学級における問題解決について

義務教育期間において何事も不安が無く、一切悩みや葛藤を抱えずに9年間を終えた人物は極めて少数派である。

学級経営において不安や問題を抱える生徒が現れるのは間違いない。そしてそれらは花瓶

を割ってしまったり、プリントを破いてしまったなどの、後々思い返せば気に留めるまでもなかったようなその場で解決するものもあれば、いじめや不登校などの複雑な人間関係や生徒自身の葛藤の中で生まれる深刻なケースのものなど学校生活において悩みの種は各所に発生する。その数は各年度の文部科学省調べの『長期欠席児童数:小中学校』から明らかにすることが出来る。平成25年度時点で、前年度比で約7千人の増加(小学校約2万4千人…約3千人増加:中学校約9万5千人…約4千人増加)が見られるあたり生徒が抱える問題をどうせ前者であろうと楽観的に見ることができる状況でないことがわかる。

そしてそれらは学校生活外の習い事や家庭での時間といった教師の目が行き届かない生活部分においても例外ではなく、受験を控えている場合などによってはそちらの方がより大きな問題の原因となることがある。

更に、心身ともに著しい発達を遂げる義務教育期間の子どもはその学年、年齢によって抱える問題にも違いが出てくるものであると考えられる。

それらの問題の中には放っておけば解決するものもあるのかもしれないが、最近では2011年の大津いじめ事件を始め、生徒の異変を察知していても放置していたために取り返しのつかない大事件になってしまった事例が増えている。

当然学校教育の問題だけが原因ではなく、都市化現象による過疎・過密の問題(人口流動の社会現象の引き起こす問題)、高度経済成長期に生み出された公害問題、政・官・業界における多発化した収賄・賄賂事件にみる腐敗問題、公務員の社会責任の低落化、労働組合の官僚化による労働争議の低次元化や労使の癒着化による抗菌処理問題、日本の思想界・言論界の混迷と脱落(レッド=パージ以後のマルクス・レーニン主義思想の復活に伴う大学教授の左翼思想の展開)、個人主義の崇拝、社会規範の崩壊、欧米の文化的植民地化の温存と存続など挙げはじめればきりがない社会問題も関わってくる。

たとえば、アメリカの教育政策と非常に似ているもの(昭和43年の学習指導要領改訂<「教育の近代化」>、小学校の算数科に導入された集合論・確率論は数年後に除去される)、知識偏重教育の否定からの「ゆとり教育」への転換、経験学習・体験学習を重視する教育への転換政策での「総合学習・横断学習」の導入(これはイギリスのクロスカリキュラムに酷似している)、いじめ問題、不登校問題、青少年の犯罪の凶悪化(ネット社会での新たな犯罪)、家庭内いじめ・虐待問題、家庭教育の問題(母子家庭・父子家庭の増加)、モンスター・ペアレントの問題などは、現在の学校はまさに複合化された社会問題までも背負わされ、『学校は機能不全に陥っている』と評されるほどに子どもの学びの本質の喪失化に歯止めのかけようのない様相を呈している。

学校は子どもにとって『楽しく、ともに学習する場所である』という考え方は戦後教育のなかで「いつ頃まで」だったのか。このような素朴な疑問を抱かざるを得ない問題が学校でこれまで起きてきたし、今もなお起きている。1968年、戦後23年が経過する中で高等教育機関にてそれまで起こらなかった異変が生じる。それは、1968年1月29日に起きた東京大学学生自治会が医師法改正に反対して無期限ストライキに突入するという事件である。同年4月15日には日本大学で20億円の使途不明金の発表で、日本大学の紛争が起こり、9月30日には日本大学全学年共闘会議系1万人により当時の会長と団体交渉となった。その後、大学紛争事件が多発していく歴史的環境はまさに戦後の日本の大学教育を根幹から揺るがすことになり、昭和46年の中央集権審議会の「四六問答」の中には大学自治に関して強硬な管理運営体制に関する事項がある。大学問題を含め、昭和40年代の公害訴訟運動、学生運動、春闘と呼ばれる労働争議から発展するストライキ、市民運動等は、公権力や国家権力へ戦いであったのではないかと想定される。しかしながら、小・中・高校の教育は高度経済成長によって生み出された学歴社会を是とする社会環境の下で、受験学力育成の教育システム化を背負うことになる。そのことを証明する顕著な例は昭和43年度の学習指導要領の改訂と高等学校への進学率の増加現象である。この改訂は『その後の学校教育を根底から崩壊させる大きな原因の一つとなり、高校進学率の上昇は高校教員の確保の問題、学級定員数の増加、開放制教員養成の大学教員の資質・能力の問題(大学の乱立)、高校教員の資質・能力の低下呼び込むことになる。』1)としている。つまり、学校教育が根底から揺さぶられ、先述の問題の原因が発生するに十分な条件を整えてしまったということである。学校教育の問題は社会的要因によって引き起こされるという、それも特に文部省の教員養成機関に対する管理監督行政の脆弱性に尽きると言える。つまり、開放制教員養成機関における中学校・高等学校の教員免許取得制度を占領政策下で樹立されたままでの時代環境の産物として後生大事にしてきたことに危機感を感じ得ないレベルで推移していたということである。

昭和40年代の教育的病理現象としての学校内暴力事件や家庭内暴力事件が多発して「教育荒廃」という言葉が生み出され、戦後の学校教育史上、学校不信・教育不信は大きな社会問題としてクローズアップされた時代から、大同小異で教育問題はくすぶり続けてきている。その最たる教育問題は学力問題といじめ問題であり、この問題は実は車の両輪と言える種々の係わりがあることを認識しなければならない。学力問題もいじめ問題も教育病理現象の最たる現象であると考える。たとえば、学力問題は排除化の論理・差別化の論理・疎外化の論理等を内包性があるとも考えられる。

