教育行政学ノート(2)子どもは何故学校にいくのか

 教育行政学は、通常、義務教育、あるいは「教育権」から入る。しかし、教育学としての教育行政学の構想のために、もうひとつ前の問いから入ろう。義務教育とか、教育権という概念は、やはり、教育の外からみている、あるいは外部的存在である。そこで、問いは次のようになる。

Q 我々は、子どもたちは、何故学校に行くのか? 現在の大きな学校教育上の問題である「不登校」を考察するとき、「何故学校に行かないのか」「何故学校に行けないのか」という問いをたてて、答えを見いだそうとする。しかし、不登校は、通常前の段階とて登校していた事実がある。学校に行っていたのに、行かなくなる、あるいは行けなくなるわけである。したがって、まずは、学校に行っていた時期の「行っていた理由」をきちんと理解しておくことが必要だろう。不登校は、その「学校に行っていた理由」が揺らいだ、あるいは消えてしまったが、その原因であると考えられる。

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イギリスの若者がメンタルヘルスの改善を求めて活動

 イギリスの10代の若者たちが、グループを作って、メンタル・ヘルスを必要としている若者へのサポートを、確実に実行させるための働きかけをしたという記事の紹介です。Mental health The students who helped themselves when support was too slow comingというThe Guardian2019.2.12の記事で、作者はLouise Tickleです。

 イギリス全土かどうかはわかりませんが、ここで紹介されている地域は、Cumbriaという地方で、元々医療・福祉体制が遅れていると思われます。イギリスに限らず、先進国のほとんどでは、若者たちは、試験競争にさらされ、常に誰かと比較され、いい評価をえないと上級への進学に不利になり、人生そのものがやりにくくなるというストレスをかかえながら生きることを余儀なくされます。もちろん、そのことによって、誰もが精神的な疾患をかかえるわけではありませんが、どこでもサポートを必要とする若者が増加しています。それだけではなく、この記事では、治療を申請したのに、ウェイティング・リストに載せられて、3カ月も待たされ、そのうちに、すっかり参ってしまった若者が紹介されています。彼女はそのために学校にいくことができなくなりました。いろいろなことを真剣に受けとめながら生活していれば、誰でもそうした危機に陥る危険があると、彼女は述べています。

 そんななかで、何人かの若者が集まって、We Willというグループを作り、精神的な問題を抱えている若者に、サポートをするように働きかける活動を始めます。集会を開き、そこで強調されたことは、今の若者が生きている世の中は、古い世代が若者だったときとは違うのだ、ということです。まずは試験の圧力、そして、ソーシャル・メディアの中毒的な関わりからくるストレスです。

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クラウディオ・アバドのボックス

 2014年になくなったアバドは、現代最高の指揮者の一人であったし、私のもっとも好きな指揮者の一人だった。自分で勝った初めてのオペラのレコードが、アバドの「セビリアの理髪師」だったが、すべてとはいえないが、かなりのCDを所有している。交響曲ボックス、オペラボックス、ソニーのボックス、そしてDVDボックス(25枚組)である。新しく購入したオペラボックスとDVDボックスについて、感想を書いておきたい。

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空き家のようになってしまいましたが

私も本当は定年の年齢になりました。尤も、教員免許の課程申請の関係で、もう一年勤めなければならないことになったのですが、いよいよ定年後にむけて、どのように活動していくかを、真剣に考えなければならないようになりました。そこで、ひとつが、ブログを再開しようかと思っています。もちろん、もうひとつ、主要なブログをもっていて、そちらで普段は活動しているのですが、定年後は、違う形での情報発信をしていこうと考えており、それには、wordpressを使うのがいいようなので、少しここで肩慣らしをしようと考えたわけです。

夏休みに行ったこと「他国の教育・特別活動についてーフィンランドー」

Ⅰはじめに

学校の教育の現場において特別活動は、「よりよい人間関係の形成」を育てる授業としてなくてはならない教科の一つであると言える。また、その内容が道徳と結びついている。特別活動と道徳が深く密接している点として、「総合的な学習の時間及び特別活動における道徳教育と密接に関連を図りながら、計画的、発展的な指導によってこれを補充、深化、総合し、道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め、道徳的実践力を育成するもの」という目標からも見られる。つまり日本においては、道徳の時間などに、資料や読み物を通して考えてたり話し合ったりしたことを、特別活動の学級活動や集団活動で実践して振り返り、「なすことにより学ぶ」道筋が成り立っていることがわかる。

では、外国ではこのような特別活動・道徳の取り組み、指導方法はどういったものだろうか。日本を基準として示唆していこうと考える。

 

Ⅱ研究内容

主に、教育の先進国といえる「フィンランド」に注目し、日本の特別活動の目標や内容などを比較、考察する。

なお、上記に挙げたフィンランドは「OECD学習到達度調査(PISA)」という国際的な生徒の学習到達度調査のことで、主に「数学的リテラシー」「読解力」「科学的リテラシー」によるテストの結果が平均的に高かったため、取り上げることとした。

日本におけるPISAの順位は2012年度において「数学的リテラシー」…7位、「読解力」…4位、「科学的リテラシー」…4位であった。

 

Ⅲ研究結果

まず、フィンランドの国を挙げての教育に対する考え方に注目する。フィンランドは7歳〜16歳までが義務教育であり、授業料、通学時の交通機関、給食、教科書や学用品等が全て無償化されている。また、学級は20人以下でPISAを実施した国々の中で最も年間の授業数が少ない。すべての教師を大学院で養成し修士号取得を義務とし優秀な人材が集まるため、社会的地位・信頼が高い。このように大学院での教師を専門とした養成をおこなっているのはヨーロッパの中でフィンランドのみである。

教育の理念としては、「社会主義的学習概念」をあげている。つまり、知識を教え込むのみならず、その知識を自分のものとし、社会進出時にどのように生かすか、使いこなせるか、自ら追求していく教育を行っていることが考えられる。

結果的に述べると、フィンランドには「特別活動」という授業は存在しない。しかし、「アヤトゥス・カルタ」という「マインドマップ形式」のノート手法が国語の授業で取り上げられていた。マインドマップ形式とは、連想ゲームのようにあるメインテーマから考えられる事柄を次々と地図のように書き足していく脳の思考を引き出す技法である。これにより、思考が整理され、記憶力が高まることはもちろん、「発想力」「論理力」「表現力」「批判的思考力」「コミュニケーション力」が飛躍的に向上するという。このマインドマップにより、子供達の「道徳的価値」が養われているのではないかと感じた。

 

Ⅳまとめ

今回はフィンランドに注目したが「特別活動」における資料が僅少であり、まだまだ研究の余地があった。しかし、教育に対する理念や考え方などを知るきっかけにもなり、多くの学びがあった。さらにフィンランドの教育について研究していくとともに、他国における「特別活動」の指導法についても取り上げていきたいと考える。

 

Ⅴ引用文献

阿部 敬信(2015),「小学校の教育課程における特別活動の意義と課題」別府大学短期大学部紀要

秋山 麗子(2014),「特別活動を中心にした小学校の学級集団形成に関する研究」関西学院大学教育学論究

トニー・ブザン著・近田美季子監訳(2008),「マインドマップ超入門」ディスカバー・トゥィワン

藤村宜之、鈴木豪(2015)「フィンランドの児童の思考に影響を及ぼす環境要因の検討 : フィンランドの教師の授業観の分析」東京大学大学院教育学研究科紀要

米澤 利明(2010)「求められる学力と教員養成―フィンランドとの比較を通して―」教育デザイン研究

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/detail/1344310.htm

https://www.tfu.ac.jp/liaison/edu/navi_PDF/navi06-03.pdf

http://www.ne.jp/asahi/harmas/biocosmos/finland.html

春学期行ったこと「特別活動について」

「環境としての人間」というゼミテーマのもと、「学級・授業」というグループ内で研究を進めることにした。

ゼミ開始当初は、児童ひとりひとりの能力の差が激しく現れる「体育」や、近年苦手意識が高い児童が多いとされる「理科」などといった教科に注目し、「授業の良し悪し(環境)により、子供一人一人の能力向上にどのような変化があるのか」、「子供一人一人が持っている能力の最大限を引き出すために、教師はどのような授業を行っていくべきか」を研究テーマとして掲げた。

そこで「学級・授業」グループにおいて、上記に挙げた「能力の上がる授業作り」について議論を行った。その結果から、それぞれの教科で「苦手」という意識を持たせないことが大切であり、児童が興味を持つような授業を行っていく必要があると考えた。そのためには「クラスには得意な子と苦手な子の差」があるということを把握し、クラスを幅広く見渡しながら授業を進めなければならないことを再認識し、まずは児童ひとりひとりの個性や能力を理解するべく「クラスの学級づくり」に目を向けた。

学校にいる間のほとんどの時間を占める授業は常に子供との意思疎通で成り立つ。その授業を充実させるために、子供同士の人間関係、グループ性を把握しきれていれば、アドバイスやよい計らいを促すことができる。また、困ったことがあればよき理解者にもなれる。クラス全体を見渡し、顔色の変化、子供達どうしの歪を見逃さないようにすれば、いじめも防ぐことができると考えられる。

このように日々担任としてクラスを見ていく中では、多くの発見がある。同時に、担任として児童を正さねばならない場面に遭遇することも少なくない。このように、学校や学級における問題改善のための基盤としての生徒指導の場が「特別活動」の場であるのではないかと考えた。

 

特別活動とは、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の教育課程に設けられた領域の一つであり、学校教育法施行規則第50条においては「小学校の教育課程は、国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭及び体育の各教科、道徳、外国語活動、総合的な学習の時間並びに特別活動によって編成するものである」と定められている。特別活動は、各教科に肩を並べ、小学校の教育課程を編成する大きな役割があり、重要な教育であることが分かる。

特別活動の主な目標は、「望ましい集団活動を通して、自主的・実践的な態度を育成するとともに、自己の生き方を深め、自己を生かす能力を養うこと」と学習指導要領にはある。

しかし、特別活動には、「学習指導要領において学習活動の内容の指示だけにとどまり、子供達自身の能力目標があいまいであること」「指導にあたっての教科書がない」といったことが課題として指摘されている。また、「授業計画が学級担任の裁量に任されているため、各教科の時間確保が優先される」ことも問題とされている。

