『教育』2020.2号を読む 校長の役割

 『教育』2020.2号の第一特集は「いま求められる校長の役割」である。編集後記によると、これまで『教育』では、こうしたスクールリーダー論は、ほとんど取り上げられてこなかったのだそうだ。その理由は、校長が、勤評以来、教育行政の末端に位置づけられてきたからだという。そのために、校長とどう闘うかが意識され、校長が本来果たすべき役割についての検討が弱かったことが否めないと書かれている。
 しかし、私のような高度成長期から、『教育』を読んできた世代からみると、この見解はかなり違和感がある。戦後の校長の中でも際立って大きな功績をあげたといえる斉藤喜博は、教科研の主要メンバーであったし、彼の戦後の仕事は、ほとんど校長としてのものだった。校長として、どう教師を育てるか、育てた教師とどのように学校の実践を作り上げていくかを、提起し続けてきた。そして、その主要な場が教科研だったはずである。しかも、斉藤喜博は、勤評以前の、まだ校長が敵(?)ではなかった時代の校長だったわけではなく、斉藤喜博が校長時代にそうした推移があり、斉藤喜博自身が校長の教育行政のおしつけ的役割と対峙したわけである。教科研が、校長論、スクールリーダー論を掘り下げるには、斉藤喜博のみならず、教科研や民間教育運動に参加していた、優れた校長の実践をもっと注意深く分析し、継承する必要があるだろう。 “『教育』2020.2号を読む 校長の役割” の続きを読む

メディアの公平さを考え イギリス王室とオランダ王室

 昨日(1月10日)のワイドショーでとても奇妙な光景があった。イギリスのヘンリー王子がイギリス王室から離脱するという話題でのことだ。番組では、その話題に移ったあと、イギリスでの街頭インタビューの模様が放映され、そこには、勝手な振る舞いだとという批判的見解と、理解できるという同情論のふたつが紹介された。そして、その後、長年イギリス王室の取材をしてきたという女性がコメンテーターとして紹介され、レギュラーとゲストを含めた活発なおしゃべりが展開された。およそ議論というほどのものではなかった。そこで、驚いたのは、コメンテーターに、司会者が何度か、イギリス国民の反応はどうですかと質問したが、毎回、国民は完全に怒っています、とだけ述べていた。誰もが感じると思うが、最初のインタビューはふたつの対応があると明確に示していたのに、一応専門的に理解しているという前提で登場したのだろうが、コメンテーターは、国民はひとつの立場になっていると、およそ躊躇するような感じもなく断定していたのである。
 もちろん、私はどちらが正しいかは分からないが、しかし、同一の番組のなかで、このような扱いが生じているというのは、誰もが疑問に感じるだろう。コメンテーターに対して、インタビューでは同情論もありますが?というような質問を投げかける人もいない。最近のワイドショーは、けっこう異なる見解の人が登場して、率直に議論しあう場面も少なくない。それがけっこう面白い。そうした議論の有無は、番組の水準ということなのだろうか。 “メディアの公平さを考え イギリス王室とオランダ王室” の続きを読む

名城大学で教員が刺される事件

 1月10日の夕方、名古屋市の名城大学で、准教授が学生に刃物で刺されたという。報道によれば、レポートをめぐってトラブルになっていたとか。今の時期だから、レポートのトラブルといっても、成績評価のことではないに違いない。提出期限とか、あるいはレポートの形式などで、受け取り自体を拒否されたというようなことなのだろうか。以前、中央大学でも構内で教員が刺された事件があったが、やはり、理工系だった。文系でレポートをめぐってトラブルになり、教員が暴行を受けたりということは、あまり聞いたことがない。文系の場合には、成績が就職に直結することは、ほとんどないと思われるが、理工系の場合には、そうした面が文系よりは強いに違いない。だから、成績は重要な意味をもつのだろう。
 あまり参考にはならないが、成績に関するトラブルは、起きないに越したことはないので、一応は気をつけている。 “名城大学で教員が刺される事件” の続きを読む