かつて、教育病理について、『学校の病理とは』というテーマで、広島大学教授・新堀通也が以下のように論考している。

『今日の教育、中でも学校が数多くの病理をかかえ、すべての関係者を苦悩に陥れていることは言うまでもない。落ちこぼれ、学校ぎらい、勉強ぎらい、無気力、登校拒否、エスケープ、家出、自殺、器物破損、校内暴力、いじめっ子、番長グループなど、思いつくまま挙げてもほとんど際限がない。これらの病状がいかに広範かつ深刻になっているかは、警察の統計や官庁の白書、研究報告やルポタージュ、新聞の記事などを読めば直に明らかだし、学校、児童相談所、警察、スーパーなどの関係者は日ごろこうした教育上の病人を絶えず観察し、その対応に頭を痛めている。』

これらの教育病理の激化はすでに10年ほど前から広く認識、憂慮され始め、学校では生徒指導、生活指導、カウンセリングなどに力を注ぎ、社会では青少年育成、非行対策、スポーツ振興、「親子話し合い運動」、「一声運動」など、国でも地方でも多くの審議会や組織が設けられ、多くの答申や政策が打ち出され、地域ぐるみの運動が行われるようになった。だが、こうしたおとなの努力にもかかわらず、病状は一向に治まる兆しを見せないどころか、悪化の一途をたどっている。「一声運動」については声をかけた者が不審者と間違われて通報が行われ、逮捕者が出るという事態も発生しており非常に敷居の高いものとなってしまった。大人だけではない。むしろ当の子ども自身こそ最も悩み苦しんでいるのである。彼らは何も好き好んでいじめを行い、非行に走り、無気力に陥るなどして教育上の病人になっているわけではない。病気には病因がある。病気の症状と原因を診断してやる必要がある。

改めて教育病理とは、本文中において最初に挙げた落ちこぼれ以下の諸例が示すような病気である。それは教育の対象たる子ども自身に現れる病理現象、問題現象をさす。これに対して教育自体が病的であり不健全であると判断される場合がある。病的教育(病理的教育)のもとで病的な子ども(教育的病理)出現するのは半ば避けようがないため、それは教育的病理の原因だといってよい。病理的教育にメスを入れない限り、個々の教育的病理を対症的に治療しようとしても限界がある。

また教師はそういった状況下の子ども30人1学級に対し1人であることに加え、スマートフォンの普及に伴うSNSやメールサービスの使用年齢の低下から教師が見ることが出来ない人間関係が構築されている。そのため学級全員分の問題の当事者になれるはずもない。その上状況の説明を受けるのも小学生の拙い表現に頼る場合がほとんどであることから、多くの場合は周囲の状況から教師自身が判断し、問題解決に取り組むことになる。こういった状況に対し『我が国のようなホームルームたるクラスルームを唯一の固定的な教授=学習集団、つまり自給自足学級という考え方を基本に維持しているような場合は、子どものニーズや教師の特性(タレント)に適合した教授=学習集団の編成は非常に困難だということになるであろう。』として学級制自体に対し疑問を示す意見も表れている。そういった教育現場において『自身が新任であるからきちんとした対応が採れなかった』というのは全く言い訳にならない。解決しないままの問題を抱えた上では教科の授業や各行事も非常に教育的効果が薄いと言えよう。またその効果が薄いだけではなく悪化する危険性、つまり『不登校』『自殺』等の深刻な問題へ繋がってしまう場合も十分に考えられる。私はそれらの解決を指導し、生徒の助けにならなければならないと考える。現場に立って1年目からベテラン教師のごとく充実した学級経営を行うことは非常に困難であることは理解しているが、小中学生は一体どういった問題を抱える傾向にあるか、そしてそれらを如何にして解決したかを調べようと思う。

学級経営という表現を用いた。学級とは各学校が教育実践の場として設けた実践的単位の1つである。それにおいて学級経営とは学級を単位として展開される教育的指導を効果的に行うために必要な諸条件を整備することである。学級における教育指導を効果的に行うためには、学級王国的な思想、生徒を上から押さえつけるような支配的方法ではなく、組織的な教育の実践的な展開という学校教育の特質に即した学年・学校のレベルとの協調的な関係の樹立、いわゆる『生徒と共に学級を作っていく』といった関係の樹立が必要である。諸条件の整備としては、教育情報の収集、選択、活用に特に気を付けることが基本となると話を聞いた現役の教員の方々は口をそろえる。「棚からぼたもち」式の構え、上記の活動に気を配ることなく教育を行う中で偶然効果が得られたといったような状態をやめ、自ら情報を作り出すという姿勢が無くてはならない。1)とあるように、学校教育における「学年」・「学級」の位置については、制度としての学校教育は、学年(grade)及び学級(class or classroom)という具体的、実践的単位を中心に発達してきたと言っても過言ではない。歴史的には、年齢を重たる基準とした学年制がまず発達したが、同一学年のこども集団の量の増加が、教育実践の基底的単位としての「学級」制度の発達を促したということができる。特に日本の場合、学級というものを著しく固定的に捉える傾向は今日においても強い。自給自足的な学級、つまりクラスルームとしての学級を意味する。

小学校における学級担任制は同時に一人の教師の指導のもとでの、固定的な子ども集団の編成を意味している。中・高等学校における教科担任制の場合でも、子ども集団の編成を固定したままである。「学級」をクラスというようにとらえるとき、はじめて子ども集団についても、教師集団についても、弾力的な編成が可能となる。ホームルームとしての「学級」は、異質編成(heterogeneous grouping)で、授業等の教育活動のためのクラスとしての「学級」は、子どもの特質や適性による等質編成(homogeneous grouping)または弾力的編成(flexible grouping)で、というような発想が可能になってくる。

