医療的ケア児(補)

 医療的ケア児の問題を先日書いたが、多少異なるが、同じ背景の問題をもったイギリスの訴訟の記事があったので、多少違う側面から、再度考えてみたい。
 記事は’Parents win appeal for extra hearing over son’s life support’と題する The Guardian 16月30日の記事である。 
 ある少年が医師の診断によれば、脳幹の脳死状態になったために、延命治療を打ち切ろうとしたが、両親は、診断のやり直しを求めて提訴、控訴審で両親の要求を認めて再診断を命じる判決がでたというものだ。そして、一審では、医師の診断に間違いはないという判断だったのだが、その判事の判断は不十分だったと判断した。
 もちろん、診断ややり直しをしたからといって、脳幹の脳死という判断は変わらないかも知れない。医療的ケア児の事例ではないが、背景にある医療技術の進歩によって起きる難しい事態という点で共通性がある。

 
 イギリスは、胎児の診断が早くから普及し、障害があると出産直前まで中絶が可能な国家だ。現在でも、その法を維持しているかは、正確に認識していないが、障害者基本条約ができたときに、イギリスて大きな議論になり、そのときには、廃止はされなかった。現在の状況はさておき、そうした社会的規定がありうることは、ひとつの立場として認められるし、議論の対象となるだろう。
 日本よりも、中絶容認の意識が強いイギリスであるが、それは、個人の意識であると同時に、社会の意識である。障害者を育てることの個人的、社会的負担とともに、障害者として生活していくことの困難、生き甲斐等への意識などが、ネガティブなほうに寄っている。
 日本は、かつて胎児診断を受ける人が少なく、また受けて障害があるとわかっても、中絶をする人の割合は少なかったのだが、診断が容易になってからは、受診割合も増え、胎児に障害があることがわかると、中絶を選択する人の割合がずっと増加した。イギリス型に近づいたともいえるが、イギリスと異なって、社会が胎児診断を強く勧めるようになっているわけでもない。
 反対に、アメリカは、最近中絶を原則禁止する連邦最高裁の判決が出され、今後中絶がかなり困難になる。すると、医療的ケア児も増大していくに違いない。
 
 イギリスの訴訟は、胎児ではなく、既に成長している子どもの脳死にかかわることだが、アメリカと日本は、丁度中絶と逆の立場で異なった立場が強い。日本では、脳死による臓器移植は、まだネガティブな感情をもっている人が多く、ドナーカードをもっている人も多くない。免許証の裏面に、臓器提供の意思を問う欄があるが、記入は自由であり、しかも、かなり小さな欄になっているので、実際に意思表示をしている人は、どのくらいいるのか疑問だ。免許更新の際の講習でも、その件についての話がなされた記憶はまったくない。
 それに対して、アメリカでは、脳死による臓器移植への忌避感情は、おそらく日本よりずっと小さいのだろう。提供臓器を求めて、アメリカにわたる日本人がいまでも話題になる。
 
 かつて大学で連続講義の一コマだけ、この話題についての授業をしたことがある。イギリスの中絶の期間の問題、あるいは、ナチスの功績をいまでも信じているというドイツの医師、つまり、障害者を安楽死させたために、戦後のドイツの経済復興が促進されたという評価とそれを紹介する渡部昇一、そして、それにまったく反対の立場をとる青い芝の会の主張を対比させながら、学生たちに考えてもらった。医療が進歩すという、非常に重要で大切なことが、社会的負担も生んでいるというパラドクスは、様々な面で現れている。
 最初に紹介したイギリスの脳死事例は、イギリスの法体系(体系的理論というよりは、事例を重んずる流儀だが)で、医師が治療を終了させる権限をもっているように思われる。親は、脳死の診断を受け入れず、延命治療を主張する権利はないのだろう。裁判に訴える権利はあるわけだが、治療の継続に関しては、医師に権限があるが、逆の場合はどうなのだろうか。脳死といっても、いくつかの段階があり、決して、単純に規準が決まっているわけではないし、脳も細胞だから、一気に死ぬわけではなく、部分的に死んでいき、ある時点で、人としての死を、医師が認定するわけだ。
 だから、この両親は、判定規準をより厳格にしてから、脳死判定をしてほしいということだったのだろう。
 しかし、医師が脳幹死を、あまい規準にせよ認定したのだから、そのまま延命治療をしても、植物人間になることが予想され、自律的な生活ができるようになる可能性はほとんどない。この場合、イギリスでは、中絶の範囲を広く許容したり、あるいは、延命治療に対する制限的な医師の判断を尊重するのは、医療費負担が原則公的保険によるものであるのに、日本では、個人負担があるからとも考えられる。だから、より厳密な規準で脳幹死判定されたら、そこで延命治療は終了するのだと思われる。そして、終了すれば、ほぼ確実に間もなく死が訪れる。親としては、最大限できることは子どものためにやりたいという気持ちだったのだろう。
 
 あちこち話題が飛びながら、取り止めもなく書いているが、医療的ケア児の背景となっていることを、社会は避けないで議論をすべきではないかと思うのである。
 重い障害をもっている子どもは、専門家のいる特別支援学校に通うほうが、子どものためになるという見解と、健常の子どもたちと一緒に学ばせるべきだという見解があり、教師は前者が多く、後者は保護者が多い。個別的事情や障害の種類や程度によって、望ましい環境は異なるから、どちらが正しいとはいえない。
 特別支援学校では、教職員と生徒の数がだいたい同じくらいで、教育条件が整っている。それでも、先のブログで紹介したような人出不足による事故が起きる。しかし、通常の学校では、教師が不足し、酷い過重労働で教師たちが、悲惨な状況に置かれている。それでも、重度障害をもった子どもの保護者が、普通学級で学ばせたいと要求すれば、普通学級は受け入れるように、行政に指導されており、担当教師は、負担が増す。
 こうした矛盾は、ある度合いを超えると、対立が生じることになる。(つづく)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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