「子供の成長に役立つような、よりよい人間関係を構築するための特別活動のあり方」「教師は各教科の指導力のみではく、特別活動の役割を踏まえ授業をどのように組み立てていくべきか」をテーマに研究を進める。その根本的な知識として特別活動のそれぞれの区分、「学級活動」「児童会活動」「クラブ活動」「学校行事」における目標と内容を以下にまとめる。

 

学級活動は、「学級活動を通して,望ましい人間関係を形成し,集団の一員として学級や学校におけるよりよい生活づくりに参画し,諸問題を解決しようとする自主的,実践的な態度や健全な生活態度を育てる。」ことを目標としている。内容は学級を単位とし、仲間同士で協力・信頼し合い、豊かな学校生活を送るとともに、日常の生活や学習に自主的に取り組もうとする態度の向上に資する活動を行うことである。

児童会活動は、「児童会活動を通して,望ましい人間関係を形成し,集団の一員としてよりよい学校生活づくりに参画し,協力して諸問題を解決しようとする自主的,実践的な態度を育てる。」ことを目標としている。内容は学校の全児童をもって組織する児童会において,学校生活の充実と向上を図る活動を行うこととされる。

クラブ活動は「クラブ活動を通して,望ましい人間関係を形成し,個性の伸長を図り,集団の一員として協力してよりよいクラブづくりに参画しようとする自主的,実践的な態度を育てる。」ことを目標としている。その内容は、学年や学級の所属を離れ,主に第4学年以上の同好の児童をもって組織するクラブにおいて,異年齢集団の交流を深め,共通の興味・関心を追求する活動を行うことである。

学校行事は「学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てる。」という目標が掲げられている。内容としては、全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこととされる(文部科学省ホームページより一部参照)。

特に、「人間関係」の形成を図るために指導していかなければならない「学級活動」においては、「学級活動で学んだことを各教科等や朝の会等の他の教育活動で定着を図ること」「学級活動の授業の終末における振り返りの充実」「学級活動の授業に対して児童が意欲的に取り組めるように学級集団の状態に応じた工夫を行うこと」が重要な点として挙げられる。

 

以上が春学期期間で学習した結果である。

【環境としての人間】「スクールカースト」~夏休み行ったこと~

この夏休みは春学期の続きとして「スクールカースト」をいかにしたらなくすことができるかを出発点として始めた。

どうしたらなくせるのか考えるにあたって私は、スクールカーストの根本にある各個人の値踏みの思考(この人間はこの程度の人間だろうから私のほうが高い、あるいは低いと思考)が「どうして無意識のうちに人間間で行われてしまうのか」を解明しないと示しがつかないのではないかという見地に至った。

そこで、太田先生の勧めもあり、中根千枝さん著の「タテ社会の人間関係~単一社会の理論~」も研究文献に加えることにした。

なぜ人は無意識のうちに値踏みを行い、人間間で優劣関係を見出そうとするのか。簡単に言ってしまえば、現在の日本社会が序列主義を重んじて成長してきた経緯があるからだと推測できよう。終身雇用、そして人間平等主義が蔓延する中で人は必ず順序の中で自分の社会的地位を気にしながら育ってきたとされる。例えば、会社の役職や給料は能力の高いものから充てられるので序列にしたがったものである。つまり、“できる”人間が偉いポストにつき、いい給与を得る。逆に“できない”人間は序列関係では下なのである。しかし、必ずしもそうでない場合も多々あるが、一般的な傾向はそうである。

しかし、現在はハイパーメリトクラシーの時代であり様々な能力が求められるようになった。文部科学省が推奨する「生きる力」の育成なんかもこうした流れを受けていると考えられる。また今はこれといって何かしていればいいという正しい生き方もなく、序列に対する意識が戦後と比べて変わってきたのは確かである。

しかし、序列の構図が少なからず、今現在の社会に根強く残っていることは否定できないだろう。スクールカーストの背景にはこうした序列の構図があり、学校「スクール」に浸透してきたということであると推測できる。だとすると、この社会で生きる人間は値踏みという行為を必然的に行ってしまうのではないかと考えられる。また、なぜ今になってスクールにこうした序列構図が浸透してきたのかという疑問もある。

 

このように考えると、スクールカーストのような状況が叫ばれるようになったのは必然的であるとも考えられる。よって私は社会の在り方を変えることを前提にしなければ、スクールカーストをなくすということは難しいという見解に至った。

 

といってもスクールカーストがいじめの温床になっていること、それに加え、各個人の将来性が左右されてしまう現状があるのである。この現状を「しかたない、そういうものだ」として手を打たないのは学校教育を考える上では望ましいことではないだろう。

したがって私はスクールカーストをなくすことは現実的に難しいとしても緩和することは出来ないかを模索したい。

そこで緩和策として太田先生からお借りした津田 八洲男さん著の「5組の旗」という本を研究文献の一つに加えた。この本は生活綴り方教育として津田さんが行った教育とその学級記録が鮮明に載っている。生活を綴らせることで自分の気持ちを改めさせるということである。また、相手の様子を綴ることによって相手に対する思いやりの気持ちを深め、絆ある学級にしたという。こうした試みがスクールカーストの緩和につながるのではないかと推測したい。

スクールカーストというと、どうしても人をマイナスの面で捉えたり、人に対しての偏見や上辺だけでの関係が多いのではないかと思う。

こうなってしまった要因の一つには電子機器の急速な発展を受け、文字を書くことが減ってしまったということが考えられないだろうか。

つまり、スクールカーストのような状況が問題視される以前の状況に比べて、相手のことを思いやり、生活にその様子を綴るという事が減ってしまったのではないかという事である。

こうした視点を夏休み期間に得られることが出来た。秋学期のインタビューでは生活で綴ることがスクールカースト緩和に繋がるのかどうかを文献やインタビューを通して研究を進めていきたい。

 

また、この夏休みには大学生だけでなく大学教員の方にもインタビューすることが出来た。その先生とのインタビューの中で新たなヒントを得ることが出来た。

 

○インタビュー内容

・先生の学生時代スクールカーストと呼ばれる現象はありましたか?

・はい、ありましたよ。比較的に偏差値は高いところでしたが、当時高校では先生や周りからちやほやされている人気者がいました。人気者の発言には重みがあり、皆は否応なく聞き入れましたね、僕は嫌だと感じませんでしたが、中には嫌だと感じる人はいたかっもしれませんね。

・スクールカーストはやはり望ましいことではないと先生もお考えになっているようですがどうしたらなくすことが出来ると思いますか。

・完全になくすというのは難しいと思いますよ。それこそ学校でのクラス制を廃止するとか思い切ったことをしなくてはならないとおもいます。中学や高校から単位制の導入をしてクラス単位でも行動を減らすというのも一つの手かもしれませんね。ただし、クラス制廃止が果たして本当に良いことなのか否かは別に問われる問題かと思います。僕個人としての考えはスクールカーストという権力構図を上手い具合に活用すれば少しは和らぐのではないかと思います。

・具体的にはどういうことですか。

・例えば、数学の得意な子がいたら、数学の時間はその子が輝けるように、みんなが各個人の得意分野を理解し合えるような関係を作るという事です。理科の時間でしたら、理科博士はあの子だというような感じです。

・なるほど、各々の長所が共有できるクラスを作ることは大事な視点かもしれませんね。ありがとうございます。

・ですが、それでも外見や雰囲気でなんとなく判断してしまうのは子どもなら多いと思います。完全になくすことは子どもの価値観を変えていくことが大事なのかもしれませんね。

 

 

といったようなインタビュー内容であった。このようにスクールカーストを緩和する策として糸口が開けた気がする。

秋学期からクラス運営にも視点をもって大学生にインタビューしていきたい。そして秋学期からは補助教員ボランティアが始まるので補助教先の学校の先生方にもインタビューをしたいと考えている。

夏休み行ったことは以上です。

 

 

 

 

夏休み中に進めたこと 子どもの遊び 「遊びとは何か」 遊びの分類

・夏休みに進めたこと

まずは「遊び」とは何かということについて考えることにした。はじめに、遊びの定義を唱えているとして有名な、ホイジンガとカイヨワの学説を整理してみた。

ヨハン・ホイジンガは、著書の『ホモ・ルーデンス』の中で、「遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは『日常生活』とは『別のもの』をという意識に裏づけられている。」と述べている。

一方でロジェ・カイヨワも、その著書である『遊びと人間』において、ヨハン・ホイジンガとほぼ同様に、遊びについて以下の6つの特徴を挙げている。

1.自由な活動;すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。

2. 隔離された活動;あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。

3.未確定の活動;ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者側に残されていなくてはならない。

4.非生産的活動;財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。

5.規則のある活動;約束事に従う活動。この約束事は通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。

6.虚構の活動;日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

ホイジンガの定義からは、遊びはやはり特定の時間、空間の範囲内で行われるということ、自発的な行為であること、遊びの中には規則があるということ、遊びの目的は行為そのものにあり、緊張と歓びの感情を伴うということがわかる。カイヨワの定義からは、自由・隔離・未確定・非生産的・規則的・虚構という特徴を示していることがわかる。カイヨワが挙げている6つの特徴のうち、自由と未確定・隔離・規則的・虚構の5つはホイジンガの定義とも一致する点があり、残りの非生産的という条件はカイヨワが新たに述べたものであるとわかった。

次に、遊びの種類・分類について考えた。ホイジンガは、遊びを競争と演技(表現)に分けたことに対し、カイヨワはアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(めまい)の4つに分類した。ホイジンガについて、競争とはかけっこや球技遊全般を指し、演技(表現)とは工作やダンス、楽器演奏などを指す。カイヨワは、それに付け加えるように分類を増やしている。アゴン(競争)は取っ組み合いやかけっこ・おにごっこ、剣玉・こま回し・お手玉・腕相撲、サッカー、野球、バスケなどの球技、将棋、チェス、囲碁などのボードゲームを指す。アレア(運)は、じゃんけん、すごろく、パチンコ、宝くじなどを指す。ミミクリ(模擬)は、まねっこ遊びを指し、ままごと・学校ごっこ、人形遊び、仮面・仮装・演劇などが含まれる。イリンクス(めまい)は、ぐるぐるまい、ブランコ、シーソー、メリーゴーランド、ダンス、スキー、スケート、バイクなどを指す。なお、実際の遊びでは、少なからず要素の複合がありうるとしている。例えばトランプ、麻雀などはアゴンとアレアの2つの側面があるということである。また現代社会では、イリンクスとミミクリは徐々に減退させ、アゴンとアレアの要素を優先させる必要があるとしている。それは、現代の社会が競争と運で動く社会であるからだ。さらにカイヨワは、遊びの発達水準の観点から、パイディア(即興的で気まぐれな遊び)とルドゥス(秩序の明確な遊び)の二極を設けた。これによると、カイヨワの4つの分類の1つ1つが、さらにこのパイディアとルドゥスに分けられる。

パイディア             ルドゥス
アゴン   けんか、取っ組み合い        サッカー・野球
アレア    (存在しない?)            パチンコ
ミミクリ  ごっこ遊び・演劇          工作・組み立て遊び
イリンクス   サーカス            (存在しない?)