また、教師集団の編成については、数名の教師がチームを作り、指導計画や授業の実施、教育評価などの面から複数学級の生徒を弾力的にグループ分けしながら行う授業の形態であるチームティーチングの協力授業、やdifferentiated staffingが考案されてくるといってよい。

全教科担任制を原則とする現在の日本の小学校にあたっては、常に同一の教師が教壇に立つことから授業方針及び学級方針を一本化することができるため個性的な学級指導や学級経営を可能にできる。だがその反面組織的な協働体制という観点からみると、個々の教師による恣意性の温存を残すことなる。また教科担任制を原則とする中学校や高等学校にあたっては、担当の強化を通してしか学級における教育指導に携わることが出来ない。このことは、教科指導を通じて、同一学年の全て、または担当数の子ども集団に接することはできても総合的な学級集団の把握という点で問題が残る。この意味で、学級経営の効果的な展開にとって、なんとしても学年経営との関連が重要になる。学年経営は、いわば授業と経営の接点にあるといえる。学級経営は実態的には経営的配慮の必要性という点では、学年経営に比べて切実感が書けるように見受けられる。そこで学年として経営的配慮を加えることによってはじめて、学級経営の効果的展開を確保することが可能になると考えた。

ここで「学年として」というのは同一学年の教師集団がその学年の子ども集団全員に対して、基本的にいかなる教育サービスを提供できるか、またそれを効果あらしめるためには学年教師集団としては何が必要であるかを考えるという意味である。このことは、学級経営の個性を否定しているわけではない。むしろこのような経営努力があってこそ、はじめて個性的な学級経営とは何かが明瞭になってくるというべきであると考えている。

また、学級担任と学級経営については学級経営にあたる者の望ましい姿勢として、大部分の教師が学級経営を行っている。特別に難しい仕事ではないと簡単に考えがちである。しかしながら効果的な学級経営を進めるという意味からは、計画の段階でも日常実践の段階でも、ともに容易な仕事ではないはずである。理論的・組織的な考え方と指導技術を用意しなければ、効果ある学級経営は望めないだろう。人と接し人と相対し人に教え、指導し人と過ごすという仕事において決して容易な仕事など存在しないのだ。学級経営にあたる教師は、経営計画に必要な理論と経営実践に欠かせない指導技術とを身に着けて、児童生徒の前に臨むことが必要である。それが学級における経営者、すなわち教師としての望ましい態度であるといえる。それは教師の直接的な対応はもちろん、周囲の環境づくりや日頃からの生徒指導、学校内外との連携などについても調べていくつもりである。そしてそこから自身が教師になった際には何ができるのかを考えていこうとも思っている。

先述の通り子どもが抱える問題は多種多様である。それらを一括して一つの解決策を見つけようとするのはあまりにも乱暴である。その為本研究ではまず、子どもの抱える問題の種類を大きく以下の2つに分類する。1つは家庭環境や習い事などの生徒が学校の管理の外となる登校前、下校後の『学校外部型』である。もう1つが授業内やクラス内、放課後および部活動内などの子どもが学内に滞在している時間内に起きる『学校内部型』である。学校の外部と内部に分けた理由としては、教師がどれほど関われるかという生徒との距離を学校外と学校内で分ける必要があると考えたことが挙げられる。その距離とはすなわち教師が対応を取れるまでの時間であり、その対応がどれほど密に執れるかという、量と充実度を表している。この考えは本研究の最終目標が自身が教壇に立ち、生徒が抱える問題を発見した際の対応をより効果的なものにするという旨のため、自身が生徒を観察できる行動時間の大半を占める学校内での対応に重きを置くことを考えているためである。

学級担任の仕事は、教育活動と経営活動との2つに分けて考えることが出来る。また、見方の違いによるのだが、教育課程に管理の進行、教育課程外の一切の管理と指導の2つに分けて考えることもできる。あるいは、学校―学年―学級という経営体系の構成の一環としての学級経営実践と、教室(環境)―児童生徒(人)―教材(教育課程)という条件整備を図る自主経営実践とに分けて考えることもできる。

これらの理由から先述の2分類に加え、さらに『人間関係』と『学習内容』の2つに分類していく。

『人間関係』とは休み時間や部活動の時間、休日などの時間で発生した問題が分類されるものである。『学習内容』は授業内や塾などの学習が核になる問題が発生した場合に分類されるものである。

つまりこの研究における子どもの問題は全部で4種類のいずれかに分類される。

たとえば「塾での成績が上がらない」といった問題を抱えている場合は『学校外部型』の『学習内容』に分類される。

クラス内での生活は常に授業と人間関係が非常に密接した関係にあるため『人間関係』と『学習内容』の2つの側面を持つ問題も発生してくることが予想されるが、その場合はどちらの性質が発生した問題に対して影響が大きいかで分類していく。

本研究におけるデータの基となるのは書籍と官庁発行の資料及び発行者が信用に足るものとする情報と柏市内の現役小学校教員への聞き取り調査と大学生および高校生へのインタビューである。インタビュー対象を高校生以上としたのは当時の状況を時間の経過によって自身を冷静に見つめなおすことが出来る時期が、データとして用いるにあたって最も適したものになると判断したためである。インタビューの様子を掲載する部分としては自身の発言を●で、インタビュー相手の発言を英文字1字、敬称略で統一する。

まずは『学校外部型』の『人間関係』である。『学校外部型』の『人間関係』の分野については、ここ10年で近年塾を含める習い事を行う子どもが非常に増えているとT先生は述べている。

以下は男子高校生Eさんに対するインタビューの該当部分である。

 

Eさんへのインタビュー(抜粋)

●「Eさんは小中学生のころに何か習い事をしていましたか?」

E「小学生の時は塾とサッカーをやっていました。」

(※中略)

