毎日新聞によると、『シン・日本共産党宣言』を出版し、記者会見を行なって、党首公選を主張した松竹伸幸氏に対して、除名処分となる見通しであるという。そうした活動が、「分派活動である」という理由であるとされる。
「共産が党首公選制主張の党員を除名へ 規約違反の「分派」と判断」(毎日新聞2023.2.5)
『シン・日本共産党宣言』については、読書ノートとして、ブログに書いたが、松竹氏の主張は、基本的に共感できるという立場で書いた。ただし、この本の出版と記者会見に対し、反論としただされた藤田健赤旗編集局次長の論説を読む限り、松竹氏は除名されるのではないかと予想はしていた。もっとも、毎日新聞によれば、まだ正式な決定ではなく、中間段階のようだが、これが、上部機関によって覆される可能性は、低いように思われる。
さて、そこで、まったくの仮想の訴訟として、松竹氏が、処分不当の訴えを、裁判所に起こしたとしたら、どういう論理転換になるだろうかを考えてみた。この問題は、民主主義とはなにか、表現の自由とは何か、そして、結社の自由とは何かを考える、極めて重要な要素を提起していると考えるからである。なお、前回書いた文章は、以下のもので、参照していただければ幸いです。
松竹氏の主張は、ごく簡単にいえば、「現在党首公選をしていないのは、共産党と公明党だけであり、公選を実施すれば、国民の党に対するイメージが改善される」というものだ。他にも安保政策などに関する提言があるが、それは今回のテーマとは直接関係しないので、対象としない。
対する藤田氏の見解は、
・松竹氏は、党内で提起することをしないで、いきなり外部に公表したのは、規約違反である。
・共産党が公選を実施しないのは、公選が必然的に分派を助長するからで、それは民主集中制の党内原則に反する。
前回の私のブログでは、藤田氏の「公選が分派を助長する」という主張は、まったく根拠がないことを示した。ソ連の干渉によって、党内で分派活動が発生したことが、理由とされていたが、公選が分派を助長することは、一切根拠がしめされていない。そもそも、公選を実施したことがないのだから、分派活動を助長するかどうかはわからない。
民主集中制を規定した規約には、党の委員が選挙によって選出されることが規定されているのだから、公選も選挙の一形態であり、規約が公選を否定しているとは、とうてい読めない。
大きな問題は、「分派」「派閥」とは何かということだ。松竹氏の行為が分派活動であるかという問題になる。この点は、訴訟となったときの主要な論点となるので、あとで検討する。
もうひとつの論点である、内部で提起せず、いきなり外部に公表したのは、規約違反であるという点について、確認しておきたい。
藤田氏が規約違反だというのは、次の規約5条の8項に関してであろうと思う。
第五条 党員の権利と義務は、つぎのとおりである。
(一) 市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす。
(二) 党の統一と団結に努力し、党に敵対する行為はおこなわない。
(三) 党内で選挙し、選挙される権利がある。
(四) 党の会議で、党の政策、方針について討論し、提案することができる。
(五) 党の諸決定を自覚的に実行する。決定に同意できない場合は、自分の意見を保留することができる。その場合も、その決定を実行する。党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。
(六) 党の会議で、党のいかなる組織や個人にたいしても批判することができる。また、中央委員会にいたるどの機関にたいしても、質問し、意見をのべ、回答をもとめることができる。
(七) 党大会、中央委員会の決定をすみやかに読了し、党の綱領路線と科学的社会主義の理論の学習につとめる。
(八) 党の内部問題は、党内で解決する。
(九) 党歴や部署のいかんにかかわらず、党の規約をまもる。
(十) 自分にたいして処分の決定がなされる場合には、その会議に出席し、意見をのべることができる。
この8項を読むと、これまで松竹氏が内部で提起したことはない、と断言する藤田氏の説明が正しいとすれば、規約違反と考えるのが妥当と思われる。しかし、第17条として、以下のようになっている。
第十七条 全党の行動の統一をはかるために、国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表することをしない。
地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、都道府県機関と地区機関で自治的に処理する。
つまり、国際的、全国的な性質の問題については、個人や個々の党組織は、意見を発表できないという。この意味については、ふたつのことを考慮する必要がある。
・発表とは何か。
・党首公選は、全国的な問題なのか否か
党外での意見発表は、藤田氏によれば、絶対禁止なのだから、この規定は、党内でも「勝手に」意見を提起してはならないという意味に理解せざるをえない。もちろん、「了解」を得ればよいということだろうが、指導部を批判する見解に対して、了解を得られない可能性は十分にある。すると、3条で保障する「民主的議論」に反することになる。民主的議論は、発表そのものに対して「了解が必要」としないはずである。
もし、党首公選が、全国的問題であるなら、厳密に規約を解釈すると、党首公選の主張そのものが、勝手に(自由にと読み替えてよいだろう)党内でも発表できないことになる。つまり、藤田氏のいう、あるべき提起の仕方は、松竹氏には困難であったとも考えられるのである。
つまり、何故党内で提起をしなかったのか、ということについては、規約上無理ではないか、できないようになっている、との解釈も成立する。
こうした点を踏まえて、もし訴訟になったら、どのような争いになり、どのように判断されるのか。次に考えてみよう。(続く)