読書ノート『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二

 皇室問題を考える一環として、西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(ワックKK)を読んでみた。この手の本を読んでいつも感じることだが、作者は本当にこんなことを考えているのだろうかと、どうしても思ってしまう。
 この著書は、今上天皇が皇太子であったときに、大きな衝撃を与えた「人格否定発言」に触発されて書いた文章と、その反応に対するコメント的な文章を集めたものである。ここで書かれたことは、現時点で考えると、明らかに誤解に基づくか、あるいは偏見に基づくものであったことがわかる。しかし、この発言を機に、一気に皇太子批判が起き、皇太子を退くべきであるという議論まで、公然と語られていた。この本は、そこまでの主張はしていないが、皇太子(当時)と雅子妃に対して、姿勢を改めることを強く要求していた。しかし、実際に代替わりのあと、事情はすっかり変わっている。天皇と皇后への批判はほとんどなく、称賛で埋まっているような気がする。私としては、それはそれとしてどうかとも思うが、西尾氏は、現状をどのように見ているのか気になるところだ。西尾氏のブログを見たが、コメントは何もないようだ。(ただし、youtube発言はチェックしていない。)
 雅子皇太子妃の病気に関して、西尾氏が触れている点をひとつだけ紹介しておこう。 “読書ノート『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二” の続きを読む

相模原障害者施設の殺傷事件公判について考えること

 相模原の障害者施設に、元職員だった男が侵入して大量殺傷事件を起こしたことは、記憶に鮮明に残っているが、容疑者に対する裁判が始まった。しかし、容疑者が反省の弁を述べたあと、奇声を発し、押さえつけてもやめないので、傍聴人を外にだし、休廷した。そして、午後、容疑者のいないままの裁判が継続された。その後どうなるのか、原則被告がいないと公判を開けないはずだが、暴れるなどの事情があるときには、許されるのだろう。麻原の場合にも、その場にはいないまま裁判が進行したから、もしかしたら、この裁判でも被告不在で進行するのかも知れない。現在は以前と異なって、裁判員裁判だから、公判は迅速にかつ短期間で行われる。
 この奇声が、意図的なものなのか、あるいは、精神的異常による無意図的なものなのかは、まったく判断ができないが、弁護側は責任能力で争う方針なので、もしかしたら意図的なのかも知れない。精神異常であるか否かで、ある意味生死が左右されるのだから、ありえないことではない。 “相模原障害者施設の殺傷事件公判について考えること” の続きを読む

イランとアメリカの関係史の誤解

 アメリカとイランの関係が、極めて危険な状態になっている。そして、多くの人が指摘しているように、これは昨今始まったことではなく、長い対立の歴史がある。そして、ネットで専門家と思われる人の解説記事が多数載っているが、多くは、誤解を生むような内容になっているのが気になる。それは、アメリカとイランの対立が、ホメイニによるイラン革命、そしてその後直ぐに起きたイラン人の一部によるアメリカ大使館の選挙と人質事件から始まっているような記述である。もちろん、そうした事実があって、アメリカとイランの対立が激化したという指摘は間違いではないが、それ以前の重要な対立を無視している点で、誤解を与えるものだ。
 20世紀になって石油が重要な資源であることが発見され、現在の中東地域がそれまでとは格段に異なる意味あいが生じた。そして、この地域は長くオスマントルコ帝国と西欧列強の対決が続き、第一次大戦後のオスマントルコの崩壊によって、一気に西欧列強の支配が優位になる。そして、石油採掘の作業が、西欧の企業によって進められることになった。そして、そこから生じる利益は、西欧企業がほぼ独占したわけである。 “イランとアメリカの関係史の誤解” の続きを読む

『教育』2019.12号を読む 「黙」の強制

 『教育』2019.12号の第二特集が「学校にしのびこむ『黙』」である。ここには、5人の論考が掲載されている。
・安原昭二「黙食・無言清掃がもたらすもの」
・霜村三二「黙を強いられる学校現場の声を聴く」
・内海まゆみ「子どもが食を表現するとき」
・北村上「無言清掃と藩閥意識」
・山本宏樹「無言清掃はどこからきたのか」
 煩雑になるので、どの論考かはいちいち示さないが、すべてここに書かれていることを紹介しつつ、考えていくことにする。
 日本の学校には、摩訶不思議な慣行が少なくない。黙食、黙働は、その最たるものだろう。食事は、多人数でおしゃべりしながら食べるのが、最も消化によく、健康的であることは、常識となっている。にもかかわらず、給食を食べるときに、会話をしてはいけない、というのが黙食であるから、これは、まったく常識に反する不健康なことなのだ。確かに、学校には、この他にも、「黙」が強制される場面が少なくない。ここで紹介されている一例だけみてもわかる。
・無言でじっくり朝読書
・集会の整列や移動は無言ですばやく
・無駄な話はせず無言で清掃
・無言で給食