そのほかに遊びを分類する基準として考えられるのは、遊びをする人数、空間、性別などであると考えられる。人数による分類は、一人遊び、平行遊び、役割遊び、集団遊びなどである。空間による分類は、外遊び、室内遊び、辻遊びである。性別による分類としては、例えば女の子が好きな遊びはおはじきやお手玉、男の子が好きな遊びはこま回しなどに分類される。しかし、これらの分類はどれも年齢が関係しているおり、年齢による変化も考慮する必要があると考えられる。

※平行遊び・・・同じ場所で同じ遊びをしていながらも、相互のかかわりを持たない状況のこと
※辻遊び・・・若者が夜、外に出て遊ぶこと

次に、ビューラー、パーテン、ピアジェによる遊びの分類について見ていきたい。まず、カール・ビューラーは遊びを、機能遊戯・想像遊戯・受容遊戯・構成遊戯の4つに分類した。

ビューラーの4分類
機能遊戯   感覚遊び、運動遊び
想像遊戯   ママゴト、ごっこ遊び
受容遊戯   絵本を読む、音楽を聴く、おとぎ話を聞く
構成遊戯   積み木、砂遊び、描画

機能遊戯とは、感覚遊びや運動遊びを指す。手や足で物に触れた時の重量感や平衡感覚、質感などの様々な感覚を楽しむものや、走る、飛ぶ、つかむなどのように自分の体の機能を使って楽しむものである。日本の幼稚園や小学校では、室内の遊具よりも園庭・校庭遊具が充実しているというスタイルが多いが、どちらも子どもの成長には重要であり、感覚遊びでは小さな筋肉(手先の器用さ)を、運動遊びでは大きな筋肉をバランスよく育むことができると考えられる。想像遊戯は、いわゆるごっこ遊びを指す。ごっこ遊びとはすなわち、ロールプレイであるため自分以外の人物や動物などのほかの生き物、物などの気持ちを理解することにつながると考えられる。特に子どもが、自分の親や様々な職業人といった役割を演じ、他人を疑似体験することによって自分とは別の視点で見方を理解しにつながる。また、友人や家族と一緒にごっこ遊びをすると、リアルな人間関係を通じて他人と玩具を分け合ったり、自分の要望を相手に伝えたり、逆に他人の要望を理解して優先させてあげたりするといった高度な社会性を育むことができ、コミュニケーション能力や問題解決能力の向上にもつながると考えられる。受容遊戯は手足や全身を使って積極的に遊ぶのではなく、絵本やテレビを見る、話しや音楽を聴くなど、受け身的なの遊びを指す。この遊びは、子どもの間接経験が豊かになり、自然に知識を身につけるという効果があると考えられる。構成遊戯とは、 何かを作る、組み立てる、壊すといった遊び指す。いろいろなものを組み立てたり、作り出したりするところに楽しみを感じ、積み木、絵をかく、ねんど細工、折り紙などの遊びを通し、創造的能力を養うことが出来ると考えられる。

ミルドレッド・パーテンは、子どもの遊びを専念しない行動、傍観者遊び、ひとり遊び、平行遊び、連合遊び、協同遊びというように、社会的参加度に着目して遊びを分類している。

パーテンの6分類
専念しない行動   何もせずにぶらぶらしている状態。ぼーっとしている状態。
傍観者遊び   他の子供の遊びを見ているだけの傍観の状態。観察する状態。
ひとり遊び   友だちと関わらずに一人だけで遊ぶ状態。
平行遊び   他の子供のそばで、友だちと関わらないが、友だちと同じように遊ぶ状態。互いがかかわり合わない。
連合遊び   他の子供とおもちゃのやりとりをして、同じようなおもちゃで遊ぶ状態。
協同遊び   共通の目標に向けて仲間関係が組織され、役割をそれぞれが持っている状態。力や知恵を合わせて協力をする。

そしてジャン・ピアジェは、認知発達理論に基づいて子どもの遊びを、実践的な遊び、シンボル的な遊び、規則遊びの3つに分類し、発達段階の中で順序に従った出現の仕方をすることを指摘した。

ピアジェの3分類
感覚運動遊び(実践的遊び)   感覚や運動の機能を働かせること自体に喜びを見出す。(感覚運動期)
象徴遊び(シンボル的な遊び)   現実を離れた想像による遊び。ごっこ遊び、空想遊び、模倣遊びなど。(前操作期)
規則遊び   ルールのある遊びで、社会的遊びである。(具体的操作期以降) 競争遊びへの発展。象徴遊びと違い、必然的に社会的あるいは相互個人的関係を意味する。

 

参考文献

深谷昌志・深谷和子 『遊びと勉強 子どもはどう変わったか』 1976 中央公論社
深谷昌志・深谷和子 『子ども世界の遊びと流行』 1990 大日本図書

 

・インタビューについて

当初は夏休み中に遊びに関するインタビューを行うはずだった。しかし、春学期に行っていた調査について見方を修正しなければならなくなったため、それに応じてインタビューで何を調査すべきかを再度考え直したのだが、現時点ではインタビュー内容を決定するまでに至らなかった。よって、夏休み中はインタビューをしなかったので、もう少し研究を進め、再度内容を吟味してから改めてインタビューを行いたい。

学級における問題解決について

義務教育期間において何事も不安が無く、一切悩みや葛藤を抱えずに9年間を終えた人物は極めて少数派である。

学級経営において不安や問題を抱える生徒が現れるのは間違いない。そしてそれらは花瓶

を割ってしまったり、プリントを破いてしまったなどの、後々思い返せば気に留めるまでもなかったようなその場で解決するものもあれば、いじめや不登校などの複雑な人間関係や生徒自身の葛藤の中で生まれる深刻なケースのものなど学校生活において悩みの種は各所に発生する。その数は各年度の文部科学省調べの『長期欠席児童数:小中学校』から明らかにすることが出来る。平成25年度時点で、前年度比で約7千人の増加(小学校約2万4千人…約3千人増加:中学校約9万5千人…約4千人増加)が見られるあたり生徒が抱える問題をどうせ前者であろうと楽観的に見ることができる状況でないことがわかる。

そしてそれらは学校生活外の習い事や家庭での時間といった教師の目が行き届かない生活部分においても例外ではなく、受験を控えている場合などによってはそちらの方がより大きな問題の原因となることがある。

更に、心身ともに著しい発達を遂げる義務教育期間の子どもはその学年、年齢によって抱える問題にも違いが出てくるものであると考えられる。

それらの問題の中には放っておけば解決するものもあるのかもしれないが、最近では2011年の大津いじめ事件を始め、生徒の異変を察知していても放置していたために取り返しのつかない大事件になってしまった事例が増えている。

当然学校教育の問題だけが原因ではなく、都市化現象による過疎・過密の問題(人口流動の社会現象の引き起こす問題)、高度経済成長期に生み出された公害問題、政・官・業界における多発化した収賄・賄賂事件にみる腐敗問題、公務員の社会責任の低落化、労働組合の官僚化による労働争議の低次元化や労使の癒着化による抗菌処理問題、日本の思想界・言論界の混迷と脱落(レッド=パージ以後のマルクス・レーニン主義思想の復活に伴う大学教授の左翼思想の展開)、個人主義の崇拝、社会規範の崩壊、欧米の文化的植民地化の温存と存続など挙げはじめればきりがない社会問題も関わってくる。

たとえば、アメリカの教育政策と非常に似ているもの(昭和43年の学習指導要領改訂<「教育の近代化」>、小学校の算数科に導入された集合論・確率論は数年後に除去される)、知識偏重教育の否定からの「ゆとり教育」への転換、経験学習・体験学習を重視する教育への転換政策での「総合学習・横断学習」の導入(これはイギリスのクロスカリキュラムに酷似している)、いじめ問題、不登校問題、青少年の犯罪の凶悪化(ネット社会での新たな犯罪)、家庭内いじめ・虐待問題、家庭教育の問題(母子家庭・父子家庭の増加)、モンスター・ペアレントの問題などは、現在の学校はまさに複合化された社会問題までも背負わされ、『学校は機能不全に陥っている』と評されるほどに子どもの学びの本質の喪失化に歯止めのかけようのない様相を呈している。

学校は子どもにとって『楽しく、ともに学習する場所である』という考え方は戦後教育のなかで「いつ頃まで」だったのか。このような素朴な疑問を抱かざるを得ない問題が学校でこれまで起きてきたし、今もなお起きている。1968年、戦後23年が経過する中で高等教育機関にてそれまで起こらなかった異変が生じる。それは、1968年1月29日に起きた東京大学学生自治会が医師法改正に反対して無期限ストライキに突入するという事件である。同年4月15日には日本大学で20億円の使途不明金の発表で、日本大学の紛争が起こり、9月30日には日本大学全学年共闘会議系1万人により当時の会長と団体交渉となった。その後、大学紛争事件が多発していく歴史的環境はまさに戦後の日本の大学教育を根幹から揺るがすことになり、昭和46年の中央集権審議会の「四六問答」の中には大学自治に関して強硬な管理運営体制に関する事項がある。大学問題を含め、昭和40年代の公害訴訟運動、学生運動、春闘と呼ばれる労働争議から発展するストライキ、市民運動等は、公権力や国家権力へ戦いであったのではないかと想定される。しかしながら、小・中・高校の教育は高度経済成長によって生み出された学歴社会を是とする社会環境の下で、受験学力育成の教育システム化を背負うことになる。そのことを証明する顕著な例は昭和43年度の学習指導要領の改訂と高等学校への進学率の増加現象である。この改訂は『その後の学校教育を根底から崩壊させる大きな原因の一つとなり、高校進学率の上昇は高校教員の確保の問題、学級定員数の増加、開放制教員養成の大学教員の資質・能力の問題(大学の乱立)、高校教員の資質・能力の低下呼び込むことになる。』1)としている。つまり、学校教育が根底から揺さぶられ、先述の問題の原因が発生するに十分な条件を整えてしまったということである。学校教育の問題は社会的要因によって引き起こされるという、それも特に文部省の教員養成機関に対する管理監督行政の脆弱性に尽きると言える。つまり、開放制教員養成機関における中学校・高等学校の教員免許取得制度を占領政策下で樹立されたままでの時代環境の産物として後生大事にしてきたことに危機感を感じ得ないレベルで推移していたということである。

