市立小プールの水、流し続けで市教委、担当教諭に弁償請求

 川崎の市立小学校で、5日間(他の記事では6日間)にわたり水を流し続けるミスがあり、損害額が190万になった。そして、担当教諭と校長に過失があったとして、損害の5割95万円を2人に請求したという記事が話題を呼んでいる。「小学校プールの水、5日間出しっ放し 川崎市が教諭らに賠償請求 損害額は」
ヤフーニュースでは、記事の翌日時点で2000件以上のコメントがついている。
 この記事では詳細がわからないが、とにかく、担当教諭がミスをしたことは間違いないだろう。そして、損害が200万円近くになり、教育委員会が校長と担当教諭に弁償を請求したという骨格は、間違いないようだ。

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教師になると奨学金返済免除 いいことだが、それだけでは

 さすがの文科省も、教師が大変だというだけではなく、完全に不足状態になっていることになって、困っているようだ。そして、なんとかしなければと思っている。そのことは、伝わってくる。今日のニュースで、教師になると、日本学生支援機構で借りていた奨学金を返済しなくてもいいようにしようという方向での予算請求をしているようだ。「【独自】奨学金の返済免除新たに 教員不足解消へ 概算要求」(FNNプライムオンライン)
 
 このこと自体は、けっこうなことだといえるだろう。今の若い人は知らない人もいるかもしれないが、日本学生支援機構が、日本育英会といっていた時代には、その奨学金を大学でうけていて、教師になると返済免除になっていたのである。そして、奨学金はすべて無利子でもあった。教師になると返済免除というのは、戦前の師範学校時代をある程度引き継いだといえる。師範学校は、授業料は無償だったので、家は貧しいが学力がある若者が進学することが多かった。欧米のとくに小学校の教師などと較べると、日本の小学校教師は、やはり非常に優秀だった。それは、戦前のそうした教員養成制度の仕組みがひとつの要因になっているといえるのである。そして、教師は、基本的に尊敬されていたし、安定した職業、男女平等の職業として、志望者も多かったのである。

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大学の中退が多いことについて

「大学進学者の8人に1人が辞めている衝撃の事実。指定校入学者8割、一般入試10割という中退例も…大学側が伏せる不都合な真実とは」(集英社オンライン)
という記事があった。題名のとおり、大学進学者の8人に1人が中退しているという事実が説明されている。あまりその実態が明らかにならないのは、大学が隠しているからだ、というのだが、大学が毎年の中退者を公表する必要があるかどうかは疑問であるので、大学の責任を問うのは、おかしな気がする。ただ、その事実の公表以上に、大学にとっては、学生が辞めていくのは、好ましい事態ではないといえる。ただ、全体として、ほんとうに入学した学生が、全員卒業することが好ましいことであるかどうかは、かなり疑問なところだ。そもそも、大学とは、なんのためにあるのかということを考えれば、基本的には、将来つく職業にかかわる基礎的な教育(専門教育の初歩)を学ぶところだと考えれば、大学に入学する学生の多くが、将来のことを決めているわけではないし、また、決めていたとしても、一端決めたとしても、変える学生も少なくないのだ。志望を変更すれば、そのまま大学に残っていても、あまり生産的とはいえない。日本の大学の多くは、転学部をあまり認めていないから、将来の志望を変更したら、その大学内で所属学部を適切なところにかわる、ということができないのだ。だから、辞めることになる。

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部活の地域移行問題

 教師不足を改善するために必須なこととして書くつもりだったが、「部活動は「本当に地域移行できるのか」問題のカギ 教員の「善意・ただ働き」という前提から脱却を」という記事が出され、部活の地域移行の難しさについて書かれているので、そこに絞って書くことにした。
 
 教師不足の改善に必須なことは、第一に教師に対する行政側の教師侮蔑的政策をやめることを前回書いたが、あとは具体的に、教師にとって、必須とはいえない、過剰な労力を必要とする仕事をやめることである。そして、その第一候補が部活に他ならない。部活指導をやめるのではなく、部活そのものを廃止するということだ。部活指導を地域の指導者に移管するなどという中途半端なことは、さまざまな部活問題を解決することにはならないし、また、教師の過重労働を改善することにもならない。

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教師不足を改善するために必須なこと 1

 公立小中学校の教師不足は、すっかり社会的に知られることになった。こうなることは、多くの教育研究者にとっては、ほぼ予想されていたことで、とくに驚くことではない。そして、その最大の原因をつくっている文科省は、いまでも、基本的な姿勢を改めていない。給特法の手当の若干の増加という、最悪の策を提示している程度だ。民間のひとたちも、いろいろな案をだしている。AIをつかって、書類作業を軽減させれば、問題が解決するなどという、突飛な見解もある。
 さまざまな改善が必要であるが、今回は、その最も基本的な部分について述べたい。
 それは、文科省が特に酷いのであるが、教育委員会等の教育行政機関も、教師という存在への敬意がなく、駒のようにみているという基本姿勢があることだ。それが、端的に現れるのは、子どもに対する指導原理と、教師の行動原理が、まったく逆であるような政策である。

