福井大学での論文査読の不正

 
 学術雑誌の査読不正は、しばしば起きるが、福井大学の教授が、査読担当者であった千葉大学教授にコメントを求めたという不正が明らかになった。
 大学では、教員の業績を審査する上で、査読付き論文の数を、最も重視する。そして、その雑誌の権威が高いほど、業績が高く評価される。理系の研究者であれば、Natureなどに論文が掲載されると、就職に極めて有利になる。学術論文といっても、まったく査読がない、フリーパスの雑誌もある。ほとんどの大学の紀要はそうだ。しかし、紀要の論文だから、水準が低いとは限らない。私自身就職が決まってからは、研究論文は原則学部紀要に書いた。他に応募する必要もないし、特に、私自身が委員長になったとき、紀要の規定を変更して枚数制限をなくしたこと、マルチメディア機能を付加したことで、他の学術雑誌に執筆する意思はまったくなくなった。それから、日本だけでも、膨大な学会があり、それだけの学会誌があるから、査読といっても、厳密でない場合も少なくない。査読論文だから質が高いとは、必ずしもいえないのだ。
 
 査読不正だが、注意しなければならないことは、問題になるケースが多いのは、査読を受ける側の不正だが、査読をする側の不正も少なくないとされる。多くは闇のなかだから、表面化することは少ないと考えられるのだが。

 研究者が論文を書いて、ある学術雑誌に投稿すると、編集委員が査読者を探し、複数依頼する。依頼する際には、論文執筆者の情報は一切伏せられ、従って、執筆者と連絡をとることはできない。また、他の査読者が誰かも知らされない。だから、あくまで依頼された人は、個人として緻密に読み、意見と結論を付して、編集委員に返す。まったく掲載するほどの水準ではない、修正すれば可(その場合修正部分に関する意見を付記する)、これでオーケーというような判断を返し、雑誌によって異なるかも知れないが、多数がオーケーを出せば、掲載される。これが多くの仕組みだろう。
 しかし、福井大学の問題は、この査読者選定について、著者からの推薦が可能となっていることから問題が起きた。学術論文、特に自然科学の場合は、同じ分野でも、専門は細分化され、同じ分野でも違う領域になると、評価できない場合が多い。すると、査読できる人を探すことも難しくなるので、執筆者による推薦を可として、査読者を確保するところが出てくるわけだ。もちろん、執筆者と連絡をとってはいけないというルールを設定するだろうが、執筆者としては、当然よく知っている人を推薦することになるから、普段から連絡をとりあっているのが普通で、そのときだけ、連絡を一切取らないというのも、なかなか困難であるし、また、何か判断できない部分があれば、査読者としても、直接執筆者に問い合わせたいことが出てくることもあるだろう。だから、福井大学の件は、起きるべくして起きたともいえるのであって、特別に不正をしているという感覚ではなかったのかも知れない。もし、執筆者と依頼された査読者が、厳密に他の人に漏らさずに意見交換すれば、不正と認定されることもない。だから、実際には、同じようなことは、他にもたくさんある可能性があるといえる。そして、世界にどれだけの学術雑誌があるのかわからないが、問題となった雑誌をだしているエルゼビア社だけで、3000の雑誌を発行しているというのだ。これでは、査読者を探すことはやはり難しい分野があるだろう。
 
 さて、査読者側の不正とはどういうものか。査読者が、審査を意図的に遅らせたり、あるいは優れた論文であるにもかかわらず、欠点を指摘して不採用にしてしまう。そして、その論文のアイデアを自分が盗んで、いち早く論文としてまとめ、自分の業績にしてしまうという行為だ。執筆者と査読者は、極めて狭い専門領域を共通にしている関係にある。そして、投稿する論文である以上、何か新しい内容を含んでいるし、それは、多くの人が競争して取り組んでいる研究テーマであることが、ほとんどである。査読者だって、査読論文と同じテーマを研究していることが多いのだ。そして、自分ではまだ解決できていないことを、査読論文が解決していたら、自分が追い越されることになる。そうすると、一部の査読者は、この論文が世に出ないように、あるいは出る前に、その査読論文の内容を剽窃してしまえば、自分に有利になるわけである。私の身近にいる若い研究者が、この査読者による不正で被害を受けそうになったことがある。そして、こういうことは、少なくないということを教えてくれた。 
 私のような文系研究者には、論文を掲載する雑誌の「権威」などに、あまり意味を見いださない人も少なくない。それは、一端教授になれば、論文で審査を受ける必要もないし、むしろ、著作を書くことのほうに意味を見いだす傾向が強い。その場合、査読というよりは、出版社の編集担当との調整になる。
 ところが、理系の場合には、どんなに有名教授になっても、更に、査読論文などにかかわり続ける。それは、おそらく、ノーベル賞のような、より高い目標があるからだろう。だから、査読の不正などが起きやすい。
 
 では、どうしたらよいのだろうか。
 私は、こうした査読が、基本的に秘密に行われることに問題があると思っている。もちろん、秘密主義は、査読が余計な圧力を受けずに行われることを保障するためである。だから、当初は、必要だったことは間違いない。しかし、これだけ多くの学術雑誌があり、専門が細分化されている以上、査読者選定の困難から、執筆者による推薦制度も避けられないとすれば、やはり、原則を変える必要がある。つまり、査読経過をすべて公表することである。もちろん、査読結果が出た時点になるが、査読者の意見と評価、やりとりがあれば、やりとりのすべてを、雑誌のホームページに掲載するということだ。ただし、不採用になり、そのことの評価に執筆者が納得していて、公表を望まない場合には、その旨だけ記すことも認められるべきだろう。不採用という結果は、あまり名誉なことではないから、改善して再投稿をするために、公表を望まないことはあるだろう。
 だが、そうすると、推薦された査読者が、執筆者とやりとりをしたことを、公表段階で隠すという不正も起こりうる。ただ、私は、不合理で不自然な禁止ルールこそ、不正を生むという立場なので、推薦を認めた以上、やりとりも認めればよいと思う。査読上疑問に思ったことを、執筆者に聞きたいことは、いくらでもあるはずである。それを禁止するよりも、認めて、その経過を公表させたほうがよい。公表を義務として、それでもやりとりを隠した場合に不正と認定する。
 私自身、査読をしたことが何度かあるが、やはり著者に直接問いただしたいと思ったことが、いくつもあった。編集者を介して、とりあえず著者に伝わるのだが、回答が返ってくるわけでもない。やはり、秘密に行われるというのは、本当にしっかりと論文を評価する上では、マイナスだと思う。
 つまり、不正を防ぐ最善の方法は、秘密ではなく、透明性だと思うのである。それが万能薬だとはいえないが。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です