スポーツ庁が部活の地域移行に向けての提言をしたことについては、6日のブログに書いた。http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=3393
それに対して、全教(全日本教職員組合)が疑問を呈する談話を発表した。ここに大きな論点が含まれているように思われるので、その点について考えたい。
談話は「すべての子どもたちのスポーツ要求を権利として保障することと、教職員の長時間過密労働解消の両面から、条件整備と合意づくりを」というもので、6月8日にだされている。
整理すると以下のようになる。
・中学校の運動部は、子どもたちのスポーツ要求に根ざす自主的活動として、成長発達に重要な意義をもっている。
・仲間とのふれあいや学校での「居場所」となり、生涯スポーツの契機ともなっている。
・勝利至上主義による過度な練習、管理的指導、いじめなどのケースもある。
・教職員の過剰労働の大きな要因になっている。専門的指導ができない、授業準備に支障がある、等の障害がある。
・学校外活動なのに、事実上の勤務となっており、高校では、入試の選抜資料になっていて、それが教師の評価になっている。
・現在でも、スポーツ要求への取り組みは民間に依拠しており、保護者負担も大きい。
・課題解決のためには、すべての子どもたちのスポーツ要求を権利として保障する立場を明確にし、社会全体で広く確保できるようにすることが不可欠である。
・そのために、国や地方行政が責任をもって環境整備をする必要がある。
・原則無償で希望するすべての子どもが参加できるよう環境整備をすることが重要。
・発達や特性を踏まえた指導や過度の負担予防、科学的練習の導入、そのための研修制度の確立が重要。
・教職員の長時間労働解消につながる措置。
・入試での調査書への反映のあり方を見直す。
・拙速なやり方は、経済的理由で参加できない子どもが出てきたり、地域間格差の原因になる。
以上のような内容である。前半は課題で、後半に、必要だとすることが書かれている。これらの談話についての評価は、各人に任せるとして、私が一番気になるのは、「すべての子どもたちのスポーツ要求を権利として保障すること」という一文である。子どものスポーツ要求は、「権利」なのか、そして、それを国や地方自治体は、保障する義務があるのかという点である。更に、経済的困窮家庭に対する措置も、派生的に考察する必要がある。
私は、教育制度、教育行政の専門なので、「権利」という言葉は、厳密に解釈している。単に、そういう希望があれば、実現させてあげるべきではないか、というようなレベルを権利とは考えない。
日本には、法律であっても、義務とか権利が、単なる宣言的意味しかもっていない場合が少なくない。例えば、児童虐待防止法で、いくつかの職業には、虐待を発見した場合には、それを関係の役所に報告する義務が規定されている。しかし、報告しなかった場合の「罰」は存在しないので、実際には「義務」になっていない。それに対して、アメリカでは、罰がともなっている。例えば、医師が子どもを診察したときに、虐待と疑われる状況を確認したのに、それを報告しなければ、厳しい罰を課せられるのである。加害者か自分の知人や家族である場合に、また、カウンセラーのクライアントが加害者である場合など、報告すべきかどうか悩んでしまうというようなドラマもある。どちらが虐待防止として有効であるかは、議論の余地があるが、日本の法では、「義務」が実態を伴っていないことは指摘しておく必要がある。
また、権利といっても、「プログラム規定」などという概念があって、実際に権利の実質を無意味化されている場合も少なくないことは事実だ。しかし、組合が、社会の問題を提言するときに、プログラム規定的な権利概念を示すことは、はっきり害があるというべきだろう。権利として主張する以上、その保障義務が国家にあるというものでなければならない。
そういう意味で、子どものスポーツ要求は「権利」だろうか。
全教が前提としているスポーツの権利は「社会権」としての権利であろう。自由権としてのスポーツ要求については、誰もが認めるし、特定のスポーツを、国家が禁止するなどということは、まったくないから、スポーツの自由は、実際に機能している。つまり、全教のいうスポーツの権利とは、誰もがスポーツを要求しているとき、その施設やコーチなどの環境を整える義務が、行政にあるという意味と解釈できる。
