吹奏楽コンクールの問題

 夏は高校野球のシーズンという人が多いが、吹奏楽コンクールのシーズンでもある。私は、中学時代吹奏楽部に入っていたが、コンクールにでたことはなく、2年後輩くらいから出ていたと思う。そして、勤めていた大学は吹奏楽の名門で、吹奏楽部に入りたいので志望したという学生も少なくなかったほどだ。毎年金賞を獲得していたくらいだ。
 しかし、私は吹奏楽のそうしたコンクール至上主義に強い疑問をもっていたところ、youtubeの車田和寿氏が、問題を指摘しているのをみた。
 氏の指摘する問題は、コンクールに勝ちたいという目的に集中して練習をすると、ただひたすら揃った演奏、音程が正確な演奏をめざすようになってしまい、音楽そのものが軽視されるということだ。これは、私が属している市民オケにやってくる指揮者で、吹奏楽の指導もしている人は、共通にいうことだ。というよりは、とにかく、正確だが、角張った演奏をするという。

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理工系学生を50%にという未来像

 (昨日執筆したのをアップを忘れていたものです)
 政府の教育未来創造会議(議長は岸田首相)が、5月に、理系分野の大学生のわり意を2032年ころまでに50%に増やす目標を掲げ、現在文科省が政策工程表を作成しているという。
 いろいろ議論があるようだが、基本的に私は賛成である。私事になるが、私は自分の子どもに、将来何になるか明確に決めていないのであれば、大学の学部は理系を選択したほうがよいとアドバイスし、二人とも理系に進んだ。ひとりは生物の研究者になったが、ひとりは、仕事としては文系的な仕事をしている。ただ、理系であったことは、大いに役に立っていると思う。そのようにアドバイスした理由は単純で、理系から文系に移すことは、それほど難しくないが、文系だったのに、途中から理系に切り換えるのは、かなり難しいからだ。つまり、選択肢を広くしておくことができるという程度のことだった。
 しかし、そのことは、人間の成長を保障する観点では、非常に重要なことだと思う。大学で学ぶということは、ある意味専門家になることである。では、専門家とは何か。これは、JSミルの定義が最も優れた、めざすべき専門家像を示している。それは「あらゆる領域について少しずつ知っており、ある特定の領域についてすべて知っている」という専門家定義だ。もちろん、そんな人はほとんどいないし、ミル自身も、自分をそのように思っていなかったに違いないが、しかし、そういう姿をめざすという意味での指針として、とても重要な観点だ。つまり、幅広い知識と、ある分野について深く理解している、そして、それを社会的な課題と結び付けて、対策を提示できる、それが専門家というものだと思うのである。

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優れた授業をして、研究授業を依頼されたら、差がつくと圧力が

 昨年の11月22日の記事だが、有料記事で読めなかったのを、会員になって読めるようになったので、全文読んでみた。「授業を工夫したら『隣のクラスと差がつく』 熱血教員は学校を去った」という記事だ。
 有料記事なので、会員以外には読めないし、ここに全文引用するわけにもいかないので、内容を簡単に整理しておく。
・熱心に教材研究して、授業にうちこんでいた小学校の教師
・海外で働いて英語力があるので、特に力を入れて、子どもたちも物おじせずに取り組み、力がどんどんあがった。
・公務分掌には疑問を感じていた。
・3年目に授業の苦労が評価され、市内の教師もたくさん集まる研修会で、英語の研究授業をした。評価されて、より大きな部隊で研究授業を拾うするよう依頼があった。
・学年主任から、「隣のクラスと差がついてしまう」といわれ、研究授業は中止になった。

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医療的ケア児(補)

 医療的ケア児の問題を先日書いたが、多少異なるが、同じ背景の問題をもったイギリスの訴訟の記事があったので、多少違う側面から、再度考えてみたい。
 記事は’Parents win appeal for extra hearing over son’s life support’と題する The Guardian 16月30日の記事である。 
 ある少年が医師の診断によれば、脳幹の脳死状態になったために、延命治療を打ち切ろうとしたが、両親は、診断のやり直しを求めて提訴、控訴審で両親の要求を認めて再診断を命じる判決がでたというものだ。そして、一審では、医師の診断に間違いはないという判断だったのだが、その判事の判断は不十分だったと判断した。
 もちろん、診断ややり直しをしたからといって、脳幹の脳死という判断は変わらないかも知れない。医療的ケア児の事例ではないが、背景にある医療技術の進歩によって起きる難しい事態という点で共通性がある。

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立教大学での教授と学生の怒鳴り合い

 6月24日のJcastニュースに、「「黙れ!」「お前が黙れ!」授業中に教員激怒、男性が罵声 動画拡散…立教大「適切に対処したい」」という、実に興味深い記事が掲載された。
 立教大学のある授業で、遅刻してきた上に態度が悪かった学生と、それに怒った教授が激しく罵り合ったという内容で、しかも、それを撮影した学生がいて、映像をツイッターにアップしたというのだ。ヤフコメでも、その映像をみたという人がたくさんいた。私は、この記事で知ったし、記事掲載時には、映像は削除されていたのでみることができなかったが、別に見たいとも思わなかった。
 記事からやりとりを拾うと
S「考えらんないよ。」
T「考えらんねえのは、お前の脳みそ」
T「黙れ、邪魔するんだったら出てけ!」
S「お前が黙れ!」
T「お前とかよく言うな。人のことハゲだなんだって」
S「こいつはハゲだ」
T「くだらないこと言ってんじゃねえよ、こら」
S「くだらなえこと言ってるのはお前だよ」
T「つまんなかったら、出て行けや」
S「おもろい授業してみろよ」
 まだまだ続いたらしいことと、映像については、大学当局も、立教大学の授業で起きたことだと認めたそうだ。