昭和40年代の教育的病理現象としての学校内暴力事件や家庭内暴力事件が多発して「教育荒廃」という言葉が生み出され、戦後の学校教育史上、学校不信・教育不信は大きな社会問題としてクローズアップされた時代から、大同小異で教育問題はくすぶり続けてきている。その最たる教育問題は学力問題といじめ問題であり、この問題は実は車の両輪と言える種々の係わりがあることを認識しなければならない。学力問題もいじめ問題も教育病理現象の最たる現象であると考える。たとえば、学力問題は排除化の論理・差別化の論理・疎外化の論理等を内包性があるとも考えられる。

かつて、教育病理について、『学校の病理とは』というテーマで、広島大学教授・新堀通也が以下のように論考している。

『今日の教育、中でも学校が数多くの病理をかかえ、すべての関係者を苦悩に陥れていることは言うまでもない。落ちこぼれ、学校ぎらい、勉強ぎらい、無気力、登校拒否、エスケープ、家出、自殺、器物破損、校内暴力、いじめっ子、番長グループなど、思いつくまま挙げてもほとんど際限がない。これらの病状がいかに広範かつ深刻になっているかは、警察の統計や官庁の白書、研究報告やルポタージュ、新聞の記事などを読めば直に明らかだし、学校、児童相談所、警察、スーパーなどの関係者は日ごろこうした教育上の病人を絶えず観察し、その対応に頭を痛めている。』

これらの教育病理の激化はすでに10年ほど前から広く認識、憂慮され始め、学校では生徒指導、生活指導、カウンセリングなどに力を注ぎ、社会では青少年育成、非行対策、スポーツ振興、「親子話し合い運動」、「一声運動」など、国でも地方でも多くの審議会や組織が設けられ、多くの答申や政策が打ち出され、地域ぐるみの運動が行われるようになった。だが、こうしたおとなの努力にもかかわらず、病状は一向に治まる兆しを見せないどころか、悪化の一途をたどっている。「一声運動」については声をかけた者が不審者と間違われて通報が行われ、逮捕者が出るという事態も発生しており非常に敷居の高いものとなってしまった。大人だけではない。むしろ当の子ども自身こそ最も悩み苦しんでいるのである。彼らは何も好き好んでいじめを行い、非行に走り、無気力に陥るなどして教育上の病人になっているわけではない。病気には病因がある。病気の症状と原因を診断してやる必要がある。

改めて教育病理とは、本文中において最初に挙げた落ちこぼれ以下の諸例が示すような病気である。それは教育の対象たる子ども自身に現れる病理現象、問題現象をさす。これに対して教育自体が病的であり不健全であると判断される場合がある。病的教育(病理的教育)のもとで病的な子ども(教育的病理)出現するのは半ば避けようがないため、それは教育的病理の原因だといってよい。病理的教育にメスを入れない限り、個々の教育的病理を対症的に治療しようとしても限界がある。

また教師はそういった状況下の子ども30人1学級に対し1人であることに加え、スマートフォンの普及に伴うSNSやメールサービスの使用年齢の低下から教師が見ることが出来ない人間関係が構築されている。そのため学級全員分の問題の当事者になれるはずもない。その上状況の説明を受けるのも小学生の拙い表現に頼る場合がほとんどであることから、多くの場合は周囲の状況から教師自身が判断し、問題解決に取り組むことになる。こういった状況に対し『我が国のようなホームルームたるクラスルームを唯一の固定的な教授=学習集団、つまり自給自足学級という考え方を基本に維持しているような場合は、子どものニーズや教師の特性(タレント)に適合した教授=学習集団の編成は非常に困難だということになるであろう。』として学級制自体に対し疑問を示す意見も表れている。そういった教育現場において『自身が新任であるからきちんとした対応が採れなかった』というのは全く言い訳にならない。解決しないままの問題を抱えた上では教科の授業や各行事も非常に教育的効果が薄いと言えよう。またその効果が薄いだけではなく悪化する危険性、つまり『不登校』『自殺』等の深刻な問題へ繋がってしまう場合も十分に考えられる。私はそれらの解決を指導し、生徒の助けにならなければならないと考える。現場に立って1年目からベテラン教師のごとく充実した学級経営を行うことは非常に困難であることは理解しているが、小中学生は一体どういった問題を抱える傾向にあるか、そしてそれらを如何にして解決したかを調べようと思う。

学級経営という表現を用いた。学級とは各学校が教育実践の場として設けた実践的単位の1つである。それにおいて学級経営とは学級を単位として展開される教育的指導を効果的に行うために必要な諸条件を整備することである。学級における教育指導を効果的に行うためには、学級王国的な思想、生徒を上から押さえつけるような支配的方法ではなく、組織的な教育の実践的な展開という学校教育の特質に即した学年・学校のレベルとの協調的な関係の樹立、いわゆる『生徒と共に学級を作っていく』といった関係の樹立が必要である。諸条件の整備としては、教育情報の収集、選択、活用に特に気を付けることが基本となると話を聞いた現役の教員の方々は口をそろえる。「棚からぼたもち」式の構え、上記の活動に気を配ることなく教育を行う中で偶然効果が得られたといったような状態をやめ、自ら情報を作り出すという姿勢が無くてはならない。1)とあるように、学校教育における「学年」・「学級」の位置については、制度としての学校教育は、学年(grade)及び学級(class or classroom)という具体的、実践的単位を中心に発達してきたと言っても過言ではない。歴史的には、年齢を重たる基準とした学年制がまず発達したが、同一学年のこども集団の量の増加が、教育実践の基底的単位としての「学級」制度の発達を促したということができる。特に日本の場合、学級というものを著しく固定的に捉える傾向は今日においても強い。自給自足的な学級、つまりクラスルームとしての学級を意味する。

小学校における学級担任制は同時に一人の教師の指導のもとでの、固定的な子ども集団の編成を意味している。中・高等学校における教科担任制の場合でも、子ども集団の編成を固定したままである。「学級」をクラスというようにとらえるとき、はじめて子ども集団についても、教師集団についても、弾力的な編成が可能となる。ホームルームとしての「学級」は、異質編成(heterogeneous grouping)で、授業等の教育活動のためのクラスとしての「学級」は、子どもの特質や適性による等質編成(homogeneous grouping)または弾力的編成(flexible grouping)で、というような発想が可能になってくる。

また、教師集団の編成については、数名の教師がチームを作り、指導計画や授業の実施、教育評価などの面から複数学級の生徒を弾力的にグループ分けしながら行う授業の形態であるチームティーチングの協力授業、やdifferentiated staffingが考案されてくるといってよい。

全教科担任制を原則とする現在の日本の小学校にあたっては、常に同一の教師が教壇に立つことから授業方針及び学級方針を一本化することができるため個性的な学級指導や学級経営を可能にできる。だがその反面組織的な協働体制という観点からみると、個々の教師による恣意性の温存を残すことなる。また教科担任制を原則とする中学校や高等学校にあたっては、担当の強化を通してしか学級における教育指導に携わることが出来ない。このことは、教科指導を通じて、同一学年の全て、または担当数の子ども集団に接することはできても総合的な学級集団の把握という点で問題が残る。この意味で、学級経営の効果的な展開にとって、なんとしても学年経営との関連が重要になる。学年経営は、いわば授業と経営の接点にあるといえる。学級経営は実態的には経営的配慮の必要性という点では、学年経営に比べて切実感が書けるように見受けられる。そこで学年として経営的配慮を加えることによってはじめて、学級経営の効果的展開を確保することが可能になると考えた。

ここで「学年として」というのは同一学年の教師集団がその学年の子ども集団全員に対して、基本的にいかなる教育サービスを提供できるか、またそれを効果あらしめるためには学年教師集団としては何が必要であるかを考えるという意味である。このことは、学級経営の個性を否定しているわけではない。むしろこのような経営努力があってこそ、はじめて個性的な学級経営とは何かが明瞭になってくるというべきであると考えている。

また、学級担任と学級経営については学級経営にあたる者の望ましい姿勢として、大部分の教師が学級経営を行っている。特別に難しい仕事ではないと簡単に考えがちである。しかしながら効果的な学級経営を進めるという意味からは、計画の段階でも日常実践の段階でも、ともに容易な仕事ではないはずである。理論的・組織的な考え方と指導技術を用意しなければ、効果ある学級経営は望めないだろう。人と接し人と相対し人に教え、指導し人と過ごすという仕事において決して容易な仕事など存在しないのだ。学級経営にあたる教師は、経営計画に必要な理論と経営実践に欠かせない指導技術とを身に着けて、児童生徒の前に臨むことが必要である。それが学級における経営者、すなわち教師としての望ましい態度であるといえる。それは教師の直接的な対応はもちろん、周囲の環境づくりや日頃からの生徒指導、学校内外との連携などについても調べていくつもりである。そしてそこから自身が教師になった際には何ができるのかを考えていこうとも思っている。

