プーチンの注目された演説は、大きな失望を与えたようだ。少なくとも西側には。もともと、ロシア国内向けと考えれば、当然なのかも知れないが、西側の期待を裏切ったというのは、皮肉だが。
プーチンの演説の要点は、アメリカとNATOが、ロシアの要求を受け入れず、安全を脅かしたので、先手を打たざるをえなかったのだ、ということにつきる。ロシアは悪くない、悪いのはアメリカとNATOだというわけだ。更に、軍事作戦の目的は、ロシアを脅かしているナチスから、同胞を解放することであるというのが、積極的な目的だそうだ。
それは、日本が太平洋戦争に突入していった論理とまったく同じである。アメリカが、日本にハル・ノートを突きつけ、さらに石油の禁輸などの経済制裁を強化したので、日本は、アメリカに戦争せざるをえなかったのだ。そして、それに対して、ABCD包囲網などを敷いてきた。そういう論理がひとつと、日本の戦争目的は、アジアを帝国主義植民地支配から解放することだったという論理があった。これは、プーチンのいう、ナチスの支配から解放するというのと重なる。
日本が国家の破滅に突き進んだのは、絶対に勝てない相手に、しかも、偽りの目的で、戦争をしかけたのだから、その結果も当然だったわけだが、ロシアもそうなることは、目に見えている。
更に、日本が結局国力を衰退させていった同じ現象としては、徹底的な報道規制である。報道規制に典型的なように、人々の権利を抑圧すれば、人は育たないし、可能ならば逃げていく。戦前の日本は、逃げ場もなかったから、戦争に駆り立てられて、優秀な人材が多く生命を落したが、いまのロシアは、国外に出て行く人が膨大な人数になっているようだ。戦争に破れ、人材を失うことが、いかに国や社会にとって損失であるか、日本は事実によって知らされた。だから、戦争は、絶対にしてはならないのである。そして、戦争は政治によって引き起こされるのだから、賢い政治が行われれば、戦争を避けることができる。戦争を引き起こそうとしている国家はある。戦争は利益になるからだ。そういう利益誘導的な政治にからめとられることがないように、歴史や現在起きていることから学ばねばならない。そこで、ひとつの材料として、日本が戦争に向かわざるをえないように仕組まれたという「ハル・ノート」を考えてみよ。
日本はハル・ノートを突きつけられて、対米戦争に突入せざるをえなかったのだ、ということになっているが、本当にそうだったのだろうか。確かに、アメリカは、自ら戦争に参加するためには、なんらかのきっかけが必要だった。いまのアメリカ国民をみてもわかるように、アメリカは実際に自国民が戦闘に参加することについては、極めて消極的である。だから、ハル・ノートをつきつけ、日本に拒絶させて、日本を開戦に追い込むという意図があったに違いない。真珠湾を攻撃したとき、イギリス政府は、これでイギリスは救われたと驚喜して叫んだということだから、日本は、まんまとアメリカの作戦にかかったという面はある。しかし、それにしても、だからといって、相手の策略にはまる必要はないわけである。本当に賢明で、実効力のある政治家が日本を指導していたら、戦争は避けたのではないだろうか。
では、ハル・ノートとはどんなものだったのだろうか。wikipediaから引用する。
ハル・ノート
第一項「政策に関する相互宣言案」
1. 一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
2. 他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
3. 通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
4. 紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則
(略)
第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」
1. イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2. 仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3. 日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵[注釈 3]
4. 日米がアメリカの支援する蔣介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
5. 英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6. 最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
7. アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
8. 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9. 日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しないことへの同意(三国同盟の事実上の空文化)
10. 本協定内容の両国による推進
最初の4項目は原則であり、これは日本としても同意できる内容だったはずである。これを拒否するとしたら、自ら国際原則を守る意志がないと宣言するようなものだ。
後半の日本政府がとるべき措置の核心は、中国からの撤兵、蒋介石政権の容認、三国同盟の空文化である。相互の資産凍結の解除などは、歓迎すべきことだったはずで、そうした内容も含まれていたのである。三国同盟は、実質的な相互の援助などは、ほとんどしていなかったのだから、実は有名無実ともいえる状態だったといえる。したがって、最も日本がこだわったのは、中国からの撤退、蒋介石政府の承認だったといえる。
逆に、これが大きな壁だったとすると、既に10年近く泥沼状態の中国戦線を、日本はどのようにして終焉させるつもりだったのだろうか、ということが疑問になってくる。延々と続けるつもりだったのか。中国戦線を継続しつつ、最大の強国アメリカと戦争状態にはいるなどは、誰が考えても、無謀な国家崩壊に導く以外にない選択だった。そう考えれば、アメリカの強い要求を受け入れて、段階的に撤退することで、妥協することは十分にありえたし、それは日本にとっても好ましいことだったはずである。
蒋介石政権の容認は、本当に不可能だったのかも、再考の余地がある。汪兆銘を見放すことはできない、という立場をアメリカとの交渉で表明したようだが、この時期、日本は蒋介石との和平の可能性も探っていたのであり、それが不可能になったことによって、汪兆銘との関係がより密接になったといえる。
ハル・ノートは受諾可能とみていたひとも、実際にいたのだが、政府としては、既にアメリカとの戦争準備をしていた(海軍は既にハワイにむけて出航していた)わけであり、当時の政府の認識としては、引き返すことは考慮の外だったのだろう。必要なときに、そういう選択ができるか、という教訓として、考えるべきであろう。
同じように、ロシアも、かつての日本と同様に、アメリカによって、戦争に引きずり込まれたとプーチンは表明したわけだ。それは、まったく的外れな見方ではない。「ウクライナ戦争後の構造は」で書いたように、アメリカが戦争を誘導した側面があることは否定できない。
しかし、プーチンは、長期的にみれば、そのような状態に自ら進んでいったのであって、「この選択しかなかった」とプーチンがいくらいっても、その選択は、プーチン自身が行ったものであり、そうした環境をみずからつくってきたのである。国際的に孤立ではなく、協調の道をとることはできた。それはロシアが、確かに民主主義国家であることを示すことによってである。
チェチェンなどでの徹底的な殲滅作戦ともいうべき軍事行動、批判的な勢力の弾圧、ときには殺害、そして、メドヴェージェフとの政権のたらいまわしなど、民主主義に反するような行為が、継続されていたのが、プーチン政権の特質である。そうしたことが、次第に、ロシアやプーチンを欧米が追い込む理由となった。
日本が徹底的な敗北を喫して、主な都市が焼け野原となるほどの打撃を受けたなかから、日本人の努力と、幸いにもえられた戦勝国からの支援によって、日本は復興したが、ロシアは、復興が可能なのだろうか。(続く)