読書ノート『プーチン 内政的考察』木村汎3 ロシア民衆はなぜプーチンを支持するのか

 ロシアのウクライナ侵攻が始まってから、ずっと、ロシア民衆の動向に注目が集まっている。結局、ロシアの民衆が立ち上がって反プーチンで力を発揮するか、あるいはプーチン側近のなかでの宮廷クーデターしか、この侵攻を止めることはできないのではないか、という期待のような予想があるからだろう。しかし、現時点では、オリガルヒの一部が戦争反対を控え目に述べたり、あるいは国外に逃げている人が出たりする程度で、宮廷クーデターという規模とはほど遠いようだ。 国民のプーチン支持は高く、また、ウクライナへの侵攻も支持率が高いといわれている。民衆の場合には、プーチン政権による徹底的なメディア支配のために、正確な情報に接することができず、プーチンによるプロパガンダしか見ることができないからだと説明されることが多いが、オリガルヒの場合には、おそらくロシアがウクライナで何をしているかは、ほぼ正確にわかっているだろう。にもかかわらず、多くはプーチンを支持しているように見える。不思議な現象のように見える。

 しかし、木村氏の著書を読むと、民衆がプーチンを支持している理由は、必ずしも情報が閉ざされているからというわけではないと感じる。そして、それは日本人との共通性もあると思わざるをえないのである。
 ロシアの民衆は、国家に対して、権利意識をもたず、国家の恩恵を被っているという意識が強いという。そして、それはソ連以来からあまり変らない収入と税の仕組みにあるというのだ。社会主義ソ連の時代には、基本的に生産活動は国営だったので、収入はまず国営企業に入り、そこから、必要な経費を差し引いて、残りが労働者に配分された。従って、そこには「税金を納める」という行為が存在せず、納税者意識が育っていない。そして、現在のロシアの経済の屋台骨が石油・ガスであり、それは現在でも国営企業が独占的に扱っている。ロシア経済においては、国営企業と、一部オリガルヒが支配する政府と一体になった企業が、経済の大部分を支配しているので、やはり、国民の収入が、国家から与えてもらうという意識を生むようになっているというのだ。つまり、国家あっての生活であり、「国家は、自分たちの納めた税金で動いているのであって、公務員は国民へ奉仕すべきであるという、西欧民主主義的感覚」とは、まったく違うというのだ。西欧的感覚でいえば、国民は納税者であり、政府は納税者の意向を尊重する必要がある。だから、国民の意に反するような政策をとったら、遠慮なく選挙で、政権の交代をさせる。しかし、ロシアでは、決してプーチンが冨を配分しているわけではないが、納税者意識ではなく、国家の冨が分配されているという意識なのだ。だから、反政府運動などは起きにくいのだというわけだ。
 日本人は、ここまで国家に飼い馴らされいるとはいえないが、しかし、日本の厳格な源泉徴収制度が、納税者意識を抑圧してきたし、いまでもそうであることは、ずっと指摘されてきた。源泉徴収制度が、1941年、つまり太平洋戦争に突き進み、国家総動員体制を徹底させるための仕組みであることを考えれば、このことがよくわかる。
 もっとも、日本では、消費税が導入されて以降、レシートに税金部分が書き込まれること、そして、何か買えばかならず税金をとられる状況になったことによって、納税者意識は少しずつ育ってきたことは間違いない。秋篠宮家への批判も、納税者意識が影響しているといえる。
 
 ロシア民衆の反プーチンが高まらない理由のもうひとつは、やはり「大国意識的愛国主義」があるという。1812年の対ナポレオン戦争、第二次大戦の対ヒトラー戦争を耐え抜いて勝利したという歴史、そして、今は大分落ちてしまったが、アメリカと対峙したという大国意識が前提としてあり、それを復活させるのだという「強いプーチン」への期待が、大きなプーチン支持の土台になっているというわけだ。
 この点については、日本は大分事情が異なる。大国に攻められたが、闘って追い返したという経験は、元寇くらいしかない。これも「神風」が吹いたなどという、あまり愛国心を鍛えそうもない言い方がされてきた。そして、明治以降は、日清戦争や日露戦争という、外国で闘った戦争では勝っているが、なんといっても、第二次大戦で国土が廃墟となり、「国体」も倒れるという、負の歴史を抱えてしまった。戦後も愛国心教育が、政府によって試みられたが、成功したとはとうていいえない。プーチンと仲良しの安倍晋三は、愛国心教育に熱心だったが、よくも悪くも、実力が伴ったプーチンとは違って、あまりに不勉強で、説得力もない安倍首相では、国民を愛国者に鼓舞する力はなかった。幸いというべきだろう。
 ただし、民衆の権利意識を育てない教育は、日本ではかなり浸透している。長年学生たちと接して、そう感じる。私は教職課程の授業をいくつか行い、そのなかで模擬授業の指導をずっと行ってきた。中高社会(高校は公民)の免許をとる課程だから、当然憲法の基本的人権を扱う模擬授業をする学生が、毎年いるし、また、実際に教育実習で扱う学生も少なくない。そういう授業を見ていると、本当に、「権利」を生きた感覚としてもっている学生が、ほとんどいない感じなのだ。要するに、教科書に書いてあることをなぞって教えるだけだ。権利が侵害されるとは、どういうことなのか実感がないのだが、高校までには、おかしな校則や不合理な生活指導を経験している学生はたくさんいる。しかし、それを権利の問題として把握はしないし、「なんでこんな変な校則があるのか」というレベルをでない者が多い。「学校は権利ばかり教えて、義務を教えない」などと批判する人がいるが、実際には、「学校は義務ばかり教えて、権利を教えない」のが実態だ。だから、学生が「基本的人権」を扱う授業をしても、実につまらないのだ。学生が不熱心だとか、教職に対する熱意がないというわけではない。それは十分にある。しかし、「権利」とは何かを実感として理解できる授業を、彼ら自身が受けてこなかったからなのだ。
 
 こうした点では、ロシアの民衆と日本の民衆は、まったくとは同じとはいえないが、ある程度似た面があることを知っておく必要はあるだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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