいて、うろうろしているのである。王とテルラムントのやりとりが続いているときに、舞台の端のほうに座ってワインを飲んでいたり、よっぱらって歩き回ったりしている。あれ誰だろう、道化役をつくったのか、(ゴットフリートや青春時代のローエングリンとプログラムに書いてある甲冑姿の男も、頻繁に舞台に登場して、歩き回る。)などと思っていると、2度目の呼び出しのあと、歌いだすので、初めてローエングリンだとわかる。
 ローエングリンの歌いだしは、かつてルネ・コロとカラヤンが衝突し、コロが下ろされた因縁付きの場面だが、小原ローエングリンは、困難なピアノでの歌いだしをしていた。そこはすごいと思うのだが、酔っぱらいのようにうろちょろしている男が、突然ローエングリンとして、弱々しく歌いだすので、あまりローエングリンのオペラを知らない人は、何が起きたのかわからなかったかも知れない。
 バイロイトで話題になった演出では、群衆が鼠の格好をしている。ハインリヒ国王は、おどおどしているなど、従来のイメージとは、全く違う演出で、物議を醸した。
 プログラムに若干の解説があるのだが、どうやら、時代をワーグナー自身が生きていた時代、しかもドイツで、バイエルン国王ルードヴィッヒや、ビスマルク、ワーグナー自身等をあてはめているということらしいのだが、しかし、現実の人物と、古い時代を想定した物語とで、うまくマッチングするはずもなく、そういう意図がわかるほど不自然になってくるように感じる。
 残念ながら、今回のローエングリン演出は、読み替えがうまくいったとはいえないと感じた。しかし、そうした演出を気にしなければ、つまり、音楽として聴けば、非常に満足のいくものだった。
 
 原作とは全く違う物語にしてしまうほどの変更がなされるのは、ワーグナー作品に多い。それはなぜなのだろう。あまりに単純化しすぎるかも知れないが、やはり、ワーグナー作品にある「差別主義」的要素を払拭するためなのではないかと思われる。「ローエングリン」は、明らかに女性蔑視的なニュアンスが濃厚だ。日本の「つるの恩返し」と似ている面があるのだが、「つるの恩返し」では、見てはならないという約束を破って、結局、恩返しを無効にしてしまうのは、男のよひょうだ。よひょうは、つるを助けるわけだから、よさと弱さを双方をもっていることになる。そして、最終的に約束を破ってしまうのは、男のほうになっている。しかし、ローエングリンでは、エルザは、ただただローエングリンに頼って、裁判を切り抜け、邪な夫妻に唆されて約束を破ってしまい、ローエングリンに去られてしまう。ローエングリンは、完全に事態をコントロールしており、エルザは自分自身で自分を守ることができず、救ってくれた人との約束を破ってしまう。これでは、女性差別だと言われても仕方ないので、いろいろと工夫をするのだろうと思う。群衆を鼠にしてしまったり、国王をまるで精神疾患を患っているように描くのは、人の弱さを分散させることで、ワーグナーの差別主義を分散させようとしているとも受け取れる。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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