先述の通り子どもが抱える問題は多種多様である。それらを一括して一つの解決策を見つけようとするのはあまりにも乱暴である。その為本研究ではまず、子どもの抱える問題の種類を大きく以下の2つに分類する。1つは家庭環境や習い事などの生徒が学校の管理の外となる登校前、下校後の『学校外部型』である。もう1つが授業内やクラス内、放課後および部活動内などの子どもが学内に滞在している時間内に起きる『学校内部型』である。学校の外部と内部に分けた理由としては、教師がどれほど関われるかという生徒との距離を学校外と学校内で分ける必要があると考えたことが挙げられる。その距離とはすなわち教師が対応を取れるまでの時間であり、その対応がどれほど密に執れるかという、量と充実度を表している。この考えは本研究の最終目標が自身が教壇に立ち、生徒が抱える問題を発見した際の対応をより効果的なものにするという旨のため、自身が生徒を観察できる行動時間の大半を占める学校内での対応に重きを置くことを考えているためである。

学級担任の仕事は、教育活動と経営活動との2つに分けて考えることが出来る。また、見方の違いによるのだが、教育課程に管理の進行、教育課程外の一切の管理と指導の2つに分けて考えることもできる。あるいは、学校―学年―学級という経営体系の構成の一環としての学級経営実践と、教室(環境)―児童生徒(人)―教材(教育課程)という条件整備を図る自主経営実践とに分けて考えることもできる。

これらの理由から先述の2分類に加え、さらに『人間関係』と『学習内容』の2つに分類していく。

『人間関係』とは休み時間や部活動の時間、休日などの時間で発生した問題が分類されるものである。『学習内容』は授業内や塾などの学習が核になる問題が発生した場合に分類されるものである。

つまりこの研究における子どもの問題は全部で4種類のいずれかに分類される。

たとえば「塾での成績が上がらない」といった問題を抱えている場合は『学校外部型』の『学習内容』に分類される。

クラス内での生活は常に授業と人間関係が非常に密接した関係にあるため『人間関係』と『学習内容』の2つの側面を持つ問題も発生してくることが予想されるが、その場合はどちらの性質が発生した問題に対して影響が大きいかで分類していく。

本研究におけるデータの基となるのは書籍と官庁発行の資料及び発行者が信用に足るものとする情報と柏市内の現役小学校教員への聞き取り調査と大学生および高校生へのインタビューである。インタビュー対象を高校生以上としたのは当時の状況を時間の経過によって自身を冷静に見つめなおすことが出来る時期が、データとして用いるにあたって最も適したものになると判断したためである。インタビューの様子を掲載する部分としては自身の発言を●で、インタビュー相手の発言を英文字1字、敬称略で統一する。

まずは『学校外部型』の『人間関係』である。『学校外部型』の『人間関係』の分野については、ここ10年で近年塾を含める習い事を行う子どもが非常に増えているとT先生は述べている。

以下は男子高校生Eさんに対するインタビューの該当部分である。

 

Eさんへのインタビュー(抜粋)

●「Eさんは小中学生のころに何か習い事をしていましたか?」

E「小学生の時は塾とサッカーをやっていました。」

(※中略)

●「ところでサッカーというと、クラブチームですか?」

E「そんな本格的なものじゃなくて、少年サッカーです。」

●「どう違うのでしょうか…?」

E「クラブチームっていうのは、大人のプロのサッカーチームの子ども版です。選抜されていくとそのままプロのチームに入れたりするものです。レイソルとかジェフ千葉とか…で、そうじゃないのが少年サッカーです。」

●「なるほど、そうするとEさんはそんなに毎日ハードな練習をしていたわけではなかったんですね?」

E「(小学生当時の)自分なりにはきつかったですけど、土日の週1か2でしたし楽でしたね。」

●「そこでの人間関係で何かトラブルはありましたか?」

E「いつもはそんな感じ(後述の『ギスギス』)じゃないのに試合が近くなってレギュラー争いになるとギスギスしてたです。」

●「というと結構大きな少年サッカーチームだったんですね。ケンカが起きたりしませんでしたか?」

E「いや、小さかったです。20人くらいの。だからレギュラーに入れないと雑魚みたいな感じになって、うまいってわかってる人以外はわざと転ばせたりとか同じチームでもパスしなかったりとかありました。ケンカなんてしょっちゅうです。」

●「それに関して監督は何か注意をしてましたか?」

E「『たとえうまくても仲間の邪魔をするやつはレギュラーには入れない』的なことを言ってたような気がします。」

●「改善は…」

E「注意されて少し(の間)はちょっとよくなるんですけど、だめですね。凄いうまいやつが2人いてそれ以外はみんな同じくらいだったんで。」

●「Eさんはその2人の内の1人だったんですか?」

E「ゴールキーパーでした笑」

●「するとそのレギュラー争いからは距離があったんですね。するとEさん自身はその少年サッカーでは問題はなかったんでしょうか?」

E「ないことはないですけど、少なかったです。」

●「覚えているものはありますか。」

E「紅白戦みたいなのでゴール守ったら(シュートした子から)『何で取るんだよ』って言われたりしました。」

●「随分とまた理不尽な言いがかりですね…。それはそこで(後を引きずることなく)終わったんですか?」

E「(それまでは普通だったのに)突然仲悪くなりました。(シュートした子は)その時のレギュラーに選ばれなかったと思います。」

●「後に引きずってしまったんですね、その子と学校は同じでしたか?」

E「違いました。でも中学校で同じになって、部活もサッカー部で同じになってずっと仲悪かったです。」

●「中学校になっても解決しなかったんですね。中学校では何か注意されたり相談したりはなかったんですか?」

E「仲が悪いって言ってもパスしなくなるくらいで。で、自分は(中学のサッカー部でも)ゴールキーパーだったので絡みはそんな多くないんで、そんな相談するほど嫌じゃなかったです。周りも「なんかあの二人話さないな」くらいだったと思いますよ。」

 

このEさんへのインタビューでは小学生時代における競技スポーツの負の側面が出ている。レギュラーメンバーとして選出されるか否かという自分の力が他者によってそれが試合に出られるかどうかというわかりやすい明らかな形で示されることは、選出されれば子どもの自信や経験を、選出されずとも自己を見つめなおす機会や我慢すること、不屈といった、子どもの成長に大きな役割を果たすことは間違いない。だが今回問題として挙げられるのはそれに至るまでの過程である。『わざと転ばせたりとか同じチームでもパスしなかったり』という部分に代表されるようないわゆる陰湿な行為により、レギュラーメンバー選抜という機能の効果を著しく低下させているのだ。それが子どもに通常では本人でもおかしいとわかる理不尽な発言を生ませ、人間関係に亀裂を生んでいくことになる。そしてそれが学校内にまで及んでしまっていることもわかっている。学校外の休日期間、それも原因となる事件が起きたのは小学校時代となると中学校の教師がその詳細を知ることは困難である。

部活動や委員会の顧問へクラス生徒の様子を聞くことで問題が学校に及んだ際には発見及びその後の対応への移行は早くすることが出来るが、原因となるものが学校の外部となる以上対応は限られてくる。

 

次に『学校外部型』の『学習内容』についてである。

ここで対象とされるのは塾や予備校といった民間学習施設の他に家庭学習も含める。ここでインタビューを行った人たちが皆発言及び賛同したことは中学校と小学校とで塾の様子も急に変わるということだ。中学校は部活動内における先輩後輩の立ち位置をはじめとした上下の人間関係や教科担任制、定期テストの実施、成績の順位付け、学習活動の延長線上にある高校受験等という小学校とは何一つとっても異なる空間が広がっている。そしてそれらの変化に適応しきれない子どもが不安から不登校やいじめの被害に遭う現状から『中1ギャップ』という用語も存在する。この『中1ギャップ』という用語は近年非常によく聞かれるようになりこれに関する書籍も多数発行されている。だが定義としては非常に広範なものであり、「問題行動調査」の結果を学年別にみると、小6から中1でいじめや不登校の数が急増するように見えることから、今では小中学校の接続の問題全般に用いられるようになっている。

確かに先に述べたように小学校から中学校への移行においてはその環境が大きく変わることは間違いなく、表面化した問題を抱えずとも多くの子どもが不安を抱え、混乱し、悩んだはずである。だがそれらすべての問題の原因が『中1ギャップ』によるものだと考えるのは急ぎ過ぎであろう。「家庭や地域の教育力の低下もあって、小学校が抱える問題は従来と比べものにならないほど増 えてきたと言えるでしょう。その結果、小学校段階で予兆が見えていたり顕在化し始めていたり する問題であっても、対応できなかったり解決できなかったりという「積み残し」や「先送り」 が増えています。一方、中学校でも、そうした小学校の状況を十分に把握しないまま、あたかも中1をスタート ラインにできるかのような昔のイメージを脱し切れていない学校が多いのではないでしょうか。 中学校区単位で連携を進めていかなければ、中学校の課題が解消することはありません。」3)とあるように、多くの問題が表面化するのは中学校段階からだとしても、じつは小学校段階から問題が始まっている場合も十分に考えられる。

以下のインタビューではそれら『学校外部型』での『学習内容』の問題がわかる。

Oさんへのインタビュー(抜粋)

(前略)

●「Oさんは塾に行ってはいなかったんですか?」

O「小学校の、5年のころから行ってました。」

●「小5の頃から、というと中学受験を考えていたのですか?」

O「いえ、特にそんな風もなくて、ただ勉強ができるようにって行かされてました。」

●「自分で望んで行ったわけではなかったんですね。」

O「正直嫌でした笑。遊びたかったです。」

●「嫌々だと勉強しても意味が薄そうですね…。その塾はみんなそんな感じだったのですか?」

O「上のクラス(中学受験を念頭に置くクラス)は(塾講師が)付きっきりで頑張ってましたけど俺らのクラス(中学受験を考えていないクラス)はとりあえず来てるって感じでした。」

