『教育』を読む(2022・4) 都立高校の男女別定員を考える

    杉浦孝雄氏が「『都立高校男女別定員』問われていることは」という文章を書いている。私も昨年6月に、この問題について書いた。「都立高校入試のジェンダー平等を求める弁護士の会」が声明をだして、毎日新聞が記事にしたことかきっかけだった。
 そこで書いたことと、多少重なる部分もあるが、できるだけ視点を変えて、再度論じたい。6月の時点では、弁護士の会が、東京都教育委員会への要請を行ったのだが、その後9月に、東京都は、最終的には要求を受け入れ、3段階で男女合同定員に完全に移行することを決めたと、杉浦氏は書いている。
 杉浦氏の基本的立場は、男女別定員の設定は、歴史的な経緯もあり、また、むしろ女子の入学を守るアファーマティブ・アクションという側面もあり、また、男女が比較的同数に近く在籍していることの教育的利点もあるのだから、多角的に検討して、拙速に一律の方法を押しつけるべきではないというものだろう。

 
 さて、この問題を、都立高校の男女別定員設定というレベルより、広げて原則を考えてみよう。
 弁護士の会、つまり、男女別定員ではなく、男女合同定員にすべきだという主張は、男女別定員は、憲法の平等原則に反するという認識を提示している。ただし、これは、多少乱暴な意見であると言わざるをえない。弁護士の会の記者会見記事などを読むと、男女別定員の都立高校のすべてが、女子が不利になっている、つまり、合格最低点が女子が高いと言っている同じ文章で、8割が女子が高いとも主張している。少々いいかげんだと感じるが、実際は8割の学校で、女子が高かったということらしい。(杉浦氏の説明)つまり、女子が高い場合もあるし、男子が高い場合もあるわけだ。ところで、今は多くの学校で推薦入試なども行われているから、推薦と学力とでは、当然学力水準が異なってくる。その相違はどうなるのか。現在では多様な入試が行われているから、どのような理由で、どの程度を受け入れるのかは、多様な基準で決められているのが実情だから、男女の区別は基準のひとつに過ぎない。そうした多様性を無視して、「男女別定員は即女性差別だ」という主張は、多少無理があるように思うのである。
 
 そもそも「平等とは何か」を考える必要がある。
 「男女平等というのは、男女の人数が同じであることだ」というのは正しいだろうか。違うという人は、人数を同じにすれば、ほとんどの場合、男女の合格水準が異なってくる。つまり、どちらかが高くても不合格になっている。だから、それは平等ではない。だから、「男女とも、合格不合格が同じ点数で切られることが平等だ」という主張になる。
 どちらが正しい「平等」なのだろうか。
 これは、平等論の最も基本的な対立点であり、論理的には決着のつかないことであるように、私には思われる。要するに、思想的立場の表明として、どちらかを選択することになるのではないか。
 多少強引になるが、「男女同じ人数にするのが平等」は、いわゆる「結果の平等論」であり、アファーマティブ・アクションなどが、この代表的な施策となる。それに対して、「男女同じ点数で合格ラインを決めるのが平等」は、「機会の平等論」「機会均等論」である。
 古典的な平等論は、言うまでもなく「機会の平等論」であって、機会が平等に与えられれば、結果に大きな差が生じたとしても、それは平等に反するものではないという考えである。しかし、機会が本当に平等に与えられることは、実際にはなかなかありえないことである。難しい私立中学を受験する「機会」は誰にもあるが、家庭の経済力や親の教育的熱意によって、合格可能性は大きく違ってくるわけだから、単に「機会」が平等に与えられるだけでは平等とはいえない。経済力や親の熱意の不平等を、なんらかの方法によって調整する必要があるということは、おそらく機会の平等論者でも認めることだろう。だから、奨学金、塾費用の補助、補習、日常的な成績や活動歴などを考慮することなど、様々な方法が考えられる。
 しかし、結局、有効な調整などは不可能であるかも知れず、結局、人間の潜在能力は等しいと考えれば、与えられた機会に、条件が同じであれば、結果も同じになるはずだという前提で、結果が等しくなるように結果を調整するのが、結果の平等論である。これは、人種差別、性差別等、差別の「種類」によって、それぞれに対応させることになる。もちろん、これも、アメリカのアファーマティブ・アクションが今でも、大きな論争点になっていることからわかるように、反対する人も少なくない。
 
 弁護士の会は、都立高校の男女定員問題についてだけ言っているとしても、これを平等論として考えれば、他の領域の男女平等論についても、同じ原則を当てはめるものでなければ、論としての一貫性は保てない。ジェンダー平等論として、日本において、国際的にも問題になるのは、国会議員の男女比である。日本は、女性の国会議員が極端に少ないし、まして、大臣などになると重要ポストに女性大臣が就くことは、極めて稀である。これに対して、北欧の国が行っているような、一定割合を女性とするように決めるべきだという主張がなされる。典型的な「結果の平等論」である。多くのジェンダー平等論者は、こうしたクオータ制を支持していると思われる。しかし、クオータ制は、明らかに「結果の平等論」であって、「機会の平等論」ではない。都立高校の男女別入学定員に関しては、「機会の平等」に立ち、国会議員については「結果の平等」にたつというのは、あまり信用できない立場だといわざるをえない。
 では、どちらがあるべきなのか。それは、人によって異なるから、絶対的に一方が正しいとはいえない。私自身、この点についてはずいぶん考えたが、基本的には「機会の平等」の立場にたっており、ただし、機会を活用する条件をできるだけ平等にするために、可能な施策を実施する必要があると考えている。そして、その結果として差が生じることは、受け入れる必要があるという立場だ。結果の平等論にたって、結果に差があるにもかかわらず、その差を人為的に調整することは、逆に平等を侵害する場合が少なくないと考えている。
 しかし、結果の平等にたった方法を取り入れる学校があってもよいとも考えるのである。国会議員にクオータ制を導入するかは、ひとつに決めなければならないが、学校は、男女別定員を前提する学校、男女合同定員の学校、女子校、男子校という区分があってもいいと思うのである。ただし、何故そうするのかという教育的方針を、事前に周知させることが必要だ。
 もうひとつの問題として、公立と私立での相違がある。「弁護士の会」は、都立高校だけを問題にしているのだが、私立学校も公教育である以上、公立と私立を、こうした平等原則で、まったく別に考えるのは、私には納得できない考えである。私立は、女子校、男子校も「否定」していないようだから、公立高校でも、どちらもあっていいのではないだろうか。実際に、県によっては、男子校と女子校に別れているところが、いまでもある。女子校、男子校を認めるならば、男女別定員の設定も、論理的には認めることになるだろう。
 結論としては、都立高校に関していえば、個人的には、「男女合同定員」が望ましいとは思うが(私が校長なら、合同定員にするという意味)、教育的考えを明示した上で、男女別定員があっても構わない。強制的に、どちらかに統一することは、教育を窮屈にする。
(アファーマティブ・アクション、国会議員のクオータ制は、簡単に論じることはできないので、別の機会にしたい。)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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