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五十嵐顕考察25 教育の自由4

 では、オランダでは何故教育の自由が憲法上の規定になり、世界でもっとも自由な教育制度が実現したのかを考えてみよう。
 まずそれは、オランダ建国の歴史がもっとも自由の重要性を認識させるものである。オランダは、宗教改革に対する反改革の拠点となり、カトリック以外の宗派を弾圧する政治を行なっていたスペインに対して、宗教の自由を求めて独立戦争を闘ったあとで、独立を勝ち取ったことで、オランダという国家が成立した。つまり宗教の自由、精神の自由は、建国の理念となっている。そして、重要なことは、カトリック国スペインに対抗したとはいえ、オランダにはカトリック教徒もおり、また、新教徒にもふたつの宗派があった。このみっつの宗教勢力はほぼ拮抗しており、そして、協力して独立戦争を闘ったのである。だから、ある特定の宗派が多数派を形成するという、ヨーロッパの国家の多くと異なって、異なる宗派が拮抗して、最終的には妥協しあう政治体制が形成されてきた。そして、19世紀になると、ここにやはり拮抗できる勢力としてリベラル派が登場し、主に4つの勢力が妥協的に政治を押し進めてきた。それか教育の自由を認めるもっとも大きな理由である。

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五十嵐顕考察24 教育の自由3

 では、「教育の自由」を主張することは、どのようにして可能なのか。あるいは、それは教育権として、適切な主張なのかをみておこう。
 前述したように、世界で教育の自由を憲法で承認しているのは、オランダだけである。では、オランダでは、教育の自由とは何を意味しており、どのように、社会権としての教育権と調和しているのか。
 オランダ憲法のなかで、教育については、学校設立の自由、教育内容の自由(おもに世界観について)、教育方法の自由を保障している。そして、もうひとつ重要な規定が、公立学校と私立学校の、教育財政上の平等である。
 まず「学校設立の自由」をみてみよう。
 実は日本においても、学校設立の自由は、認められている。しかし、日本人で、自由に学校を設立できると思っているひとは、ほとんどいないに違いない。法的に自由であっても、実際に学校を設立し、維持することは、極めて困難だからである。なんといっても、莫大な資金が必要である。そうした資金を用意できるひとは、極めて限られている。

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五十嵐顕考察23 教育の自由2

 前回は、自由という思想的系譜において「意思の自由」という系譜と、不当な干渉を受けない自由というふたつ系譜があり、それぞれ現代社会において、重要な、かつ実質的な意味をもっていることを指摘した。
 そして、更に、「意思自由」の系譜においては、必然性の認識論と存在被拘束性の論があることを確認した。
 
 さて五十嵐は、教師の研究の自由を根拠づけるのに、かなり複雑な論理構成をしている。この根拠づけは、五十嵐に限らず、一筋縄ではいかないのだが。
 まず、基本は、大学の教師や専門研究者に認められる学問の自由、そして、その系としてでてくる教授の自由が、高校・中学・小学校の教師にもあてはまるのだ、という構成をとっている。しかし、私の見る限り、大学と高校~小学校においては、異なる意味づけをしている。そもそも、大学については、伝統的に承認されている論理があるから、特別に論証する必要があまりないと考えられている。しかし、高校~小学校については、決まった教材を教えるのだから、学問の自由と、教授の自由は、そもそも問題にならないというのが、大学限定論(宮沢俊義)である。

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五十嵐顕考察22 教育の自由1

 五十嵐の論文で、教育における研究の自由に関する論文があった。極めて、興味深い論文で、五十嵐の若いころのものだが、私の考えとは完全に異なるものであることが、明確になった感じだ。
 「自由」という概念は、実に多くの切り口、あるいは側面をもっている。そして、現実の生活や社会のありかたに多大な影響をあたえているし、また、もっとも論争点となっている概念でもあるだろう。
 私の理解であるが、極めて大きくふたつにわけると、ひとつは「自由意思」に関わる問題であり、もうひとつは「国家的干渉からの自由」という問題である。

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五十嵐顕考察20 戦争責任2

 関係ないことから書くが、昨日は五十嵐著作集の編集委員会で一日でていた。だから、このブログを書く時間がほとんどなかった。しかし、毎日書くというノルマを課しているので、結局、電車のなかとか、昼食を食べているときに、カフェに陣取って、スマホで書いた。実はスマホで文章を書くのは初めてだった。以前、ゼミの学生で、通学の電車の行き帰りで卒論をだいぶ書いた者がいて、そんなこと可能なのかと思っていたが、スマホの日本語入力は、私がパソコンで使っているものより、何倍も優れていて、長めの文書を書いていると、入力の途中で、どんどんそのつもりの変換が示されて、速く書くことができる。もちろん、パソコンには及ばないが、意外と書けるものだとおもった。
 さて、戦争責任論についての続きだ。五十嵐は、終戦後1年後に、帰国している。だから、東京極東軍事裁判などの進行はリアルタイムでみることができたから、はっきりと知っていたとおもわれるが、東京裁判についての言及は、私がこれまで読んだなかでは、ほとんどない。逆に、東京裁判に充分意識がいかなかったことを反省しているくらいだ。前回書いたように、日本に対して行われた裁判については、学徒動員されて処刑された木村がほとんど唯一の関心で、五十嵐が言及した「わだつみ」関連の戦死者のほとんどは、戦死ないし野戦病院での病死である。

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