●「塾を辞めたいと思うことはありましたか?成績とかが嫌で。塾の中には受験クラスじゃなくても小学校時代の時から成績を順位づけて発表するところもありますが。」

O「怒られた記憶が…あんまりないので塾が嫌って感じることはなかったです。」

●「塾は嫌だったのでは?」

O「成績とかで行きたくないって思うことはなかったです。です。すいません笑。」

●「成績面では問題を抱えることはなかったんですね。人間関係で悩みとかはありましたか?」

O「人間関係なのかわからないですけど、中学校に上がるとき塾の感じがいきなり変わったのでびっくり…」

●「混乱というか『中1ギャップ』みたいなものが塾でもあったんですね?」

O「はい。いきなり先生の口調が荒くなったり、成績成績言うようになったりして。」

●「それは小学校時代と同じ塾で、ですか?」

O「はい。そう(特定の塾名が入る)です。」

●「他にはどんな問題が起きましたか?」

O「宿題の量が倍くらいになって、学校の宿題も増えて両方やりきれない時がありました。」

●「宿題の量が倍というのは、受験クラスに変わったからとかではなくて、ですか?」

O「はい。受験クラスに入ったのは中3になってからなので、そうですね。」

●「そのことは誰かに相談しましたか?」

O「いやしなかったですね。その時はそれどころじゃないほど他が忙しかったりしたので。」

●「バスケ部とかですか?」

O「はい、バスケ部ですね。毎日遅くまでやってたのでそこから塾だと疲れててダメです。」

●「集中できない状態で塾へ行く感じは変わらなかったんですね…。すると先ほど話したようにテストでいい点を取るのが『マグレ』として扱われてしまうんですね。」

O「はい笑。小学校の時より授業に置いて行かれるので『塾行ってるのになんで』ってなってしまって。」

●「気力も落ちてしまった。」

O「はい。」

 

 

次に『学校内部型』の『人間関係』である。これに関しては最も多くの意見とデータが得られた。以下は大学生のYさん、Oさん、Kさん、専門学校生のMさん、高校生のEさん、Aさんに対するインタビューの該当部分である。

調査を行い始めてまず目立ったのが身体的発達に関する事項であった。

 

Yさんへのインタビュー(抜粋)

Y「私は(中学時代は部活の)バレーボールしかしていなかったので、怪我によく悩まされました。」

●「どこの怪我をしたんですか?」

Y「捻挫や打撲はしょっちゅうで、そのたびにテーピングや包帯を巻いていたのでオシャレな中学生にはなれませんでした。(京都への)修学旅行には松葉杖をついて行きました。」

●「それは骨折で、ですか。」

Y「靱帯断裂です。」

●「それで京都を回るのは大変だったでしょう、班の人は何か言っていましたか?」

Y「大丈夫と言っていましたが、内心面倒くさかっただろうと思います、私でも面倒くさかったと思いますもん笑」

●「実際に人間関係の、、、ズレ、、、?が表面に出てきてしまったことはありますか?」

Y「女子はそういうところは妙に陰湿なので、表には中々出ませんでしたが、どうしても部活に入れ込んでいると話す時間が短くなるし、怪我のままではお買いものに行く気も起きないので」

●「クラスの他の女子の話についていけない」

Y「はい、ファッションはもう駄目でした。芸能情報とかテレビ見て、好きだったのでよく話せたんですけど。」

●「Yさん自身オシャレに興味はあったんですよね?」

Y「ありましたけど赤く腫れてる腕じゃもう駄目ですよね、テーピングも部活中は良いですけど下校中とかで人目に触れるのはあんまり、嫌でした、あ、そう、背が高かったのも嫌でした。」

●「外見的にも気になっていたんですね」

Y「部活中は、最高だったんですけど笑」

●「じゃあクラスで楽しく話せる時間は無かったのですか?」

Y「同じバレー部とはめっちゃ楽しく話してました、今でも時々集まります笑」

●「じゃあそんなに居辛い思いはしなかった?」

Y「いや居辛かったです。クラスにバレー部なんて1人2人しか居ないですので、結局話してる時間はオシャレ女子?のほうが長いです。芸能界(の話題)だってすぐにオシャレ(の話題)に飛びますからそこでは適当に相槌打ってるしかなくて。」

~中略~

●「その問題は解決したのですか?」

Y「部分的に?しました笑」

●「…部分的?どういうことですか?」

Y「解決した時もあったんですけどそうじゃない時もあったんです。」

●「詳しくお願いします。」

Y「一回大会で良い成績を残して表彰されて、女バレ(=女子バレーボール部)の活動が全校に知られるようになって、こんな練習してるんだってクラスの人に伝わったときはテーピングとかが見えても『ああ頑張ってるんだよね』っていう感じになりました。」

●「そんなに報じられるのは、相当いい成績だったんですね?」

Y「関東大会で3位です笑」

●「それは確かにクラスからの見る目も変わりますね。けど、それでも解決しないことがあったのですよね?なんだかうまくいきそうに聞こえるのですが…」

Y「女子の話題が変わるわけじゃないですしね。その話(=関東大会好成績の話)もずっとしてるわけじゃないですから。(話題の熱が)冷めたら、ほぼいつも通りです。」

※別のインタビュー部分でYさんの通っていた中学校の近くには比較的大型のショッピングモールが存在しており、休日に女子は頻繁に赴いているということもわかった。

 

このインタビューでは、Yさんが女子バレーボールの部活動に打ち込み、学校生活における第一の目標としていながらも、それによって起きてしまう怪我の痕や補強の為のテーピングが人目に付くことへの嫌悪感が表れており、それが思春期において興味を示すであろう服やアクセサリーなどのファッションへ向かわせる気力を失わせていることがわかる。Yさんのクラスにおいて女子の間ではそういったファッションの話題が非常に重要な要素であったことから、結果としてその話題について行けないYさんとクラスの女子との間に『人間関係のズレ』を生む問題の原因が部活による外見の変化であることがわかった。

だがここでは明らかな、最早直接的な答えとも言うべき解決へのヒントが示されている。

それはクラスのメンバーによるYさん及び女子バレーボール部員への理解である。Yさんは大会において非常に優秀な成績を修めることによって学校内においても表彰され、『ああ頑張ってるんだよね』という言葉に代表されるように、怪我などのYさんの気にする外見に対する理解が生まれている。

『理解』が人間関係において大きな役割を果たすのは間違いない。それは過去にハンセン病やアフリカ系の民族のように正しい知識の不足による誤解が悲惨な差別があったことからも証明される。特に黒人差別の問題はキリスト教教会による扇動が原因の1つとして挙げられており、指導者の発言がいかに責任を帯びているかの再確認にもつながる。

学級における指導者が正しい知識、ここでは問題の渦中にある生徒の状況を知らせたうえで多面的な視点を持たせられるように指導を行い、学級における理解へつなげていくことが重要であると分かった。

だが学級集団において広報という手段はそう単純にいい方向へ機能するものでないことがMさんへのインタビューで明らかになる。

 

Mさんへのインタビュー(抜粋)

M「私は小学校のころからませてたので、勝手にお化粧してみたりしてました。ファッション雑誌も買いました。」

●「早いころからオシャレに興味があったんですね、それだと悩み事も、美?に関することでしたか?」

M「はい、カミソリの使い方とかお母さんに聞いたりしてました。」

●「自分はそういった分野に疎いのですが…他にはどういった悩みがありましたか?」

M「もう山のようですよ、ネイル、ツメをきれいにしたいとかさっき言ったムダ毛をなくしたいとか、リップクリームの選び方とか、あとはニキビは本当に直したかったです。」

●「なんだか悩みというより願望に近いですね。」

M「こうなりたいっていうのもずっと思ってると悩みになるんですよ。」

●「なるほど」

M「ネイルは勉強してても手元が見えればすぐ気になるし、体育とかで欠けちゃったり砂が入ったりすると凄い嫌で一日中隠してました。」

●「そんなにですか、そのクラスはオシャレに敏感だったのですか?」

M「私はクラス内でよくファッションのことを聞かれていたので勝手に『常にかわいくなきゃ』って責任感じてました笑」

●「そうすると、ニキビはファッションにあまり興味のない男子の自分でも結構嫌なものだったので、大変だったと思うのですが。」

M「大変で大変ですごかったです。一日中ニキビのこと考えてました。」

●「その影響は勉強や人間関係に出ましたか?」

M「女子からの目は一気に変わりましたね、いきなりガラッと下に見られるようになりました。」

●「どういったところでそれが出ましたか?」

M「先生とかが見てるところではそんなに変わらないんですけど、小さいとこでシカトされたり、一切相談されなくなりました。何て言っても『いやでもあんたニキビだし』みたいな空気でした。」

●「随分露骨に変わってるようにも思えますが、それでも先生は気づかなかったのですか?」

M「気づいてたのかもしれないけど何もしなかったですし、まず昼休みとか先生がいない時にそういうのがあったので。」

●「相談はしなかったのですか?」

M「しました。最初はニキビをとにかく直したかったので、保健室の先生にしました。そしたらこの時期のニキビはしょうがないとか、食生活が何とかって言われてて、でもすぐよくならなかったので『ああこの先生じゃだめだ』って思いました。」

●「あとは自分で何とかしたのですか?」

M「クラスの先生にしました。そしたら先生が帰りの会で『Mさんはニキビだから~』って説明しちゃって今まであんまり興味なかった男子からもニキビニキビって言われるようになって最悪でした。(クラス担任に対し)何してんのって感じで。」

●「逆効果だったわけですね」

M「完全にそれ(=逆効果)でした。ニキビ治ってからもしばらくニキビって呼ばれてたので、それ(呼ばれるにいたった経緯)知らない子が『何で?』って聞いて広がってって感じでかなり広まったと思います。」

●「それに対し担任の先生は何かしましたか?」

M「一切しなかったです。もう今でも恨んでますあれは。」

 

このインタビューでは先述の通り広報のデメリットとそのタイミングの難しさが表れている。Mさんが当時のクラス担任の広報の内容を詳しくは覚えていなかったが、一言二言の非常に簡単なものであったという。Mさんは先のYさんとは対照的に服装や化粧などのファッションに興味があり、クラスで相談を受けるほどの存在であったことを教師が把握しきれていなかったことが問題点である。

小学生というのは身体的成長が著しい時期であるが、女子においては特にその傾向が強い。そこで身体の成長ホルモン等のバランスが不安定になり、ニキビが現れるという。

そいうった小学生の時期における身体の問題と原因を知っておくことも重要ではあるが、そういった分野は教育とはまた別の専門知識を必要とするため、保健室との連携が不可欠である。インタビュー内におけるMさんはそれらを考慮してか、まずはじめに保健室の先生へ相談を行っている。そこで自分の期待する答え、今回の場合Mさんは直接的なニキビの治療法、それも即効性のあるものを得られなかったため、そのほかの説明に対し集中して聴くことをやめてしまった。そういった生徒が何を求めているか、どういったアプローチが効果的なのかを見極められるということに関してはクラス担任の方が有利と考える。そのために重要なのは普段から子どもの性格を見ることが重要なのはもちろんだが、健康状況の把握が一つの要素として加えられるということである。1クラス30人全員の性格、健康面、学習面等々の要素を全て記憶しているのが理想だが、それは中々現実的に難しいものがある。