●「ところでサッカーというと、クラブチームですか?」

E「そんな本格的なものじゃなくて、少年サッカーです。」

●「どう違うのでしょうか…?」

E「クラブチームっていうのは、大人のプロのサッカーチームの子ども版です。選抜されていくとそのままプロのチームに入れたりするものです。レイソルとかジェフ千葉とか…で、そうじゃないのが少年サッカーです。」

●「なるほど、そうするとEさんはそんなに毎日ハードな練習をしていたわけではなかったんですね?」

E「(小学生当時の)自分なりにはきつかったですけど、土日の週1か2でしたし楽でしたね。」

●「そこでの人間関係で何かトラブルはありましたか?」

E「いつもはそんな感じ(後述の『ギスギス』)じゃないのに試合が近くなってレギュラー争いになるとギスギスしてたです。」

●「というと結構大きな少年サッカーチームだったんですね。ケンカが起きたりしませんでしたか?」

E「いや、小さかったです。20人くらいの。だからレギュラーに入れないと雑魚みたいな感じになって、うまいってわかってる人以外はわざと転ばせたりとか同じチームでもパスしなかったりとかありました。ケンカなんてしょっちゅうです。」

●「それに関して監督は何か注意をしてましたか?」

E「『たとえうまくても仲間の邪魔をするやつはレギュラーには入れない』的なことを言ってたような気がします。」

●「改善は…」

E「注意されて少し(の間)はちょっとよくなるんですけど、だめですね。凄いうまいやつが2人いてそれ以外はみんな同じくらいだったんで。」

●「Eさんはその2人の内の1人だったんですか?」

E「ゴールキーパーでした笑」

●「するとそのレギュラー争いからは距離があったんですね。するとEさん自身はその少年サッカーでは問題はなかったんでしょうか?」

E「ないことはないですけど、少なかったです。」

●「覚えているものはありますか。」

E「紅白戦みたいなのでゴール守ったら(シュートした子から)『何で取るんだよ』って言われたりしました。」

●「随分とまた理不尽な言いがかりですね…。それはそこで(後を引きずることなく)終わったんですか?」

E「(それまでは普通だったのに)突然仲悪くなりました。(シュートした子は)その時のレギュラーに選ばれなかったと思います。」

●「後に引きずってしまったんですね、その子と学校は同じでしたか?」

E「違いました。でも中学校で同じになって、部活もサッカー部で同じになってずっと仲悪かったです。」

●「中学校になっても解決しなかったんですね。中学校では何か注意されたり相談したりはなかったんですか?」

E「仲が悪いって言ってもパスしなくなるくらいで。で、自分は(中学のサッカー部でも)ゴールキーパーだったので絡みはそんな多くないんで、そんな相談するほど嫌じゃなかったです。周りも「なんかあの二人話さないな」くらいだったと思いますよ。」

 

このEさんへのインタビューでは小学生時代における競技スポーツの負の側面が出ている。レギュラーメンバーとして選出されるか否かという自分の力が他者によってそれが試合に出られるかどうかというわかりやすい明らかな形で示されることは、選出されれば子どもの自信や経験を、選出されずとも自己を見つめなおす機会や我慢すること、不屈といった、子どもの成長に大きな役割を果たすことは間違いない。だが今回問題として挙げられるのはそれに至るまでの過程である。『わざと転ばせたりとか同じチームでもパスしなかったり』という部分に代表されるようないわゆる陰湿な行為により、レギュラーメンバー選抜という機能の効果を著しく低下させているのだ。それが子どもに通常では本人でもおかしいとわかる理不尽な発言を生ませ、人間関係に亀裂を生んでいくことになる。そしてそれが学校内にまで及んでしまっていることもわかっている。学校外の休日期間、それも原因となる事件が起きたのは小学校時代となると中学校の教師がその詳細を知ることは困難である。

部活動や委員会の顧問へクラス生徒の様子を聞くことで問題が学校に及んだ際には発見及びその後の対応への移行は早くすることが出来るが、原因となるものが学校の外部となる以上対応は限られてくる。

 

次に『学校外部型』の『学習内容』についてである。

ここで対象とされるのは塾や予備校といった民間学習施設の他に家庭学習も含める。ここでインタビューを行った人たちが皆発言及び賛同したことは中学校と小学校とで塾の様子も急に変わるということだ。中学校は部活動内における先輩後輩の立ち位置をはじめとした上下の人間関係や教科担任制、定期テストの実施、成績の順位付け、学習活動の延長線上にある高校受験等という小学校とは何一つとっても異なる空間が広がっている。そしてそれらの変化に適応しきれない子どもが不安から不登校やいじめの被害に遭う現状から『中1ギャップ』という用語も存在する。この『中1ギャップ』という用語は近年非常によく聞かれるようになりこれに関する書籍も多数発行されている。だが定義としては非常に広範なものであり、「問題行動調査」の結果を学年別にみると、小6から中1でいじめや不登校の数が急増するように見えることから、今では小中学校の接続の問題全般に用いられるようになっている。

確かに先に述べたように小学校から中学校への移行においてはその環境が大きく変わることは間違いなく、表面化した問題を抱えずとも多くの子どもが不安を抱え、混乱し、悩んだはずである。だがそれらすべての問題の原因が『中1ギャップ』によるものだと考えるのは急ぎ過ぎであろう。「家庭や地域の教育力の低下もあって、小学校が抱える問題は従来と比べものにならないほど増 えてきたと言えるでしょう。その結果、小学校段階で予兆が見えていたり顕在化し始めていたり する問題であっても、対応できなかったり解決できなかったりという「積み残し」や「先送り」 が増えています。一方、中学校でも、そうした小学校の状況を十分に把握しないまま、あたかも中1をスタート ラインにできるかのような昔のイメージを脱し切れていない学校が多いのではないでしょうか。 中学校区単位で連携を進めていかなければ、中学校の課題が解消することはありません。」3)とあるように、多くの問題が表面化するのは中学校段階からだとしても、じつは小学校段階から問題が始まっている場合も十分に考えられる。

