教育学を考える30 教育の定型化2 名字+さんの校則

 コンピューターにおける教育を続きとしていたが、それはいまいろいろと整理している段階なので、今話題の「苗字にさんづけ」校則について考えたい。
 youtubeでも話題になっているようだし、かなりの批判がだされている。私も、この関連のニュースをみて、実際にどうなっているのか、現場の教師たちに聞いてみた。私のゼミの卒業生たちだが、やはり、かなり普及している校則だという。ある教師は、自分の赴任した小学校で、この校則が存在しなかったところはない、と言っていた。しかし、逆に、この校則に共感している人もいなかった。誰しもおかしいと思いつつ、校則としては表立って反対していないのかも知れない。しかし、厳格に運用しているかどうかは、また別問題だ。つまり、授業中の発言のなかでは、誰かの意見に対して反応するときに、「名字+さん」で呼ぶように指導するが、休み時間などは自由という運用もありうる。休み時間まで、干渉する必要はないというのもありうるからだ。

 では、何故こんな校則が導入されるようになったのか。広範囲に存在する以上、行政機関が直接指導するか、あるいは行政に近い人が、管理者研修などで講演して広めたか等、いくつかの可能性が考えられるが、少なくとも、教師自身のなかから発想されて、広まったとは考えにくい。つまり、「管理」という観点から導入されたのだと、ひとまず考えて間違いなないだろう。だからこそ、「校則」になっているわけだ。
 では、どういう理由から、校則の必要性が説明されるのか。あだ名で呼ぶことは、呼ばれるほうに不快感を生じさせる、という理由があげられるから、いじめ対策の一環であると考えられる。確かに、相手の嫌がるあだ名で呼ぶことは、いじめといえる。だから、そういう可能性が出ないように、名字にさんをつける呼び方に統一しようということだろう。はっきりいえば、勘違いも甚だしいというべきだろう。
 まず第一に、いじめが起きやすい集団の特徴のひとつが、「同質化されている」「同化・同調圧力」が強いことだ。みんなが同じだから、違う者が排除され、いじめられる。「汚い」ことが、いじめの原因になるが、それは現代では、ほとんどの日本人の子どもが、清潔感のある服装をしているからだ。私が子どものころは、水鼻がたれた子どもなど、いくらでもいたし、服装もみんながきれいなものを着ていたわけではないから、「汚い」ことを理由にいじめられることは、ほとんどなかった。現代社会は、多様化が進んでいるから、実は同質性は、失われているのだが、学校では、制服をはじめとして、指導によって、様々なことが統一されているので、一般社会と比較して、同質化が進んだ社会なのである。だからこそ、違う者が目立つことになり、いじめの対象になりやすい。呼び方を統一するという「考え」そのもののなかに、同調圧力がひそんでいるから、いじめ対策には逆効果だともいえるのである。
 第二に、いじめの克服に必要なことのひとつとして、当事者間のコミュニケーションがある。最近だされた自民党のいじめ対策は、いじめの加害者を隔離する方法しか示していないが、もっとも大切なのは、加害者が被害者の心を知ることであり、そのためにはコミュニケーションが必要である。両者にコミュニケーションを成立させることこそが、教師としての指導力なのである。生活綴り方の典型的な指導方法が、いじめ対策に有効であるとされるのは、いじめの被害者が書いた作文を、皆の前で朗読し、そのあとで討論をするのだが、書かれた文章は、話されるよりも、多くの場合、心にはいっていく。こんなことを考えていたのかと、知る機会になるわけだ。もちろん、皆の前で話すこともきっかけになるし、当事者間が教師が介在する形で話し合うこともあるだろう。もちろん、簡単にコミュニケーションは成立しないし、かえっていじめを悪化させることもあるから、教師の指導力に依存する要素が大きい。しかし、いじめが本当に解消され、被害者と加害者の間に、ある程度の信頼関係が成立するためには、両者のコミュニケーションが必要であることはいうまでもない。
 そういう点から考えて、「**さんは、どう思いますか?」などという言い方で、子どもたちが、じっくり話し合うことができるとも思えないのである。大人でも、親しい関係になれば、呼び捨てや、名字ではない名前、あるいはあだ名で呼び合うことが、多くなるのではないだろうか。子どもなら尚更だ。つまり、名字にさん付けということの強制は、親しいコミュニケーションを阻害する可能性があるということなのだ。いじめ対策としては、マイナス効果のほうが大きいと思われる。
 第三に、いじめ対策の前提は、個々人の多様性を認め合うことである。同調圧力がいじめを誘発することの逆といえる。従って、呼び方も多様であってよいのだ。というより、どのように自分は呼ばれたいかを意識して、それを伝え、そのように呼んでもらうことも、多様性を認めるひとつである。アメリカでは、まず「~と呼んでくれ」という習慣があるようだが、それは、スムーズなコミュニケーションにとって重要なことだろう。だから、呼び方を統一することは、多様性を認めないことであり、それこそ、影でいやなあだ名を呼ぶ、あるいは休み時間や学校外で呼ぶことを抑止できない。あだ名で呼んじゃいけませんよ、というだけなのだから、禁止されれば、かえってやりたくなるのは、人間の性でもある。
 
 このように考えていけば、名字にさん付けの校則は、いじめ対策にはマイナスであるだけではなく、スムーズなコミュニケーションを阻害する可能性がある。表面的に問題が起きにくくする効果はあるが、表面的関係をつくることが教育の課題ではないだろう。これを校則という「定型化」として行うことは、まったく賛成できない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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