今回は、英語教育に関するテーマである。江利川春雄氏の「巨大利権の実験場 小学校英語教科化と大学英語入試民営化」と題する論文を素材に考えたい。
安倍政権の教育政策の基調は「結果の平等主義から脱却し、トップを伸ばす戦略的人材育成」(教育再生実行本部2013)で、そこでは、「英語が使えるグローバル人材」の育成に特化しているという。
小学校英語の歩みが整理されている。
江利川春雄氏の批判
小学校英語の導入を最初に提起したのは、中曽根内閣の臨時教育審議会第二次答申(1986)で、「英語教育の開始時期についても検討を進める」としたのが始まりだが、文部科学省は一貫して消極的であったと氏は評価している。しかし、1998年改訂の学習指導要領で、「総合的な学習」のなかで、英語教育をすることを可能にし、2008年改訂で、「外国語活動」として5、6年に必修とした。このとき専門家の猛反対があったために、教科化は見送られたとしている。そして、2017年の改訂で、5、6年での教科化、そして、外国語活動を3、4年に引き下げるということになった。この間、2013年に、安倍首相の私的諮問機関である「教育再生実行会議」が、英語教育の早期化を提言して、それが反映されたのだという。 “『教育を』を読む2019.6 市場化する学校2” の続きを読む
カテゴリー: 教科研『教育』を読む
『教育』2019.6を読む 市場化する学校1
6月号の第二特集が「市場化する学校」となっており、いくつかの論文が掲載されている。非常に重要なテーマであり、私も考えねばならないことなので、何度かに分けて検討したい。今回は最初の小池由美子氏の「教育産業の介入と受容させられる学校 学校を市場に差し出す『学びの基礎診断』」を読みながら、考えてみたい。
この題名だけでも、「教育産業」「市場」「学びの基礎診断」という重要な言葉が出されている。
本論文で扱われている内容を列挙すると
・高大接続
・学びの基礎診断
・グローバル人材
・大学入試の調査書の拡大とeポートフォリオ
センター試験改革
背景として、大学入試のためのセンター試験改革を考える必要がある。入学試験制度というのは、どの国でもやっかいな問題で、どのように改革しても、欠陥が現われてくるものだ。だから、数年から10年単位で必ず変更がなされている。センター試験だけではなく、大学入試に関して、様々な問題が生じていることは間違いなく、立場によって評価も異なるだろうが、私の考える「現象的」な問題を整理してみる。 “『教育』2019.6を読む 市場化する学校1” の続きを読む
「教育」を読む2019.5 政治的中立性と教育の自由
2019年5月号の第二特集は、「政治的中立性と教育の自由」である。通常、特集に関しては、取り上げる趣旨などが、編集後記に記されるものだが、この第二特集については、委員長である佐貫氏が担当したことのみが記されている。したがって、何故今この特集がくまれたのか、正確な理由かわからないのだが、昨年の大会で、後援をしていた川崎市教育委員会が後援をおりるということがあったことが、佐貫氏の論文に書かれており、それも契機のひとつだったのだろうと想像する。酸基院選挙の結果によっては、憲法改正問題が国会に提起される可能性がないわけでもないという、そうした意思も働いているのかも知れないが、第一特集の「教育実習」ほどには、テーマの凝縮性が乏しい気もする。
5本の論文・対談が掲載されている。
・中嶋哲彦「公権力規制原理としての政治的中立性」
・金子奨・菅間正道 「憲法改正論争事態」で教師は?
・富田充保「意見の違いこそ政治の原点」
・中田康彦「教育を非政治化するという政治化の動き
・佐貫浩「教育研究運動と政治的中立性
主に、中嶋論文を材料に考えていきたい。
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『教育』を読む2019年5月号 教育実習1
今月号の特集は、「『教育実習』出会いと学びあい」と「政治的中立性と教育の自由」のふたつだが、今回は前者について、紹介しつつ、教育実習にまつわることを書いてみる。
巻頭の佐藤高樹氏の「子どもの思いに応え、自分らしさを考えぬく」という文章では、最初に、教員採用試験の倍率が低下してきたことが指摘され、その原因のひとつとして、教育実習で教職に対する「あこがれ」の気持ちがそがれてしまうことだとの危惧が書かれている。この20年間に、実習期間の延長、介護実習の導入、教職実践演習の必修化、インターンシップの単位化など、実習の負担が増大している。教職が大変であることは、広く認識されているが、実際に現場で実習してみると、予想を超える大変さを、目の当たりにみて、教職に就こうという気持ちがなえてしまうということなのだろうか。
それとともに、実習などで強く感じるようになってきたのが、「形式的指導」もあるという。
以上の問題意識は、私も同じように感じている。別のブログで、日本の教職は、欧米と同じように、なり手がどんどん少なくなって、教師不足になっていくのではないかと、何度も指摘してきた。文部科学省は、まるで、日本の学生たちに、教職につくなといいたいのだろうか、と率直に感じるほどである。
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『教育』を読む 2019.4号 「わからない」の克服
私は、大学勤務時代(今でも勤務であるが、特別の定年延長で特任なので、半分は勤務状況から脱出している)は、外部の研究活動をせず、大学の教育活動に専念していたが、昨年初めて「教育科学研究会(以後「教科研」)に加入した。しかし、まだほとんど活動をしておらず、どういう活動が可能なのか、これから考えていこうという段階だ。教科研には、『教育』(教科研の機関誌)を読む会があるのだが、私の居住している千葉県にはない。将来的には、「千葉県『教育』を読む会」をつくっていきたいと考えているが、その前に、このブログで、自分で『教育』を読むシリーズを書いていこうと思う。
教科研を紹介する立場にはないので、興味のある人は、ぜひホームページをみてほしい。『教育』は、以前は国土社からでていたが、今はかもがわ出版から出ている。なかなか入手しにくい雑誌だが、興味のある人は、ぜひ注文して読んでほしい。アマゾンでも購入できる。
今回は、「わからない」を克服するための工夫をしている実践をふたつ紹介する。
まず、川淵和美さんの「『わからない』から始まるぼうけん」。
川淵さんの「『わからない』と言うことは、子どもたちにとって、ハードルが高い。バカにされたらどうしよう、恥ずかしい・・・」という言葉は、教師をしている人にとっては、誰でも、常に感じていることだろう。大学などは、これは小学校以上で、よほどの工夫をしないと、授業中に何を聞いても発言などなく、反応もないような授業が多い。幸い、私の授業では、特に教育学関連では、内容の親しみやすさもあるが、それなりに発言はあるし、また、討論になったりもする。しかし、それもこちらから発言を求めた場合にほぼ限定され、自分から挙手して意見を述べたり、特に、「質問」は出ない。まだまだ工夫が足りないということだろう。
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