あくまでも仮定の話として、松竹氏が処分取り消し訴訟を起こしたら、どうなるかを考えてみよう。
まず、処分理由を整理しておく。以下に処分文書の全文が掲載されている。
ア 本来職場支部で処分が検討されるが、松竹氏が全国メディアや記者会見などで公然と党攻撃をしている「特別な事情」に鑑み、職場支部の同意のもと、南地区委員会常任委員会として決定した。
イ 松竹氏は、「党内に存在する異論を可視化するようになっていない」「異論を許さない政党だとみなされる」党首公選制は派閥・分派をつくらないという民主集中制と相いれないが、事実を歪めて党を攻撃している。
ウ 安保条約の廃棄、自衛隊の段階的解消など、綱領に基づく政策を「ご都合主義」と攻撃している。
エ 我が党を個人独裁的運営とする鈴木元氏の本の出版を急ぐように働きかけた。これは党攻撃のための分派活動である。
オ 党内で自身の主張を述べたことはないことを認めている。
こうした一連の行為は、「党内に派閥・分派をつくらない」(3条4項)と「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」(5条5項)に対する規律違反であるので、除名処分とする。
もし、取り消し訴訟が起きたら、争点は次のようになるだろう。
1 松竹氏の出版、記者会見、鈴木元氏への働きかけは、党の規約に違反するか。処分理由は妥当か。
2 規約そのものが、著しく合理性を欠き、公序良俗に反することはないか。
3 結社の自由の下で、規約が合理的であり、かつ松竹氏の行為が、規約に違反するとして、除名処分は妥当か。結社の自由の下で、裁判所が政党の判断に介入することが適切か。
まず2の規約そのものが、著しく合理性を欠くものであるかを検討する必要がある。その際「結社の自由」と「部分社会の法理」を考慮する必要がある。
共産党という政党をつくる自由は、当然憲法によって保障されている。結社である以上、当然規約を制定し、それを守らない所属員に対する処分ができることは当然であろう。
「部分社会の法理」とは、特定の団体のなかで、ある意味不合理で違法なものを含むような規約があったとしても、部分社会であれば、認められる。ただし、以下の条件が厳密に守られる必要がある。
・予めその規約が開示されており、入会前にその規約を知ることができる。
・入会は、自由意思による。入会しなくても何らの支障も存在しない。(中学の校則などが、極めて不合理であっても、義務教育だから、入学しないわけにはいかないから、自由意志とはいえない。)
・規約に疑問があり、会員であることに不利を感じたら、自由に辞めることができる。(高校や大学では、退学は自由だが、退学は著しく社会的な不利益をもたらすから、自由に辞めることができるとはいえない。)
共産党の規約について、これらから判断すると、「部分社会の法理」を満たしており(規約はウェブで公開されており、自由意思で参加し、また、退会も自由であるようだ。)、派閥・分派の禁止と、決定に反する見解を勝手に外部で発表しない、というルールは、著しく合理性を欠き、公序良俗に反するとは、常識的にいえないから、規約の内容が妥当ではない、とはいえない。従って、2については、松竹氏か争点にしても、認められないと思われる。
そこで、次に、規約に照らして、処分理由が妥当かを検討したい。規約が正当なのものであるとしても、規約を恣意的に運用して、党員の権利を侵害するような適用をすれば、処分は不当であると認定される可能性は十分にある。
まずアについて。
「特別な事情」があるのだから、規約の範囲内で、通常とは異なる処分審議をしたというのが、処分理由であり、「特別の事情」とは、松竹氏が、メディアを使って党の「攻撃」をしたことをあげている。
この点については、松竹氏自身が、明確な反論をしている。
日本記者クラブでの講演のなかで、2点を述べて、不当な審議であることを主張している。
・「特別な事情」とは、支部が崩壊状態にあって、審議不能になっている場合を指すのであって、松竹氏の所属する支部は、正常に機能しているのだから、まず所属支部で処分を審議すべきである。
・南地区での審議に際して、松竹氏が「こうした異例の審議をするのは、上部の意向か」を問いただしたところ、そうだと認めた。
この2点から、規約通りに、所属支部で審議をした場合、規律違反という結論がでない可能性があるので、そこを飛ばして、一つずつ上級の機関での審議に移したのであると、松竹氏は主張している。この審議の異常性が、処分が不当であることを示しているといいたいのだと思われる。
私は過去の処分に際して、どのように「特別な事情」が適用されたのかは、まったく知らないので、なんとも判断のしようがないが、過去の状況を松竹氏は詳しく知っているようだし、また、党本部に対して、資料請求をすることで明らかになることがあるかも知れない。
私の率直な感想だが、やはり、党指導部は自信がなかったのではないか。
私が裁判官として判断する立場であれば、やはり、異例な措置として、直ちに、規約の不当な適用とすることはないとしても、処分の妥当性を弱めるひとつの材料とするだろう。
イの判断はなかなか難しい。
「可視化されていない」「異論を許さない党とみなされている」「党首公選は、民主集中制とは相いれないのに、事実を歪めている」というのは、イメージ、解釈、受け取りの問題が大きい。
処分理由では、「可視化されていない」のは、事実を歪めているとなっているが、国民の多くのイメージは、共産党の党首選出のプロセスが可視化されていないというもので、国民という立場からみれば、事実を歪めているとはいえないだろう。しかし、党執行部としては、国民に党首選出の過程の詳細を可視化する必要はない。可視化が必要な範囲は、党員に対してであって、それは、党員だけに配布される文書によって示されている、ということなのかも知れない。そういう文書で示されているかどうかは、私には、まったくわからないが、そういう論理はありうる。「異論を許さない」というのも、国民のイメージと党内とでは異なる可能性は高い。実際に、松竹氏は、『シン・日本共産党宣言』のなかで、支部や常任委員会のなかでは、熾烈な激論が日常的にかわされていると書いているから、異論を許さないというのは、内部にいる者としては、違うイメージである可能性は高い。
しかし、異論を述べる著書を発行したことで、処分されるという事実は、「異論を許さない」というイメージを国民に強く与えたことは否定できないだろう。しかし、そうしたイメージ論は、判決には影響しないだろう。
「民主集中制と党首公選は相いれない」というのは、あまり説得力のない解釈であることは、既に前のブログで書いた。この点については、党の決定に反しているというのが、処分理由だが、松竹氏は、先の記者会見で、「党首公選は、民主集中制に反するので、実行しない」と党で正式に決定したことはない、と述べている。もし、松竹氏の主張が正しければ、松竹氏は、この点については、党決定に反したことを述べたわけではないことになる。代表による党首選考を実施していることは、直ちに、公選否定を「決定」したことにはならない。選択肢としてはありうるが、当面代表による選考を行なうが、将来的には、公選もありうる余地を残しているという状況と、松竹氏は主張していると思われる。処分側は、代表選考実施を決定したことは、公選否定を決定したことになる、という解釈なのだろう。しかし、私は松竹氏の理解が一般的に妥当だと考える。
(かなり長くなったので、ウ以下は次回に)