大学の中退が多いことについて

「大学進学者の8人に1人が辞めている衝撃の事実。指定校入学者8割、一般入試10割という中退例も…大学側が伏せる不都合な真実とは」(集英社オンライン)
という記事があった。題名のとおり、大学進学者の8人に1人が中退しているという事実が説明されている。あまりその実態が明らかにならないのは、大学が隠しているからだ、というのだが、大学が毎年の中退者を公表する必要があるかどうかは疑問であるので、大学の責任を問うのは、おかしな気がする。ただ、その事実の公表以上に、大学にとっては、学生が辞めていくのは、好ましい事態ではないといえる。ただ、全体として、ほんとうに入学した学生が、全員卒業することが好ましいことであるかどうかは、かなり疑問なところだ。そもそも、大学とは、なんのためにあるのかということを考えれば、基本的には、将来つく職業にかかわる基礎的な教育(専門教育の初歩)を学ぶところだと考えれば、大学に入学する学生の多くが、将来のことを決めているわけではないし、また、決めていたとしても、一端決めたとしても、変える学生も少なくないのだ。志望を変更すれば、そのまま大学に残っていても、あまり生産的とはいえない。日本の大学の多くは、転学部をあまり認めていないから、将来の志望を変更したら、その大学内で所属学部を適切なところにかわる、ということができないのだ。だから、辞めることになる。

 
 少し寄り道になるが、欧米の大学の構成をみておこう。大学は、高等教育であるが、高等教育は、その前の中等教育を高いレベルで習得したことを前提にして成立すると考えられている。そして、その構成がヨーロッパとアメリカでは異なっている。ヨーロッパは、総ての国ではないが、大学に接続する中等教育機関が限定されていて、すべての中等教育学校から大学に進学できるわけではない。もっとも、そういう国もあるが、たとえば、フランスでは、大学に進学するためには、共通テスト(バカロレア)に合格しなければならない。バカロレアは、やさしい試験ではない。ドイツやオランダは、大学に進学できる中等学校が決まっていて、その卒業試験に合格すると、大学入学資格をえる。つまり、大学(高等教育)を受ける段階では、それに見合う教養を身につけていることが、制度的には保障されていることになる。
 アメリカは、そこが少々ことなる。アメリカは、高校をある程度の水準以上の成績で卒業すれば、基本的に大学に進学することができる。しかし、共通テストや学校の成績が規準を満たしていることが求められるし、一部名門大学は、難しい選抜がある。(日本のような入学試験はない)アメリカでは、大学進学へのハードルはヨーロッパにくらべて低いのだ。しかし、実は、アメリカの大学は、基本的に教養課程であって、若干の専門分化はあるが、本格的な専門教育は、大学院で行うことになっている。専門的職業資格は、院卒となっている。大学は入学がやさしく、卒業が厳しいというのは、ヨーロッパの大学進学用中等学校とアメリカの大学、ヨーロッパの大学とアメリカの大学院が、機能的には重なっているのである。アメリカの大学が、国際ランクで上位になっているのは、こうした制度も影響していると考えられる。
 大事なことは、大学で学ぶ基礎となる教養を、しっかりと学び、そこをパスして専門教育に進む、というプロセスは同じだということだ。
 
 ところが、日本では、大学で学ぶ基礎となる教育をしっかりと学んだかを、大学教育全体としての前提として問うことがない。かなり難しい入試問題を解けなければ入学できないような大学であれば、そのための受験勉強が、かなり歪んだかたちであるとしても、その機能を果たしているといえるかも知れない。しかし、いまや半数の大学生は、学力試験を受けずに入学する。学力試験を受けるといっても、全体としてレベルが低い大学も多数ある。つまり、日本の大学生の水準は、ほんとうにピンキリなのである。もちろん、さまざまな評価規準があるから、単純にはいえないが、しかし、大学の受け入れ規準がバラバラであり、高校での教科をしっかり勉強してくる学生から、ほとんど理解もしていない学生までいる。そういうなかで、ほんとうに、全員が卒業できることが望ましいのか、単純にそうはいえないのである。高校までの学習内容を理解しておらず、大学にはいっても、まじめに勉強しなければ、単位を認めることが難しいし、そういう学生でも単位を認めるべきだというのならば、大学とは何なのかということになる。やはり、単位を認め、卒業を認めるのは、大学で学ぶべき内容をしっかり修得したという評価をもってでなければならない。もし、単位を修得できない学生、する気がない学生がいたら、進路を変えるのがあるべき姿だろう。
 そのように考えると、8人に7人が卒業しているということは、単位認定が甘いのではないか、とも思えてくるのである。そういう面がないとはいいきれない。とくに、文科省が、留年が多いと、大学に注文をつけてくるようになっているので、しっかりと学習指導や生活指導をする一方、やはり単位認定が甘くなることも避けられない。しかし、それでは、大学が行うべきことを放棄することにもなってしまう。そういう側面もあるのだ。大学で、充分に学ぶ学力も、あるいはモチベーションもない状態で入学してくれば、充分な効果があげられない可能性が高い。そういう人は、一端社会にでて、学ぶ必要性を実感した段階で、大学に入学するほうが、ずっと学ぶ意味を理解し、効果的な勉学をすることができる。
 そうした学び方を助長するようなシステムに、日本の大学は変化していかなければならないと思う。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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