東京交響楽団のサロメ

 東京交響楽団によるリヒャルト・シュトラウス「サロメ」を聴いてきた。オペラなので、視聴してきたというべきかも知れないが、演奏会形式なので、聴いた要素が強い。とにかく、よかった。これほどすばらしいサロメを生で聴くことができるとは、思ってもみなかった。facebookをみていたら、この宣伝があったので、直ちに申し込んだ。幸い、比較的よい席がとれた。キャストは
サロメ アスミク・グリゴリアン
ヘロディアス ターニヤ・バウムガルトナー
へろで ミカエル・ヴェイニウス
ヨカナーン トマス・トマソン
 他は日本人歌手たちだったが、4人の外国人歌手たちは、すべてが声量と表現力は、文句ない感じだった。しかし、上演自体がかなり困難な「サロメ」で、日本人歌手たちが多数参加していたことは、心強いと率直に思った。ただ、コロナの影響で、急遽配役の交代があり、ナラボートとナザレ人2が同一歌手が担当し、自殺してしまうナラボート役の歌手が、あとでナザレ人2で出てくるのは、ご愛嬌というところか。

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再論 学校教育から何を削るか4 通知表1

 教育と評価はコインの表裏の関係である。教育のプロセスには、必ず評価が背後にある。従って、教師は高い評価能力をもっていなければならない。そうした日常的な評価を集約するための評価が、制度的には指導要録であり、保護者に集約された評価(=成績)を伝達するのが通知表である。
 通知表は、保護者に対する連絡簿で、作成は法的には義務ではない。ここが誤解されていることが多い。実際に通知表をださない学校も、稀だがある。義務ではないのだから、様式も回数も学校で決めることができる。
 私自身も、成績などださなくてよいなら、本当に授業がやりやすいのだがと思っていた。小中学校の教師にとって、通知表の記入は本当に負担の大きい作業だろう。文部科学省は、特に負担の多い「文章」で書く部分を、単純な書き方にするなどという「軽減策」を打ち出しているが、それこそ「焼け石に水」だろう。
 何故、学校教育から削る対象にあげるかといえば、教育的評価のためには、通知表は不可欠のものではないこと、通知表があることによって、かえって教育実践を歪めてしまう恐れがあること、そして、通知表記入が、教師にとって大きな負担であること等による。

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ウクライナ ポーランドへのミサイル事件への疑問

 ポーランドに着弾したミサイル問題は、いまだにしこりを残している。未解決というべきだろう。というのは、ゼレンスキーがまだウクライナの誤射であることを認めていないからだ。ゼレンスキーとしては、なかなか認めがたいというのも理解である。
・現場の兵士たちが、自分たちの誤射ではないと主張しており、指揮官としては、証拠もなしに兵士たちを疑うわけにはいかない。
・NATOとしては調査しているが、ウクライナは調査に参加できず、納得できる情報が示されていない。
 以上のふたつの理由である。ゼレンスキーの立場にたてば、当然の対応といえる。最高指揮官が、命をかけて闘っている兵士たちの主張を、証拠もなしに否定できるわけがない。具体的な証拠なしに、兵士たちの主張を否定すれば、兵士たちの士気は低下してしまう。更に、NATO側は、ウクライナの誤射であると主張しているが、私がみている限り、衛星での追跡などの具体的な軌道を示すような証拠を、公開していない。おそらく、非公開でゼレンスキーに示すこともしていないのではないかと思われる。少なくとも、NATOは、ウクライナの軍指導者やゼレンスキーに証拠をみせ、兵士たちを説得させる、という手順は踏むべきであろう。

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再論 学校教育から何を削るか3 形式的な儀式とマナー

 今回扱うのは、形式的な儀式である。儀式というものは、すべて形式的ではあるが、教育的にあまり意味がなく、他の簡単な方法で代替できるという儀式は、不要で削る対象にするのがよいということだ。
 
(1)始業式・終業式
 日本の学校の新学期は、始業式から始まり、終業式で終わる。そして、始業式や終業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式や終業式はない。何故、始業式や終業式を学校全体の集会として行うのだろうか。入学式や卒業式は、その学年全体に関わることであり、また新しい生徒を迎え、次の段階に進む生徒を送り出すという意味がある。

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ポーランドにロシアがミサイル 補充と訂正

 当初ロシアのミサイルがポーランドに着弾したという報道に基づいて文章を書いたが、まだ確定ではないが、その後、ロシアのミサイルを迎撃しようとしたウクライナの発射した迎撃ミサイルのようだ、という報道に変化してきた。「ウクライナ迎撃ミサイルが着弾と米大統領、NATOは緊急会合開催」
 アメリカの分析による発表なので、かなり信憑性はあるが、しかし、いくつか疑問は残る。
 別の報道によると、使われたのがロシア製のS300という迎撃ミサイルであるというのだ。ウクライナはロシア製の兵器をたくさん使っているから、そのこと自体は不思議ではないが、もしそうだとしたら、ロシア製武器の精度が低いことが示されている。また、ロシアによるミサイル攻撃が激化しているので、迎撃システムを急遽ウクライナに支援したはずであるが、それが不十分だったということにもなる。欧米の優秀な迎撃システムなら、そのようなミスはなかったに違いない。
 また、もう一つの疑問として、ロシアから発射されたものではないというのだから、可能性としてはベラルーシということになる。すると、ベラルーシは既にロシアにかなり強力の度合いを高めていることになる。しかし、ベラルーシはロシア軍の駐留は認め、また、演習は一緒にやるとしても、直接的な攻撃援助をしていないとされていた。
 まだ確定ではないが、いずれにせよ、最も責められるべきは、誤射したウクライナではなく、不当なミサイル攻撃、それも民間施設への大規模な攻撃したロシアである。だが、もし、ウクライナによる迎撃失敗だったとしたら、ゼレンスキーはそれを素直に認めて、謝罪しなければ、今後の支援に悪影響を及ぼすだろう。

