全盲の白鳥さんと美術館を訪れて鑑賞するという話である。
作者を始め、何人かが、一緒に、あるいは交代で、白鳥さんに付き添い(アテンドという表現が用いられている)美術品について、白鳥さんに説明し、白鳥さんが質問して、更に答えるというやり取りが書かれている。読み始めると、すぐに、実際に理解が深まっていくのは、説明を受ける白鳥さんというよりは、説明しているほうだということが分かってくる。そして、普段何気なくみている、あるいは見落としていることに気づき、更に違う見方も出てきて、理解が深くなることを実感する、そういう話である。もちろん、白鳥さんは、もちろん受けた解説とやり取りで、自分なりのイメージを形成しているのだろうが、その厳密な姿は、解説者たちにもわからないし、読者にもわからない。そして、近くの美術館だけではなく、遠くまで出かけて、寺の仏像なども同じように鑑賞していく。具体的には、いろいろな作品のやり取りが書かれているので、興味のある人はぜひ実際に読んでほしいが、晴眼者の認識が、全盲の白鳥さんとのやり取りで、深化したり、訂正されるのは、やはり、なるほどと思わせる。
それまで、湖だと思っていたのが、実は草原だったのではないかと思われてきたり、別の人は、やはり湖なんじゃないかといったり、と実際に描かれている対象そのものが、見る人によって異なることがわかる場面もある。そして、「見る」という行為も、実は意識によって選択されていることが、実感されたというように、生活場面での理解も変わってくる。もちろん、白鳥さん自身も、こうした活動を継続するなかで、晴眼者との壁が弱くなり、自由に振る舞える余地が増えたという。
この本を読んで、大いに興味をもったのは、以前同じようなことを考え、かつ自分なりに障害者への取り組みをしていたからだ。私の講義を受けた学生で、完全に耳が聞こえない学生が3人、重度の難聴の学生が1人いた。当然、通常の講義なので、彼らは聞くことができない。そこで、多くの大学でやっていることは、ノートテイクである。当時はもちろん、現在でも、大学の講義をほぼ正確に音声認識して、文字化するコンピューターのソフトウェアは存在しない。スマホに導入されている音声認識が、かなり精度が高くなっていて、ほぼ間違いなく認識して文字にしてくれるが、単文という制限がある。句点がつく複数の文章になると、途端に認識精度が落ち、90分の講義には、まったく有効性を発揮しない。だから、ノートテイクを私の講義でも行っていたが、非常に不十分なので、講義を録音し、おこしてテキストにしたものをホームページにアップしていた。このとき、実は聴覚障害の学生だけではなく、健常の学生にとっても、このテキスト化は大きな意味をもつことがわかったのである。私は毎回、講義で関心をもったテーマで小論文を書かせて、掲示板にアップさせていたのだが、普段、つまり、聴覚障害の学生がいないときには、私の話したことをまったく誤解した文章が少なくないのだが、このテキストを載せていた年度は、そうした講義内容の誤解がほとんどないのだ。学生もやはり、理解に自信がないときには、簡単にこのテキストでチェックできるから、誤解に基づく文章が減ったということだろう。
これとは別に、講義の最後の時間に、ディベートをする授業があった。ここに聴覚障害の学生が参加していたので、その学生にどうやってディベートに参加してもらうか、どうしたら可能になるのかを、かなり考えて、何人かの学生の協力をえて、次のような仕組みで実践した。
パソコンを2台とスクリーンを用意し、チャットソフトを使った。二人が別々にうちこんだ文章は、それぞれのパソコンとスクリーンに映るようになっている。ディベートの発言を、パソコンが得意な学生がうちこんでいき、聴覚障害の学生がそれを自分用のパソコンで読みながら、自分で意見をいいたいときには、そこにうちこむ。他のひとたちは、そのチャットのやりとりを、スクリーンで確認する、という方法である。これで、ディベートは完全に成立した。その様子は、私の最終講義で話し、このブログにもアップしてある。
この試みは、私の職務に関して、聴覚障害の学生が、私の授業を問題なく理解し、参加できるようにする工夫だが、それとは別に、ふたつの関心をもっていた。ひとつは、聴覚障害の人は、音楽を楽しめるのか、どういう方法があれば、楽しむことができるのか、もうひとつは、視覚障害の人が、美術品を鑑賞できるのか、という点である。当時から、視覚障害者のための美術品というのがあって、点字の応用で、触って感覚的に掴むというものだ。しかし、それは、最初から視覚障害者のために作成した美術品でなければならないわけで、彫刻などは別として、一般の絵画は対象とならない。正直いって、私には、この書物を読むまで、どういう方法があるか思いつかなかった。
聴覚障害者の音楽については、聴覚障害の学生が、振動を手に感じることができれば、音楽を感じるというのを聞いた。その学生は、ピアノなどは、反響板か、それに近い部分に手を触れていて、振動から音楽を感じるといっていた。
問題は、やはり、音、そして音の要素(音色、高さ、強さ、和音)のイメージをえられるか、美術の場合、色、形などのイメージをえられるのか。完全に聞こえなくなったベートーヴェンやスメタナのように、偉大な作品を生み出した作曲家がいるから、明確に音のイメージを、聞こえなくなる前にもっていれば、楽譜を通して、音楽を楽しむことはできるし、創作もできる。しかし、生まれつき、全く聞こえない人に、音のイメージは可能なのか、また、音のイメージとは別の音楽の楽しみがあるのか。そこは、いまでもわからない。それは、生まれつきの全盲のひとの美術鑑賞も同じだ。美術品には、音楽の楽譜のような、あるいは、言葉における文字のような、物理現象を記号化する道具はあるのだろうか。
白鳥さんは、「概念」として把握しているという。少なくとも、「形」については、触って感じることができるから、丸とか四角などを、具体物で理解した上で、言葉の説明で、いかなる丸なのか等を、自分なりのイメージを作ることはできるに違いない。しかし、色はどうなのだろう。いくら色のイメージを概念化するといっても、当人にしかわからないものだろう。言葉で説明を受けての概念化だから、言葉と関わったイメージだが、色や音は、やはり言葉では表せない。純粋に物理現象だから、記号ではない。
結局のところ、堂々巡りをしてしまう。
ただ、この本が教えてくれるのは、障害者が、逆に健常者の認識を進化させてくれるということだ。白鳥さんにアテンドする人が、自分の見た美術作品を丁寧に説明するのだが、そうやって念入りにみていると、普段みているよりも、ずっと細かいところに気がつき、それまでの印象とかなり異なった作品への理解への進むという。それは確かにそうだろう。自分一人でみていても、言葉化することで深い理解をえることもあるだろうが、やはり、まったく説明だけを頼りに理解しようとする人に、質問をされることで気付くことは、自分一人ではできない。
かなり飛ばし読みに近かったので、もう一度じっくり読んでみたい。