Oさんへのインタビューでの該当部分では男子の身体的面に関する状況がわかる。

 

Oさんへのインタビュー(抜粋)

●「私は個人的に小学生の時には足が速くて体が大きい男子は人気があったと感じていますが、やはりそういう傾向はあったのでしょうか?」

O「ありましたね。他にもドッジボールが強かったりとか。」

●「Oさんは小学生のころはそのあたりで何か悩んだりしたことはありますか?」

O「あります。私は背が小さかったのでよく牛乳飲んだりとかして、給食も無理して食べてたりしてました。」

●「背が小さくても足が速かったりすると随分違ったりしますが、そこはどうでしたか?」

O「今までで挙げられた中だとドッジボールで相手の玉をキャッチするのがうまかったんで、トーリ(2人でじゃんけんをして、勝った方が自分のチームに欲しいメンバーを1人選べる。負けた方はその次に欲しいメンバーを選べる。そうして全員チームが決まるまでじゃんけんを繰り返すチーム分けの方法。その時のじゃんけんの掛け声が「トーリ」{取―り?}。)では結構最初の方に選んでもらえてました。」

●「それだとあまりいじめや仲間外れの問題はなさそうですね」

O「そうですね、そういうのはなかったです。でも自分バスケ部に入ったんで、そこからは背が低いのはきつかったですね。」

●「問題が出てきたんですね。」

O「はい。自分はそんなに頭良くなかったし、スポーツで振るわないと何でも何かいいとこがないって感じになってて、影薄かったです。」

●「なぜバスケ部に入ろうと思ったのですか?」

O「小学校のころのバスケで結構うまくいってたので、それに小さいって言ってもそんなに差がなかったので『あ、いけるんじゃね』って簡単に考えてたんです。そしたら周りがどんどんでっかくなってって、ダメでした。」

●「Oさんはあまり伸びなかったんですか?」

O「伸びなかったです。結構(身長が伸びる時期が)来たのは高校になってからです。」

●「ちなみに高校では何部に入りましたか?」

O「懲りずにバスケ部に入りました笑。なんかないですかね、自分にできるのは『これしかないから』って感じで同じ部活に入り続けるのって。」

●「自分もテニスがそうでした。と、いうことは高校では背が伸びて活躍…?できたのですか?」

O「レギュラーにはなれなかったですけどかなりよくなりました。」

●「自然と解決していったんですね。中学生の、問題を抱えているときに相談や対策はとったりしましたか?」

O「相変わらず牛乳は超飲んでました。夏は1Lとか飲んでました。プロテインも飲んだりしましたけど、それは(値段が)高かったので続きませんでした。自分で調べて『背を伸ばす方法』とか調べていいなと思ったものいろいろ試してました。相談はしなかったです。」

●「相談しなかったのはなにか理由があったのですか?」

O「特に理由はないんですけど、これは相談したところで解決するものじゃないなって思ってた…と思うので、自分で調べていろいろやった方がいいとも思ってました。」

●「でも結果につながらなかったんですね…。では背があまり伸びなかった中学時代はずっとその様子だったのですか?何か別のものに力を入れたりだとか…」

O「一回だけマグレでテストで凄い良い点とって、90点台みたいな、それで勉強に向かいかけたんですけど次(のテストで)元通りダメだったんでダメでした。(やる気が失せてしまった)」

●「次のテストまでは勉強に熱を入れていたのですか?」

O「たぶん受験の時よりやってました笑。理科だけなんですけど、もう1日何時間みたいな」

●「それだけやっていて成績が出ないと落ち込みますね…。」

O「駄目だってなった時にもっと落ち込む原因だったと思います。」

●「良い点数の時に、担任の先生から何か褒められたとか、声掛けはありましたか?」

O「絶対そんな点数取れないからびっくりされて褒められたりしました。」

●「それはテストを返す時だけでしたか?」

O「はい、あとそれから(好成績テスト~元通りのテスト間)何度か授業中にネタにされるくらいでした。」

●「ネタにされた、茶化されたんですか?」

O「あの、問題振られて正解したら『流石O。』みたいな」

●「馬鹿にされたわけではなかったんですね、ですが、それも嫌に思ったりしませんでしたか?」

O「とくにそういうの(不快感・嫌悪感)はなかったです。」

●「担任の先生から点数が元通りになった後にも励ましや声掛けがあったら勉強へ向かう気持ちが続いたと思いますか?ちょっと難しい質問ですが…」

O「どうでしょうね…自分の中で駄目だってなっちゃったから(勉強へ向かう気持ちが)切れたって感じだったと思うんですけど、何か(声掛けが)あったら何か、ううん、でもわかんないです笑」

 

Yさん、Mさん、Oさんに共通して言えることとしては、義務教育期間において男子についても女子についても身長や運動神経、外見、美容等の身体的な問題がそのまま人間関係に支障をきたす直接的な原因になっているということだ。そしてその身体状況に関する問題は第二次性徴を筆頭とする成長期のホルモンバランスの乱れや情緒の不安定により往々にして発生するものであるため問題が表面化する以前の、日頃からの注意が必要となってくる。

Oさんへのインタビューでは女子と比べて男子は~といった特別顕著な違いは見られなかったが、外見、今回では身長がそれであったように問題を抱える非常に大きな原因として特定できる。そしてOさんの問題については教師への相談が行われていないことが注意すべき点として挙げられる。これはつまりOさんが問題を抱えていると教師が把握しづらい状況、把握できたとしてもその具体性に欠けるという状況であるということである。私自身が把握できない以上対策は取れないのだが、それでも考えられる手段は成長期の子どもに関する保健の知識の広報である。身長が伸びるということについては多くの子どもが抱えるであろう悩みである。

理想としてはそういった義務教育期間における身体面の知識や情報を教師がもっていればいいのであるが、それは中々現実的ではない。そのため対応として、取材を行ったH先生は問題が起こった際、把握して相談を受けた際などに該当生徒の健康状況をすぐに取り出せるように整備しておくと自身が知りえない、もしくは情報が確かでない分野において保健室・養護教諭と連携するにしても素早い対応ができるという。最近ではインターネットの普及が広まり、子どもが得る芸能やファッションの情報が非常に幅広く多様なものになっており、それに応じてスタイルや美容、部活動の他に学校外で少年野球などの課外スポーツを行っている男子からは筋力トレーニングといったような身体的な面での相談が増えてきているとも言っている。

 

最後に『学校内部型』の『学習内容』である。

 

人間としての学級担任の経営姿勢については、『学級の児童生徒一人ひとりが、学級担任から真に大切にされている、自分が見つめられているという自覚を持つ(もたされる)ことから、信頼感は芽生え始める。学級担任にとって、子ども理解が重要であることを知るべきである。いうまでもなく、教育は教師の人格と児童生徒の人格との交流の上に成り立つ。学級経営も当然、学級担任と児童生徒との人格の交流の上に成り立つのである。そして、その人格の交流は、信頼感の芽生えから始まる。…学級担任と児童生徒の間にできた信頼関係は、やがて児童生徒相互にも伝わり広がっていくものである。いたわり合う、励まし合う、助け合う、そしてお互いに認め合う、尊敬し合う間柄に育っていく。そこには、孤立も、差別も、自らの蔑みも影をひそめて、明るく、温かい、いきいきとした学級がつくられていくであろう。』1)と述べている。

その中で私は学校教育をいかに組織化できるかが学級経営を行ったうえでそれが成功するか否かの大きな要因として挙げられると考える。それは、『学校教育が組織的・計画的になされているのは、一般的に見て、教科に関する領域であり、児童・生徒理解や学校集団づくり、環境づくり、父母との連絡協力、学校行事、学級事務等については、不十分である。特に重要と思われるのは、学級経営における、情報の整理活用、自主学習(家庭学習)、行事計画などであろう。』1)という資料にも基づいて出された見解である。

学級教育組織化での留意点は以下のようにあげられる。

①児童生徒に役立つ資料(健康状態、学習状態、学力基礎資料、性格検査等)を整備しておく必要がある。

②人間関係づくりに役立つ資料(学校の重点目標、学年・学級目標、生活指標、児童・生徒会の活動記録、交友グループ等)を整備しておく必要がある。

③学習活動や日常実践の事例や記録についても、常に配慮しておく必要がある。

④保険・安全教育に関する資料や学級の運営の関する資料にも、十分注意すべきである。

⑤自主学習については、学習速度や目標達成の自己評価が出来るように、また宿題や家庭学習について子どもなりの努力が出来るように工夫すべきである。

⑥父母の会、家庭訪問、郊外補導、学級会等の学校行事について、計画的な準備が必要である。

学校教育において、上述の留意点に関して追加的により具体的な情報についてまとめると、以下のような資料・記録等が必要である。

①児童生徒の理解の資料となるもの:生活行動、趣味、興味・関心の傾向、悩み、問題行動、交友状況。

②望ましい人間関係づくりの資料となるもの:週間目当て、交友グループ・リーダー。

③学習活動、日常実践の事例や記録:学習実践記録、ニッカ・日常の実践状況、特別活動、部活動、クラブなどの様子や実践報告、学級会・委員会及び生徒会役割、通信表、評価記録、観察記録票。

④保険・安全教育に関する資料となるもの:保健室治療報告・利用表、給食状況・献立表、郊外行動事例、教育相談記録。

⑤学級運営(行動状況)の資料:課外活動計画、父母会計画(記録)、学年・学級通信。

上述した学級経営の意義・機能、学級組織の本質、学級担任の基本姿勢等が人間性育成教育、学力育成教育、ゆとり教育、学力向上の教育などの教育政策の転機で打ち砕かれ、かつ閉鎖体制的教育によって引き起こされている深刻化する教育的病理現象は学校崩壊、学級崩壊、授業崩壊を呼び込んできているとする文献もある。

