国葬「やってよかった」になるか?

 安倍元首相の国葬問題は、いまだに迷走を続けている。めずらしく岸田首相が、国会の閉会中審査で、自ら説明をしたが、それまで述べていたことを繰りかえしただけで、かえって不信感を強めたといえる。
 しかし、どうも不思議なことがある。私は国葬反対だが、どうせやるなら、もっとうまく処理できないのかと。
 政府の立場は、法律がなくても、閣議で決めれば実行可能であるというものだ。その根拠となっているのが、内閣府設置法の次の条文だ。
 
第四条
三十三 国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)。
 
 これまでは、国葬を実施するためには、三権の長の承認が必要であるというのが、内閣法制局の見解だった。しかし、安倍内閣の下で、内閣法制局人事によって、政府の意向をほぼ認めるようになってきたのが、内閣法制局の実態であるから、この岸田内閣のいうことを認めた形になっている。

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「ロシアが失ったものはない」(プーチン)は本当か

 ロシアのプーチン大統領は、7日、極東ウラジオストクでの東方系さいフォーラムで、「ロシアは何も失っていない。むしろ主権を強化した」と強調したのだそうだ。
 まず驚くのは、極東まで出かけて演説をしたことだ。決して重病人ではないようだ。というより、かなり健康状態はいいのではないだろうか。
 記事によると、今回の特別軍事作戦は、2014年以降の政変(新ロシア政権がクーデターによって倒されたこと)を終わらせるためのものであり、欧米の制裁は、世界の食料危機をもたらしていると非難したそうだ。2014年の政変が始まりという立場と、その後のクリミヤ半島のロシア化が始まりだという立場が、対立しているから、その点は検討が必要であるが、どちらにせよ、そこから続いてきたロシアとウクライナの闘いに、終止符をうつための闘いをしているといえるだろう。世界の食料危機をもたらしているのが、欧米の経済制裁だというのは、いかにも説得力がなく、ロシアによるウクライナ侵略が原因のひとつであることは、誰の目にも明らかだろう。

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統一教会の反撃について

 メディアが盛んに統一教会問題を取り上げるようになったことに対して、統一教会側からの反撃も顕著になってきた。最も熱心にとりあげているミヤネ屋を初めとして、TBSの膳場貴子氏に対して、抗議文が寄せられたという。
「日テレの次はTBSか 旧統一教会系団体が「膳場貴子」名指しの抗議文提出で大波紋!」
 「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」からの抗議ということだ。
 統一教会被害に対応する団体が進めている、信者の洗脳を解いて、脱会させる運動が、拉致監禁・強制改宗であるという批判だ。そこで、冷静に、この問題を考えてみよう。

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札幌五輪は招致すべきではない

 にわかにオリンピック疑獄の捜査ともいうべき事態が進展している。このブログを読んでいる人には、周知のことだが、私は、原理的オリンピック反対派である。オリンピックという国際競技大会は、少なくとも現在の形では存続すべきではないという立場だ。存続するとしたら、大きく形を変える必要がある。
 それはさておき、オリンピック疑獄は、どこまでいくのか。そして、これどのように受けとめるべきなのか。
 オリンピックは、近年のほとんどの大会がそうだと思うが、利権集団によって運営されている。そして、かなりの部分は、批判的論者によって指摘されているから、なんとなく理解はされている。オリンピックは、国民に勇気を与えるなどと自己礼賛しているが、実態は、各種利権集団によって、利権獲得競争が行われているわけだ。競技だけに限定すれば、「感動」もたくさんあるだろうが、オリンピックという全体の構造は、感動を生み出すことが、主要な目的とは思えない代物である。そこに初めて捜査のメスが入った。

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矢内原忠雄と丸山真男22 役重善洋氏の矢内原批判

 役重善洋『近代日本の植民地主義とジェンタイル・シオニズム 内村鑑三・矢内原忠雄・中田重治におけるナショナリズムと世界認識』は、氏の京都大学に提出した博士論文である。一度ざっと読んだだけという段階だが、おそらく、これまでにない視点から、日本の代表的なキリスト教徒と植民地主義の関係について研究した労作である。しかし、私は、あまり共感することができなかった。矢内原忠雄研究をしている立場から、無視することはできないので、読書ノートとして検討しておきたい。
 共感できない単純の理由のひとつが、日本のキリスト教徒3人の植民地主義を検討するということで、他人をとりあげているのに、植民政策の専門家であった矢内原忠雄がもっとも簡単に扱われていることだ。ページ数では、内村93ぺージ、矢内原35ページ、中田56ページとなっている。内村も中田もキリスト教徒として生きた人物であるが、矢内原はキリスト教徒と同時に、植民政策の日本を代表する研究者であった。しかも、他の二人は植民地に関する専門的論文を残したわけではない一方、矢内原には、当然だが、膨大な植民政策に関する著作がある。ならば、そうした多数の論文を検討しつつ、矢内原のキリスト教徒としての活動をあわせて考察すべきだと思うが、実際に、役重氏が扱った矢内原の植民政策論文は、「シオン運動について」と『満洲問題』であり、少しだけ『植民及び植民政策』が参照されている程度だ。これで、矢内原の植民地主義を批判する上で十分とはとうていいえない。