以下のインタビューではそれら『学校外部型』での『学習内容』の問題がわかる。

Oさんへのインタビュー(抜粋)

(前略)

●「Oさんは塾に行ってはいなかったんですか?」

O「小学校の、5年のころから行ってました。」

●「小5の頃から、というと中学受験を考えていたのですか?」

O「いえ、特にそんな風もなくて、ただ勉強ができるようにって行かされてました。」

●「自分で望んで行ったわけではなかったんですね。」

O「正直嫌でした笑。遊びたかったです。」

●「嫌々だと勉強しても意味が薄そうですね…。その塾はみんなそんな感じだったのですか?」

O「上のクラス(中学受験を念頭に置くクラス)は(塾講師が)付きっきりで頑張ってましたけど俺らのクラス(中学受験を考えていないクラス)はとりあえず来てるって感じでした。」

●「塾を辞めたいと思うことはありましたか?成績とかが嫌で。塾の中には受験クラスじゃなくても小学校時代の時から成績を順位づけて発表するところもありますが。」

O「怒られた記憶が…あんまりないので塾が嫌って感じることはなかったです。」

●「塾は嫌だったのでは?」

O「成績とかで行きたくないって思うことはなかったです。です。すいません笑。」

●「成績面では問題を抱えることはなかったんですね。人間関係で悩みとかはありましたか?」

O「人間関係なのかわからないですけど、中学校に上がるとき塾の感じがいきなり変わったのでびっくり…」

●「混乱というか『中1ギャップ』みたいなものが塾でもあったんですね?」

O「はい。いきなり先生の口調が荒くなったり、成績成績言うようになったりして。」

●「それは小学校時代と同じ塾で、ですか?」

O「はい。そう(特定の塾名が入る)です。」

●「他にはどんな問題が起きましたか?」

O「宿題の量が倍くらいになって、学校の宿題も増えて両方やりきれない時がありました。」

●「宿題の量が倍というのは、受験クラスに変わったからとかではなくて、ですか?」

O「はい。受験クラスに入ったのは中3になってからなので、そうですね。」

●「そのことは誰かに相談しましたか?」

O「いやしなかったですね。その時はそれどころじゃないほど他が忙しかったりしたので。」

●「バスケ部とかですか?」

O「はい、バスケ部ですね。毎日遅くまでやってたのでそこから塾だと疲れててダメです。」

●「集中できない状態で塾へ行く感じは変わらなかったんですね…。すると先ほど話したようにテストでいい点を取るのが『マグレ』として扱われてしまうんですね。」

O「はい笑。小学校の時より授業に置いて行かれるので『塾行ってるのになんで』ってなってしまって。」

●「気力も落ちてしまった。」

O「はい。」

 

 

次に『学校内部型』の『人間関係』である。これに関しては最も多くの意見とデータが得られた。以下は大学生のYさん、Oさん、Kさん、専門学校生のMさん、高校生のEさん、Aさんに対するインタビューの該当部分である。

調査を行い始めてまず目立ったのが身体的発達に関する事項であった。

 

Yさんへのインタビュー(抜粋)

Y「私は(中学時代は部活の)バレーボールしかしていなかったので、怪我によく悩まされました。」

●「どこの怪我をしたんですか?」

Y「捻挫や打撲はしょっちゅうで、そのたびにテーピングや包帯を巻いていたのでオシャレな中学生にはなれませんでした。(京都への)修学旅行には松葉杖をついて行きました。」

●「それは骨折で、ですか。」

Y「靱帯断裂です。」

●「それで京都を回るのは大変だったでしょう、班の人は何か言っていましたか?」

Y「大丈夫と言っていましたが、内心面倒くさかっただろうと思います、私でも面倒くさかったと思いますもん笑」

●「実際に人間関係の、、、ズレ、、、?が表面に出てきてしまったことはありますか?」

Y「女子はそういうところは妙に陰湿なので、表には中々出ませんでしたが、どうしても部活に入れ込んでいると話す時間が短くなるし、怪我のままではお買いものに行く気も起きないので」

●「クラスの他の女子の話についていけない」

Y「はい、ファッションはもう駄目でした。芸能情報とかテレビ見て、好きだったのでよく話せたんですけど。」

●「Yさん自身オシャレに興味はあったんですよね?」

Y「ありましたけど赤く腫れてる腕じゃもう駄目ですよね、テーピングも部活中は良いですけど下校中とかで人目に触れるのはあんまり、嫌でした、あ、そう、背が高かったのも嫌でした。」

●「外見的にも気になっていたんですね」

Y「部活中は、最高だったんですけど笑」

●「じゃあクラスで楽しく話せる時間は無かったのですか?」

Y「同じバレー部とはめっちゃ楽しく話してました、今でも時々集まります笑」

●「じゃあそんなに居辛い思いはしなかった?」

Y「いや居辛かったです。クラスにバレー部なんて1人2人しか居ないですので、結局話してる時間はオシャレ女子?のほうが長いです。芸能界(の話題)だってすぐにオシャレ(の話題)に飛びますからそこでは適当に相槌打ってるしかなくて。」

~中略~

●「その問題は解決したのですか?」

Y「部分的に?しました笑」

●「…部分的?どういうことですか?」

Y「解決した時もあったんですけどそうじゃない時もあったんです。」

●「詳しくお願いします。」

Y「一回大会で良い成績を残して表彰されて、女バレ(=女子バレーボール部)の活動が全校に知られるようになって、こんな練習してるんだってクラスの人に伝わったときはテーピングとかが見えても『ああ頑張ってるんだよね』っていう感じになりました。」