蝶々夫人のオリジナル版

 昨年二期会の「蝶々夫人」を聴きにいったので、多少このオペラに関心が高まっていた。私はプッチーニは、「ボエーム」以外はあまり好きではないので、「蝶々夫人」も敬遠してきた。だから、いまだに細かいところまで理解ができていないのだが、リッカルド・シャイーが「蝶々夫人」の第一稿による公演をして、それが市販されていることを最近知り、アマゾンで購入して早速聴いてみた。
 オペラ好きの人には、よく知られていることだが、今日名作とされて、頻繁に上演されているこのオペラも、初演は大失敗で、一日だけで引っ込めてしまい、2カ月後に改訂版を上演して成功をおさめたとされている。初演を指揮したのは、著名なトスカニーニで、彼の忠告で2幕構成を3幕構成に改訂して、今に至っている。
 演奏はミラノのスカラ座のもので、歌手、指揮、オーケストラすべて優れている。演出もなかなかよかったが、私の興味はバージョンなので、そこに絞って書く。HMVのレビューで村井翔氏が、第一稿がもっとも優れているとずっと思っていたと書いているが、音楽よりは、劇の進行上、第一稿のほうが多少合理性があるように感じる。ただ、音楽という点では、「ボエーム」はどこをとっても魅力的な音楽だが、「蝶々夫人」はけっこう退屈な部分があるので、より長い第一稿は、まだすっと入っては来ない。唯一、何度も聴く第一幕最後の二重唱は、多少違う部分があったが、改訂版(通常演奏される)のほうが優れているように感じた。 “蝶々夫人のオリジナル版” の続きを読む

思い出深い演奏会3

 今回で最後だが、まずはカルロス・クライバーの2度目のオペラ。クライバーの正規録音、録画はすべて所有しており、また、すべて何度か聴いているが、すごいと思いつつ、やはり、指揮者としては、あまりに特殊な存在だったと思う。小沢征爾は、クライバーについて、「いつでも、演奏会をどうやったらキャンセルできるかを考えているようだ」などと語っていたことがあるが、およそ指揮者で、なんとか演奏を逃れたいなどという人は、この人以外には、いないだろう。ピアニストには、かなり長期間演奏活動をやめてしまう人がいるが、病気でもないのに、演奏しないというのは何故なのか。父親に対するコンプレックスという解釈が広く支持されているが、どうなのだろう。父親エーリッヒ・クライバーは、戦後は比較的早く亡くなってしまったので、あまり親しまれていないが、私自身はいくつかのCDをもっている。そして、カルロスが演奏する曲は、だいたい父親が得意にしていた曲で、その他はあまりやりたがらなかったらしい。そして、父親の演奏になんとか近づきたいという意識が強かったそうだが、二人の演奏を聴き比べた誰もが感じるように、息子のカルロスのほうが、ずっと優れていると思う。にもかかわらず、自分の演奏は父親の足元にも及ばないとずっと言い続けたというのは、本当に不思議だ。 “思い出深い演奏会3” の続きを読む

アイデア盗用なのか 新作寅さん、横尾氏の抗議を考える

 寅さんシリーズは、前半はとても面白いと感じ、よく映画館にも見に行っていたが、後半になると、なんとなくつまらなくなり、全然見ないようになってしまった。DVDなどでも見ていない。山田洋次監督が関与している「釣りバカ」シリーズも一度見て、「何だこれ」と呆れて見る気力が失せた。「釣りバカ」に関しては、原作のもつ社会批判、企業文化批判がかなり薄められて、スーさんの恋愛ドタバタのような感じがしたので、がっかりしたのだ。もちろん、その一回が特にそうだったのかも知れないが、最初の印象はやはり抜きがたいものがある。
 寅さんシリーズは、当初は、寅さん自身が恋をして、実らずにまた旅に出ていくというコンセプトだったのが、次第に、恋愛指南的になっていって、いかにも不自然さを感じてしまうようになった。一般的には、人気は高く、渥美清さんが演じられなくなるまで続いたわけだし、またその後、渥美清という存在ぬきに寅さんを撮ることはできないということで、打ち切りになっていた。それが、サバイバル映画が作られ、話題になっているが、思わぬ騒動が起きているようだ。 “アイデア盗用なのか 新作寅さん、横尾氏の抗議を考える” の続きを読む