『19世紀の東アジア型教育の復古的・回顧的面影的学校教育観に基づくような学校教育万能論を推し進めていくことは、生涯教育の理念や生涯学習社会の理念の否定にもつながることが指摘され続けているにもかかわらず、受験学力を煽り立てる学校間によくよくとした中央集権的教育支配であり、学力向上論を盾にして、学習内容の肥大化を「善」とする教育政策は、今日的歴史環境下では学校教育の混迷を深めていく一方である。』2)はそういった状況を端的にあらわしていると言える。

 

秋学期では引き続き4つに分類した内容について調べを進めていく。

夏休みに行ったこと「障害児者のきょうだいについて」

 私は夏休みの間、「きょうだい児」の研究を進める為、文献を読むことと知人の障害児をきょうだいに持つ人物にインタビューを行った。

 まず文献から得られたことを以下にまとめる。
 障害児のきょうだい問題が着目されはじめてきた今日であるが、その問題の顕在化とその背景として、広川(2012)は家族形態の変化を挙げている。核家族化の進行と共に家族の養育機能が急速に低下していったことがある。また近年の医学・医療体制の進歩と整備も挙げられており、ハイリスクの新生児の救命率の向上と障害児の寿命が飛躍的に伸びたことにより、介護が親世代にとどまらすきょうだい世代にまで引き継がれる必然性を生じるに至ったことを示している。広川は、問題顕在化の低年齢化と長期化、学校に関する問題(いじめ、不登校)として表面化する点で過去のきょうだい児の問題と異なっており、検討を要するとしている。
 また、田中(2012)は、障害児者の家族は貧困問題とは無関係ではいられないとしている。それは、母親の就労困難により家計がシングルインカムで支えられていること、時には生計中心者さえも障害を理由に仕事の変更や、転勤などを断念しているケースも見られることにより、経済的貧困に陥るリスクが高いとしている。
 きょうだいの特徴として田倉(2012)は、以下のようにまとめている。
①幼少期から親の期待や思いに沿い「いい子」でいつづける、または、自己主張を積極的にせず対処しようとする傾向がある。
②日常的な同胞(障害児者本人のこと)とのかかわりの中で保護的役割を担い、同胞や親子関係に関して怒りや不満、不安などを抱いているがそれを抑圧して適応しようとする。しかし、ストレスが高まると抑圧していた感情が身体症状や問題行動等といった形で表出したり、同胞とのかかわりを避けるなどして対処しようとする。
③青年期は周囲に対する意識が強まる時期で、同胞に対する葛藤も大きくなる。自分自身を模索する過程で親やきょうだいと心理的距離ができると、同胞との関係も肯定的に認識できるようになるが、結婚や親亡き後の問題を考えざるを得ない青年期になると、また不安や負担感を感じる傾向にある。
④同胞に対して両価的な感情を抱いているが、日常的な関わりかわ同胞との関係を独自に意味づけている。葛藤しながら関係を築くことが、きょうだいの人格的な成熟にも繋がることにもなる。
 上記のことは比較的同胞との関係が良好である可能性が高いため、否定的側面も肯定的な側面も一義的に捉えることはできないと田倉は示唆している。
 また、親ときょうだいの間には同胞をめぐる思いにズレがあり、親はきょうだいに自由な選択を求めつつ、きょうだいは同胞の存在を抜きに考えられないなど、両者には思いのずれがあることも指摘されている(矢矧・中田・水野、2005)。これに対し戸田(2012)は、2012年1月に札幌市でおきた知的障害のある女性とその姉が自宅アパートで孤独死した事件をうけ、親はきょうだいに対し「障害児者のことを心配せずにあなたはあなたの人生を歩みなさい」というけれど、きょうだいは親の言葉の近協が不安定であることに気づき、言葉とは裏腹に「親は、本当は障害児者の面倒を見てほしいと思っているのではないか」と考えているのではないかと示唆している。
 また戸田(2012)はきょうだいの中には自分の年齢・発達段階には不相応な過大な役割を要請されるものもいることや、障害者の代わりに「勉強ができる子ども」「スポーツが万能な子ども」といった役割を期待される者もいると指摘している。また多くの役割が与えられるきょうだいは、遊びの時間が制限され、結果として友人と疎遠になったり、経験不足が不足する場合があるとしている。さらに戸田は、自分の担っている役割が他者に要請されたものか、生活の状況から「自分からすべき」と判断したものか、あるいは自分の本来的な欲求から出発したものかが区別できない者もいると論じている。また親がきょうだいに向ける期待・要求が転嫁し、それが「きょうだい自身の要求」として語られるなどのケースもあり、これは「不適応」を起こさなければ問題となることはないが、それの要求はきょうだい自身の本来的な要求・ねがいが相対的に低く抑え込まれた結果としての有り様ではないのかと問いかけている。また田中(2012)は、親たちであればもっといるネットワークをきょうだいは持っておらず、障害者ともども社会的に孤立する可能性も大いに考えられると論じている。
きょうだいに生じる問題を解決する為に必要な事として田中(2012)は、家族に障害者本人のケアの第一義的責任を強要する社会の在り方を変える他はないとし、その際に重要と思われる視点を3点挙げている。第一に障害者の生活を組み立てるに当たって、家族には家族以上のことを求めないことが必要で、そのためには障害者自身のライフサイクルに応じたノーマライゼーションの実現に向けた支援が必要であるとしている。また療育や訓練や医療的ケアなどの専門的知識や技術を要するケアは当該専門職によって担われるべきとも指摘している。
 第二に家族のバランスに配慮した支援と、それと同時にそれぞれの関係性とライフサイクルに応じた家族の全体性への着目も重要であると論じている。
第三に、家族が社会的支援を必要とする「当事者」である現状においては、「障害者の家族」として社会参加できる場面をつくることが必要であるとしている。父親やきょうだいなど、それぞれの立場に必要な知識や関わり方などを提供する学習会や、悩みや問題を共有できる自助グループなども有効であると論じている。

 次にインタビューで得られたことを以下にまとめる。
 夏休みのインタビューでは、2名の障害を持つ人物のごきょうだいに協力いただいた。協力者は筆者の知人である。
 1人目(Dさんとする)は弟が知的障害最重度であり、現在共に生活をしている。男性。
 2人目(Eさんとする)は妹がADHD(注意欠陥多動性障害)であり、現在一人暮らしの為に離れて暮らしている。男性。
 二人は知人同士であるため、同時にインタビューをさせていただいた。

 インタビューで聞いたことをまとめると①障害児者がきょうだいにいることで、良かったこと、嫌だったこと、困ったこと、②親からの期待はあるか、親への要望や不満はあるか、③将来や結婚について、④きょうだい児同士での交流はあったか、どんなことをしたか、⑤どのような支援があったら助かったか、というような内容であった。
 まず①障害児者がきょうだいにいることで、良かったこと、嫌だったこと、困ったことだが、一般家庭よりも障害児者に対して理解があるというところと両方の人物が語っていた。家族のつながりが強くなったという意見や、自分の進路選択のきっかけになったという意見もあった。
嫌だったことや困ったことでは、同級生の妹や弟を見ていて、自分のきょうだいとは違う発達で、他の子はできていることが自分のきょうだいはできないという差を感じるという意見や、お兄ちゃんとして、親がいない時とかに面倒を見なければならなかったという意見がでた。また同級生の子たちに心無いことを言われたということや、教師からの障害児本人へのいじめがあったということも語られた。

 ②親からの期待はあるか、親への要望や不満はあるかで、期待については面倒を見てほしいとかはあるけれど、多く期待されることはなかったと語っていた。Dさんは、面倒を見るのが当たり前で、それが特に苦であったことはないとも語っていた。また障害のあるきょうだいには勉強が望めないので、自分に期待されていたということもあったという意見もあった。親への要望や不満は、障害がある本人に絡んだ不満等は特に出てこなかったが、Dさんは父親があまり子どもの面倒を見ないので、自分が父親代わりになっていたと語っていた。

 ③将来や結婚については、結婚した場合、障害に対して理解のある人を見つけられるか、またパートナーが受け入れてくれても、相手方の家族が受け入れてくれるかわからないと危惧する意見が語られた。またその場合、施設に入れたりコーディネーターを付けたりということになるのではと語っていた。

 ④きょうだい児同士での交流では、2人ともあったと語っていた。友達ができるきっかけになり、母親同士の交流とかもあったので良かったという意見もあった。

 ⑤どのような支援があったら助かったかという話では、アドバイザーなど、障害への知識を得られる場が欲しいという意見や、地域理解がもっと広がると言いという意見、他にはきょうだい児自身が主催者としてセミナーのように、体験したこと等を発信していける場があればいいという意見があった。

 インタビューから、障害児のきょうだいである環境にいることにより、特有の悩みや問題があることを感じた。特に筆者が印象に残ったことは障害を持つきょうだいの面倒を見ることが当たり前で、苦痛に思ったことはないという意見である。これは文献の中にも出てきたことであるが、不適応を起こしていないので特に問題となることはないが、きょうだい自身の本来的な要求・ねがいが相対的に低く抑え込まれた故の結果であり、それは果たして良いことであるのかという疑問を抱いた。
 

 以上が夏休みの間に行ったことである。
 今後の課題として、「春学期に行ったこと」の方にも書いた課題に加え、上記にはないのだが今回のインタビューの際にでた「きょうだい児は姉や兄といった上の立場の人が多い」ということを踏まえ、可能であれば妹、弟の立場の人物にインタビューをしたいと考えている。

参考引用文献
・広川律子(2012) 障害児のきょうだい問題とその支援 障害者問題研究第40巻第3号 2012年 p2-9.
・田倉さやか(2012) 障害児者のきょうだいの心理的体験と支援 障害者問題研究第40巻第3号 2012年 p18-25.
・田中智子(2012) きょうだいの立場から照射する障害者のいる家族の生活問題 障害者問題研究第40巻第3号 2012年 p26-34.
・戸田竜也(2012) 障害児者のきょうだいの生涯発達とその支援 障害者問題研究第40巻第3号 2012年 p10-17.
・矢矧陽子・中田洋二郎・水野薫(2005) 障害児・者のきょうだいに関する一考察――障害児・者の家族の実態ときょうだいの意識の変容に焦点をあてて 福島大学教育学実践研究紀要,
48,9-16.