●「そんなに報じられるのは、相当いい成績だったんですね?」

Y「関東大会で3位です笑」

●「それは確かにクラスからの見る目も変わりますね。けど、それでも解決しないことがあったのですよね?なんだかうまくいきそうに聞こえるのですが…」

Y「女子の話題が変わるわけじゃないですしね。その話(=関東大会好成績の話)もずっとしてるわけじゃないですから。(話題の熱が)冷めたら、ほぼいつも通りです。」

※別のインタビュー部分でYさんの通っていた中学校の近くには比較的大型のショッピングモールが存在しており、休日に女子は頻繁に赴いているということもわかった。

 

このインタビューでは、Yさんが女子バレーボールの部活動に打ち込み、学校生活における第一の目標としていながらも、それによって起きてしまう怪我の痕や補強の為のテーピングが人目に付くことへの嫌悪感が表れており、それが思春期において興味を示すであろう服やアクセサリーなどのファッションへ向かわせる気力を失わせていることがわかる。Yさんのクラスにおいて女子の間ではそういったファッションの話題が非常に重要な要素であったことから、結果としてその話題について行けないYさんとクラスの女子との間に『人間関係のズレ』を生む問題の原因が部活による外見の変化であることがわかった。

だがここでは明らかな、最早直接的な答えとも言うべき解決へのヒントが示されている。

それはクラスのメンバーによるYさん及び女子バレーボール部員への理解である。Yさんは大会において非常に優秀な成績を修めることによって学校内においても表彰され、『ああ頑張ってるんだよね』という言葉に代表されるように、怪我などのYさんの気にする外見に対する理解が生まれている。

『理解』が人間関係において大きな役割を果たすのは間違いない。それは過去にハンセン病やアフリカ系の民族のように正しい知識の不足による誤解が悲惨な差別があったことからも証明される。特に黒人差別の問題はキリスト教教会による扇動が原因の1つとして挙げられており、指導者の発言がいかに責任を帯びているかの再確認にもつながる。

学級における指導者が正しい知識、ここでは問題の渦中にある生徒の状況を知らせたうえで多面的な視点を持たせられるように指導を行い、学級における理解へつなげていくことが重要であると分かった。

だが学級集団において広報という手段はそう単純にいい方向へ機能するものでないことがMさんへのインタビューで明らかになる。

 

Mさんへのインタビュー(抜粋)

M「私は小学校のころからませてたので、勝手にお化粧してみたりしてました。ファッション雑誌も買いました。」

●「早いころからオシャレに興味があったんですね、それだと悩み事も、美?に関することでしたか?」

M「はい、カミソリの使い方とかお母さんに聞いたりしてました。」

●「自分はそういった分野に疎いのですが…他にはどういった悩みがありましたか?」

M「もう山のようですよ、ネイル、ツメをきれいにしたいとかさっき言ったムダ毛をなくしたいとか、リップクリームの選び方とか、あとはニキビは本当に直したかったです。」

●「なんだか悩みというより願望に近いですね。」

M「こうなりたいっていうのもずっと思ってると悩みになるんですよ。」

●「なるほど」

M「ネイルは勉強してても手元が見えればすぐ気になるし、体育とかで欠けちゃったり砂が入ったりすると凄い嫌で一日中隠してました。」

●「そんなにですか、そのクラスはオシャレに敏感だったのですか?」

M「私はクラス内でよくファッションのことを聞かれていたので勝手に『常にかわいくなきゃ』って責任感じてました笑」

●「そうすると、ニキビはファッションにあまり興味のない男子の自分でも結構嫌なものだったので、大変だったと思うのですが。」

M「大変で大変ですごかったです。一日中ニキビのこと考えてました。」

●「その影響は勉強や人間関係に出ましたか?」

M「女子からの目は一気に変わりましたね、いきなりガラッと下に見られるようになりました。」

●「どういったところでそれが出ましたか?」

M「先生とかが見てるところではそんなに変わらないんですけど、小さいとこでシカトされたり、一切相談されなくなりました。何て言っても『いやでもあんたニキビだし』みたいな空気でした。」

●「随分露骨に変わってるようにも思えますが、それでも先生は気づかなかったのですか?」

M「気づいてたのかもしれないけど何もしなかったですし、まず昼休みとか先生がいない時にそういうのがあったので。」

●「相談はしなかったのですか?」

M「しました。最初はニキビをとにかく直したかったので、保健室の先生にしました。そしたらこの時期のニキビはしょうがないとか、食生活が何とかって言われてて、でもすぐよくならなかったので『ああこの先生じゃだめだ』って思いました。」

●「あとは自分で何とかしたのですか?」

M「クラスの先生にしました。そしたら先生が帰りの会で『Mさんはニキビだから~』って説明しちゃって今まであんまり興味なかった男子からもニキビニキビって言われるようになって最悪でした。(クラス担任に対し)何してんのって感じで。」

●「逆効果だったわけですね」

M「完全にそれ(=逆効果)でした。ニキビ治ってからもしばらくニキビって呼ばれてたので、それ(呼ばれるにいたった経緯)知らない子が『何で?』って聞いて広がってって感じでかなり広まったと思います。」

●「それに対し担任の先生は何かしましたか?」

M「一切しなかったです。もう今でも恨んでますあれは。」

 

このインタビューでは先述の通り広報のデメリットとそのタイミングの難しさが表れている。Mさんが当時のクラス担任の広報の内容を詳しくは覚えていなかったが、一言二言の非常に簡単なものであったという。Mさんは先のYさんとは対照的に服装や化粧などのファッションに興味があり、クラスで相談を受けるほどの存在であったことを教師が把握しきれていなかったことが問題点である。