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統一教会をめぐる右派論客の奇妙さ

 安倍元首相暗殺事件以後、保守派のなかでも右派とされるひとたちの言っていることが、実に奇妙である。youtubeで語られていることで、いちいち出典は記さないが、繰り返しなされている主張なので、各自参照してほしい。
 まず、安倍元首相銃撃後、メディアの統一教会報道に対して、報道すること自体を非難している人が圧倒的である。これは、共通している。ただし、では統一教会報道ではなく、メディアが追求すべきなのかは、あるいは社会的に求められているのは何か、という点になると、いくつかの相違が出てくる。
 
 統一教会の問題を報道するのが、何故いけないのか。私が聞いている限りでは、その理由をしめさないことも目立っている。もっと重要なことがあるだろうというわけだが、何故他のことがもっと重要なのかは、よくわからない。しかし、統一教会問題が、自民党を中心とする政治家たちに大きな影響を与えており、それが、個々人の経済的、家庭的な被害と悲劇をもたらしているだけではなく、霊感商法や献金で集められた資金が、韓国に流れ、日本はそうした資金調達源になっていることについて、日頃反韓であった彼らが、メディアが報道することを非難していることは、奇妙という他ない。この際、統一教会がいかに日本に害を与えているかを批判し、こうした勢力は撲滅しようと叫ぶのが、彼らの主張にあうのではないか。

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遅まきながら国葬について

 国葬に対する国民の反対が強い。調査で国葬賛成が多数だったのは、「月刊hanada」のみだそうだ。産経新聞の調査まで含めて、反対論が多い。
 岸田首相が、安倍氏のために国葬をすると発表したときには、びっくりしたが、当初は、茂木幹事長は、「国民に反対意見があるとは聞いたことがない」などと言っていたくらい、国民は支持していると、政府自民党は思い込んでいたのだろう。
 しかし、そこにはいくつもの勘違いがあった。
 
 そもそも葬式とは何のために実施するのだろう。それは端的に、生き残った人、誰かの名誉誇示のために行うものだ。決して、死者のために行うのではない。死んでしまった者は、既に単なる物質なのだから、どのような葬式が行われようと、自身には関係がない。だからこそ、世界には様々な葬儀の形式があるわけだ。

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矢内原忠雄と丸山真男20 丸山の知識人論1

 丸山の論文は、極端に言えば、すべてが日本の知的状況、日本の知識人への批判が土台になっている。彼の専門が思想史であり、思想は、広い意味での知識人の営みが中心だから、ごく自然なことといえる。そして、丸山の問題意識が、戦前の軍国主義に至った経緯と、戦後その反省から出発した知識人の状況への疑問から出ていたことも、当然のことといえる。
 「近代日本の知識人」は、1977年、敗戦から約30年経った時点で書かれたものである。(当初書かれた原稿が、様々な経緯を経て修正を重ねられた事情があるが、ここでは著作集10巻所収の論文をみていく。()内の数字はページ)そして、「戦後、「暗い谷間」を過ごした知識人が、知性の王国への共属意識が呼び醒まされた」(p253)が、30年経過した時点では、「戦争直後に民主主義の知的チャンピョンとして活躍した知識人たちに対して・・・非難と嘲弄を浴びせるのが一種の流行となっている」ことに対して、その非難の不当性を指摘するとともに、知識人たちの弱点をも批判する内容になっている。

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矢内原忠雄と丸山真男19 再出発

 大分間があいてしまったが、矢内原忠雄と丸山真男論を復活する。これまでこのブログでまとまったテーマで書いていたものを、いくつかきちんとした形でまとめていきたいと思っているが、そのひとつとして、矢内原忠雄と丸山真男に関する文章を考えている。
 前回は、「知識人とは何か エドワード・サイードの知識人論」という文章で、2020年12月だったから、ずいぶん時間がたってしまった。
 この18回で書いたように、矢内原忠雄と丸山真男を「知識人」論としてまとめていくつもりだが、その基礎となる議論として、サイードの知識人論を整理してみたわけだ。そして、矢内原と丸山の知識人論を比較してみることになるが、非常に興味深い違いがふたりにはある。

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