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福井大学での論文査読の不正

 
 学術雑誌の査読不正は、しばしば起きるが、福井大学の教授が、査読担当者であった千葉大学教授にコメントを求めたという不正が明らかになった。
 大学では、教員の業績を審査する上で、査読付き論文の数を、最も重視する。そして、その雑誌の権威が高いほど、業績が高く評価される。理系の研究者であれば、Natureなどに論文が掲載されると、就職に極めて有利になる。学術論文といっても、まったく査読がない、フリーパスの雑誌もある。ほとんどの大学の紀要はそうだ。しかし、紀要の論文だから、水準が低いとは限らない。私自身就職が決まってからは、研究論文は原則学部紀要に書いた。他に応募する必要もないし、特に、私自身が委員長になったとき、紀要の規定を変更して枚数制限をなくしたこと、マルチメディア機能を付加したことで、他の学術雑誌に執筆する意思はまったくなくなった。それから、日本だけでも、膨大な学会があり、それだけの学会誌があるから、査読といっても、厳密でない場合も少なくない。査読論文だから質が高いとは、必ずしもいえないのだ。
 
 査読不正だが、注意しなければならないことは、問題になるケースが多いのは、査読を受ける側の不正だが、査読をする側の不正も少なくないとされる。多くは闇のなかだから、表面化することは少ないと考えられるのだが。

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給食を喉に詰まらせて死亡した特別支援学校での事故と裁判

 大分県の特別支援学校で、2016年、高等部3年の女子生徒が、給食を喉に詰まらせて死亡する事故があった。
 重度重複障害の生徒のクラスで、4名の生徒に4名の教師がついていた。この生徒は、食べ物を噛まずに飲み込んでしまう傾向があるので、食事中はずっと見まもっている必要があったという。ところが、当日は、一人は出張で、担任が別の生徒を教室につれていくために離れ、その間にこの生徒が喉に詰まらせて死亡したことになる。新聞記事では、正確なところが、わからない。例えば、4人体制で、出張が一人なら、担任がその場を離れても、もう二人担当者がその場にいたはずであるが、もう二人の担当者のことは、いろいろな記事をあたったが、書かれていない。場所は、クラスの教室ではなく、ランチルームだった。そこには、2名の養護教員がいたが、担任が声をかけていかなかったので、その養護教員は、異変に気付かなかったという。(養護教員が4人のメンバーであるとすると、この生徒の噛まずに飲んでしまう傾向を理解していなかったはずはない。 https://news.yahoo.co.jp/articles/c94459c1c842b345215acaab153680a90393ec1a
 第三者委員会の報告によると、異変に気付いたあと、AEDを使うなどの措置をしなかった。そして、この学校には、食べ物が詰まったときのための吸引装置などもなく、また、そのための訓練もされていなかったという。https://mainichi.jp/articles/20190716/k00/00m/040/221000c

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部活の地域移行に関する全教の見解について

 スポーツ庁が部活の地域移行に向けての提言をしたことについては、6日のブログに書いた。http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=3393
 それに対して、全教(全日本教職員組合)が疑問を呈する談話を発表した。ここに大きな論点が含まれているように思われるので、その点について考えたい。
 談話は「すべての子どもたちのスポーツ要求を権利として保障することと、教職員の長時間過密労働解消の両面から、条件整備と合意づくりを」というもので、6月8日にだされている。

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スポーツ庁が部活の地域移管を提言

 スポーツ庁の有識者会議が、中学の部活をとりあえず土日の分を地域に委託し、将来的には平日もそのようにするという報告をだした。悪いことではないが、不徹底だという感じがする。詳細はまだわからないし、また、実施の段階で変更があるだろうが、不徹底さを指摘しておきたい。
 
 記事としては、以下があるが、スポーツ庁のホームページには、詳細な議事録も掲載されている。
「中学校の部活動 休日はスポーツクラブで 3年間で“地域移行”提言を提出 少子化・教員負担で方針転換」https://news.yahoo.co.jp/articles/d919aeda0e3247ad84c2cdf241a096b51082801f
 報道によって、提言を整理しておくと
・3年かけて休日の部活を地域に移行する。
・その後平日も移行していく。
 その理由は
・少子化の影響で、中学校だけで、運動部の活動を維持していくのは困難
・教員の負担増と教員不足の深刻化

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教育学を考える30 教育の定型化2 名字+さんの校則

 コンピューターにおける教育を続きとしていたが、それはいまいろいろと整理している段階なので、今話題の「苗字にさんづけ」校則について考えたい。
 youtubeでも話題になっているようだし、かなりの批判がだされている。私も、この関連のニュースをみて、実際にどうなっているのか、現場の教師たちに聞いてみた。私のゼミの卒業生たちだが、やはり、かなり普及している校則だという。ある教師は、自分の赴任した小学校で、この校則が存在しなかったところはない、と言っていた。しかし、逆に、この校則に共感している人もいなかった。誰しもおかしいと思いつつ、校則としては表立って反対していないのかも知れない。しかし、厳格に運用しているかどうかは、また別問題だ。つまり、授業中の発言のなかでは、誰かの意見に対して反応するときに、「名字+さん」で呼ぶように指導するが、休み時間などは自由という運用もありうる。休み時間まで、干渉する必要はないというのもありうるからだ。

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