小学生というのは身体的成長が著しい時期であるが、女子においては特にその傾向が強い。そこで身体の成長ホルモン等のバランスが不安定になり、ニキビが現れるという。

そいうった小学生の時期における身体の問題と原因を知っておくことも重要ではあるが、そういった分野は教育とはまた別の専門知識を必要とするため、保健室との連携が不可欠である。インタビュー内におけるMさんはそれらを考慮してか、まずはじめに保健室の先生へ相談を行っている。そこで自分の期待する答え、今回の場合Mさんは直接的なニキビの治療法、それも即効性のあるものを得られなかったため、そのほかの説明に対し集中して聴くことをやめてしまった。そういった生徒が何を求めているか、どういったアプローチが効果的なのかを見極められるということに関してはクラス担任の方が有利と考える。そのために重要なのは普段から子どもの性格を見ることが重要なのはもちろんだが、健康状況の把握が一つの要素として加えられるということである。1クラス30人全員の性格、健康面、学習面等々の要素を全て記憶しているのが理想だが、それは中々現実的に難しいものがある。

Oさんへのインタビューでの該当部分では男子の身体的面に関する状況がわかる。

 

Oさんへのインタビュー(抜粋)

●「私は個人的に小学生の時には足が速くて体が大きい男子は人気があったと感じていますが、やはりそういう傾向はあったのでしょうか?」

O「ありましたね。他にもドッジボールが強かったりとか。」

●「Oさんは小学生のころはそのあたりで何か悩んだりしたことはありますか?」

O「あります。私は背が小さかったのでよく牛乳飲んだりとかして、給食も無理して食べてたりしてました。」

●「背が小さくても足が速かったりすると随分違ったりしますが、そこはどうでしたか?」

O「今までで挙げられた中だとドッジボールで相手の玉をキャッチするのがうまかったんで、トーリ(2人でじゃんけんをして、勝った方が自分のチームに欲しいメンバーを1人選べる。負けた方はその次に欲しいメンバーを選べる。そうして全員チームが決まるまでじゃんけんを繰り返すチーム分けの方法。その時のじゃんけんの掛け声が「トーリ」{取―り?}。)では結構最初の方に選んでもらえてました。」

●「それだとあまりいじめや仲間外れの問題はなさそうですね」

O「そうですね、そういうのはなかったです。でも自分バスケ部に入ったんで、そこからは背が低いのはきつかったですね。」

●「問題が出てきたんですね。」

O「はい。自分はそんなに頭良くなかったし、スポーツで振るわないと何でも何かいいとこがないって感じになってて、影薄かったです。」

●「なぜバスケ部に入ろうと思ったのですか?」

O「小学校のころのバスケで結構うまくいってたので、それに小さいって言ってもそんなに差がなかったので『あ、いけるんじゃね』って簡単に考えてたんです。そしたら周りがどんどんでっかくなってって、ダメでした。」

●「Oさんはあまり伸びなかったんですか?」

O「伸びなかったです。結構(身長が伸びる時期が)来たのは高校になってからです。」

●「ちなみに高校では何部に入りましたか?」

O「懲りずにバスケ部に入りました笑。なんかないですかね、自分にできるのは『これしかないから』って感じで同じ部活に入り続けるのって。」

●「自分もテニスがそうでした。と、いうことは高校では背が伸びて活躍…?できたのですか?」

O「レギュラーにはなれなかったですけどかなりよくなりました。」

●「自然と解決していったんですね。中学生の、問題を抱えているときに相談や対策はとったりしましたか?」

O「相変わらず牛乳は超飲んでました。夏は1Lとか飲んでました。プロテインも飲んだりしましたけど、それは(値段が)高かったので続きませんでした。自分で調べて『背を伸ばす方法』とか調べていいなと思ったものいろいろ試してました。相談はしなかったです。」

●「相談しなかったのはなにか理由があったのですか?」

O「特に理由はないんですけど、これは相談したところで解決するものじゃないなって思ってた…と思うので、自分で調べていろいろやった方がいいとも思ってました。」

●「でも結果につながらなかったんですね…。では背があまり伸びなかった中学時代はずっとその様子だったのですか?何か別のものに力を入れたりだとか…」

O「一回だけマグレでテストで凄い良い点とって、90点台みたいな、それで勉強に向かいかけたんですけど次(のテストで)元通りダメだったんでダメでした。(やる気が失せてしまった)」

●「次のテストまでは勉強に熱を入れていたのですか?」

O「たぶん受験の時よりやってました笑。理科だけなんですけど、もう1日何時間みたいな」

●「それだけやっていて成績が出ないと落ち込みますね…。」

O「駄目だってなった時にもっと落ち込む原因だったと思います。」

●「良い点数の時に、担任の先生から何か褒められたとか、声掛けはありましたか?」

O「絶対そんな点数取れないからびっくりされて褒められたりしました。」

●「それはテストを返す時だけでしたか?」

O「はい、あとそれから(好成績テスト~元通りのテスト間)何度か授業中にネタにされるくらいでした。」

●「ネタにされた、茶化されたんですか?」

O「あの、問題振られて正解したら『流石O。』みたいな」

●「馬鹿にされたわけではなかったんですね、ですが、それも嫌に思ったりしませんでしたか?」

O「とくにそういうの(不快感・嫌悪感)はなかったです。」

●「担任の先生から点数が元通りになった後にも励ましや声掛けがあったら勉強へ向かう気持ちが続いたと思いますか?ちょっと難しい質問ですが…」

O「どうでしょうね…自分の中で駄目だってなっちゃったから(勉強へ向かう気持ちが)切れたって感じだったと思うんですけど、何か(声掛けが)あったら何か、ううん、でもわかんないです笑」

 