ポーランドにロシアのミサイル

 各紙にロシアのミサイルがポーランドに着弾し、二人が死亡したと報じられている。一番初めにみた記事が、ゼレンスキーの報告だったので、ゼレンスキーがNATOを引き込む発言かと思ったが、いろいろとみていると、たくさんの記事が出ているし、バイデンがポーランド支援を明言したというので、事実なのだろう。ロシアは例によってとぼけているが、状況からみれば、ロシア以外にミサイルをポーランドに打ち込む国はありえない。ウクライナ全土に100発のミサイルを打ち込んだというので、そのうちの一発が、誤ってポーランドに着弾したのだろう。ロシアがポーランドを攻撃することは、現時点では考えられないし、その危険性はわかっているはずだ。
 このことでわかるのは、ロシアは確かに精密誘導できるミサイルが枯渇しているらしいということだ。精密誘導可能なら、ウクライナの国境を超えて、隣国ポーランドに撃ち込むなどということは起きるはずがない。かなりロシアとしては、慌てているのではないだろうか。

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再論 学校教育から何を削るか2 運動会と合唱祭

 学校教育から何を削るかというテーマで、最初に思いつくのは、「運動会」であり、その関連で「合唱祭」である。いずれも「競争」を軸とした全員参加の学校行事である。だから、削る「基準」に完全に合致している。
 学校の教師や教師志望者たちは、ほとんどが学校教育での勝者、あるいは、学校時代によい思い出をもっている人たちだから、最も重要視される行事の運動会を削る対象としてあげられると、「えっ?」と言う人がほとんどだ。大学での授業で、運動会の必要性を議論しても、多くが当然あるべきものという見解を示す。
 しかし、実は、運動会こそ最も嫌な思い出だという人も、少なくないのだ。徒競走をやれば、確実にビリの子どもがでる。いつもビリになる子どもにとっては、運動会は悪夢でしかない。だからといって、そうした不快な思いをする子どもたちがいるから、運動会を廃止したほうがいいと言いたいわけではない。多くの弊害があるからだ。

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再論 学校教育から何を削るか1 基準

 以前「学校教育から何を削るか」というシリーズで約20本の文章を書いた。それをまとめてKindle本にしようかと思っていたのだが、まだまだ内容が不十分な部分があり、延ばし延ばしになっていた。そして、もう一度、ひとつひとつ書き直して、まとめようという気になっていたところ、昨日の文章で書いたように、定年問題が進行していることもきっかけに、歩みだそうと決意した。前回書いた部分の書き直しなので、重なる部分があることをお断りしておきたい。
 現在の公立小中学校がブラック職場となり、教師たちが過重労働に苦しんでいること、そして、その結果として毎年大量の離職者、休職者がいることは、広く知られるようになっている。どうしたらいいのか、多くの人が論じているが、徹底的な改革が必要である。そして、その改革の前提として、今やっていることのなかで、教育上絶対に必要なことと、なくしてもいいことを大胆に区分して、不要なことを削っていくことが大事であると、私はずっと考えている。もちろん、絶対に必要なことの多くは、大部分の人が共通にそう認識していると思われるが、不要だという部分は、賛否両論あるだろう。私が、これから、提起する「不要」な教育については、従って、異論もたくさんあるだろうし、そこにこそ教師としての生き甲斐を感じている人も少なくないことは、了解している。だから、それぞれの学校や地域で、共通に不要と思われることを削って、教師や子どもの負担を軽減していけばよい。ここではその道筋をつけたいと思っている。だから、私が不要と思うことを、かなり広くとって、問題提起したいということだ。

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教師の定年65歳にという問題

 教師をしている人から、教師の定年が65歳になったが、自分はとてもそんな年齢まで教師を続ける気になれない、絶対にやめてやるという話を聞かされた。もちろん、まだ65歳になったわけではなく、これから段階的になっていくという話だが、その人はまだ30代だから、自分にとっては定年が65歳だ、ということだろう。私の予想では、30年後のことだから、定年などという制度がなくなっているかも知れないとは思うのだが、たしかに65歳定年は確実にみえている。
 当然様々な議論がある。特に現在の小中学校は、ブラック職場としての評価が定着してしまい、教師志望者自体が減少しているから、単に、高齢者福祉だけではなく、教師自体の確保という点でも、定年延長は喫緊の課題なのである。年金受給年齢の引き上げの関係から、定年後の再雇用も、希望すればほぼ確実に再雇用されるようになっているのは、教師不足もあるからだ。

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村田兆治氏 一連の事態で感じること

 元プロ野球投手の村田兆治氏の羽田空港での事件と、その後の自宅の火事による死亡とが、短期間に起こったので、驚きの連続だった。村田氏は団塊の世代で、私と同じだ。だから、ずっと同じ時期に生きてきたことになる。もちろん、現役時代のこともよく知っている。子どものころは実際に球場に見にいったが、大学入学後は、滅多にいかなくなったので、実戦での投球をみたことはない。しかし、その活躍は誰もが知るところだし、引退後もOBによる親善試合で、140キロをだしたことがずいぶんと話題にもなった。私自身、中年になってチェロをはじめ、どこまでやれるかという挑戦をしているので、村田氏の姿勢は、とても励みになっていたのも事実だ。

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