ところで、社会権とは、基本的に、国民が共通にあるべき状態を前提として、そこに達しない場合、あるいは国家が関与しなければ、実現しない場合に、国家が保障することを、国民が要求することができることをいう。生存権や労働基本権、教育権、みなそうである。スポーツ要求権というものを認めるとしたら、最も近いのは教育権であろう。日本国憲法では、「教育を受ける権利」として規定されている。ところが、教育要求とスポーツ要求は、基本的な違いがある。教育要求は、個々人に差があるとはいえ、すべての国民の要求であるし、実際に教育を受けることができなければ、生活そのものが困難になる。だから、国家的事業として行う必要があるし、また、そのことに公費を使うことに、国民は同意すると考えられる。そして、その教育形態が、学校を通して主に行われることになり、教育内容についても、大方のコンセンサスは存在する。従って、教育権は「権利」として実際に機能しているのである。もちろん、不十分な点はいくらでもあるが。
しかし、スポーツはどうだろうか。
そもそも、スポーツを望まない人もいる。大人になって、スポーツをまったくしないひとは、少なくないのではないだろうか。また、スポーツをする人も、その程度や種目は、実に多種多様だ。すべてのスポーツの施設を建設し、また指導者養成をするのか、それを行政の対象とすると、何らかの形で選択しなければならない。
例えば、国際競技大会で、日本がよい成績を収めている競技の施設を優先するのだろうか。あるいは、競技人口が多いもの優先か。あるいは、他の規準、例えば、健康への改善効果の高いもの、等。
成績を規準にすれば、全教のいう勝利至上主義になる危険がある。競技人口が多いといっても、どの程度のレベルでカウントするかという問題も発生する。
また、別の問題として、特別な施設はいらないが、実行するには、なんらかの措置が必要というスポーツもある。マラソン、競歩、サーフィンなど。つまり、スポーツは多様性と個人の自由意思が重要であって、やりたい者がやればいい、そして、スポーツに代わる営みもたくさんある。全体として、市民の身体的、精神的健康のために、行政が施設を建設することは好ましいが、それを要求する「権利」があるというより、自発的な働きかけと支持によって作られていくことが好ましいのではないだろうか。
国家がスポーツを「保障」するというのは、逆に国家によるスポーツの管理、スポーツによる国民の管理を危惧するのである。実際に、現在の学校は、部活に限らず、スポーツによる管理ともいうべき実態が、かなりみられるのである。
次の重要な提言は、経済的困窮者のスポーツ保障である。もちろん、貧しいという理由だけで、強く望んでいるスポーツができないことは好ましいとは思わない。しかし、部活のように、参加者が指導者になんらの謝礼もしない形でのスポーツが、健全であるとは、私は思わない。もし、経済的な困窮者が困らないように、部活の延長として、指導者が無償労働するというのであれば、極めて問題だろう。
全教は、無償でスポーツができることを前提にしている。しかし、自由意思で、多様なスポーツのなかから、あるスポーツを選んで施設を利用し、指導者によって指導されるときに、「無償が原則」というのは、私はかえって間違っているのではないかと思う。
デンマークの「自由時間法」のようなシステムは、確かに可能だ。これは、国民が、何人か集まって、スポーツや文化活動をする場合、一定の条件の下で、施設費やコーチ・指導料を公費で援助する仕組みである。スポーツの種類や文化活動の内容は問われない。集まる人数や継続性などが基本的な条件になっているだけである。しかし、全額補助ではないし、無償原則があるわけではない。一定の私費負担は当然ある。そして、周知のように、こうした保障を実行するために、デンマークでは、税負担が極めて高い。
全教は、どこまで税負担の上昇を前提に考えているのだろうか。デンマークのようなあり方も可能だとは思うのだが、しかし、現在の日本では、かなり実現困難ではないだろうか。まして、指導を受けるのに、無償というのは、専門性の軽視のように、私には思われる。
スポーツ庁の提言と、それに対する談話であるために、仕方ないことだが、部活は運動部だけではない。文科系の部活もあるのだ。全教の談話としては、運動部だけではなく、文化部についても触れるべきではないだろうか。