Yさん、Mさん、Oさんに共通して言えることとしては、義務教育期間において男子についても女子についても身長や運動神経、外見、美容等の身体的な問題がそのまま人間関係に支障をきたす直接的な原因になっているということだ。そしてその身体状況に関する問題は第二次性徴を筆頭とする成長期のホルモンバランスの乱れや情緒の不安定により往々にして発生するものであるため問題が表面化する以前の、日頃からの注意が必要となってくる。

Oさんへのインタビューでは女子と比べて男子は~といった特別顕著な違いは見られなかったが、外見、今回では身長がそれであったように問題を抱える非常に大きな原因として特定できる。そしてOさんの問題については教師への相談が行われていないことが注意すべき点として挙げられる。これはつまりOさんが問題を抱えていると教師が把握しづらい状況、把握できたとしてもその具体性に欠けるという状況であるということである。私自身が把握できない以上対策は取れないのだが、それでも考えられる手段は成長期の子どもに関する保健の知識の広報である。身長が伸びるということについては多くの子どもが抱えるであろう悩みである。

理想としてはそういった義務教育期間における身体面の知識や情報を教師がもっていればいいのであるが、それは中々現実的ではない。そのため対応として、取材を行ったH先生は問題が起こった際、把握して相談を受けた際などに該当生徒の健康状況をすぐに取り出せるように整備しておくと自身が知りえない、もしくは情報が確かでない分野において保健室・養護教諭と連携するにしても素早い対応ができるという。最近ではインターネットの普及が広まり、子どもが得る芸能やファッションの情報が非常に幅広く多様なものになっており、それに応じてスタイルや美容、部活動の他に学校外で少年野球などの課外スポーツを行っている男子からは筋力トレーニングといったような身体的な面での相談が増えてきているとも言っている。

 

最後に『学校内部型』の『学習内容』である。

 

人間としての学級担任の経営姿勢については、『学級の児童生徒一人ひとりが、学級担任から真に大切にされている、自分が見つめられているという自覚を持つ(もたされる)ことから、信頼感は芽生え始める。学級担任にとって、子ども理解が重要であることを知るべきである。いうまでもなく、教育は教師の人格と児童生徒の人格との交流の上に成り立つ。学級経営も当然、学級担任と児童生徒との人格の交流の上に成り立つのである。そして、その人格の交流は、信頼感の芽生えから始まる。…学級担任と児童生徒の間にできた信頼関係は、やがて児童生徒相互にも伝わり広がっていくものである。いたわり合う、励まし合う、助け合う、そしてお互いに認め合う、尊敬し合う間柄に育っていく。そこには、孤立も、差別も、自らの蔑みも影をひそめて、明るく、温かい、いきいきとした学級がつくられていくであろう。』1)と述べている。

その中で私は学校教育をいかに組織化できるかが学級経営を行ったうえでそれが成功するか否かの大きな要因として挙げられると考える。それは、『学校教育が組織的・計画的になされているのは、一般的に見て、教科に関する領域であり、児童・生徒理解や学校集団づくり、環境づくり、父母との連絡協力、学校行事、学級事務等については、不十分である。特に重要と思われるのは、学級経営における、情報の整理活用、自主学習(家庭学習)、行事計画などであろう。』1)という資料にも基づいて出された見解である。

学級教育組織化での留意点は以下のようにあげられる。

①児童生徒に役立つ資料(健康状態、学習状態、学力基礎資料、性格検査等)を整備しておく必要がある。

②人間関係づくりに役立つ資料(学校の重点目標、学年・学級目標、生活指標、児童・生徒会の活動記録、交友グループ等)を整備しておく必要がある。

③学習活動や日常実践の事例や記録についても、常に配慮しておく必要がある。

④保険・安全教育に関する資料や学級の運営の関する資料にも、十分注意すべきである。

⑤自主学習については、学習速度や目標達成の自己評価が出来るように、また宿題や家庭学習について子どもなりの努力が出来るように工夫すべきである。

⑥父母の会、家庭訪問、郊外補導、学級会等の学校行事について、計画的な準備が必要である。

学校教育において、上述の留意点に関して追加的により具体的な情報についてまとめると、以下のような資料・記録等が必要である。

①児童生徒の理解の資料となるもの:生活行動、趣味、興味・関心の傾向、悩み、問題行動、交友状況。

②望ましい人間関係づくりの資料となるもの:週間目当て、交友グループ・リーダー。

③学習活動、日常実践の事例や記録:学習実践記録、ニッカ・日常の実践状況、特別活動、部活動、クラブなどの様子や実践報告、学級会・委員会及び生徒会役割、通信表、評価記録、観察記録票。

④保険・安全教育に関する資料となるもの:保健室治療報告・利用表、給食状況・献立表、郊外行動事例、教育相談記録。

⑤学級運営(行動状況)の資料:課外活動計画、父母会計画(記録)、学年・学級通信。

上述した学級経営の意義・機能、学級組織の本質、学級担任の基本姿勢等が人間性育成教育、学力育成教育、ゆとり教育、学力向上の教育などの教育政策の転機で打ち砕かれ、かつ閉鎖体制的教育によって引き起こされている深刻化する教育的病理現象は学校崩壊、学級崩壊、授業崩壊を呼び込んできているとする文献もある。

『19世紀の東アジア型教育の復古的・回顧的面影的学校教育観に基づくような学校教育万能論を推し進めていくことは、生涯教育の理念や生涯学習社会の理念の否定にもつながることが指摘され続けているにもかかわらず、受験学力を煽り立てる学校間によくよくとした中央集権的教育支配であり、学力向上論を盾にして、学習内容の肥大化を「善」とする教育政策は、今日的歴史環境下では学校教育の混迷を深めていく一方である。』2)はそういった状況を端的にあらわしていると言える。

 

秋学期では引き続き4つに分類した内容について調べを進めていく。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。