今日は、27年前に地下鉄サリン事件が起きた日だ。1995年は、1月に阪神淡路大震災があり、3月にサリン事件、そしてその後の長いオウム捜査が始まった。windows95が、ネット接続を組み込んだために、それまでは研究機関等の限られた人でなければ、使いにくかったインターネットが、簡単に一般人も使えるようになった年でもある。
松本サリン事件や坂本弁護士家族の失踪事件で捜査対象となっていたオウムの本部に、強制捜査の予定だったのが、オウムに漏れ、その前に地下鉄サリン事件が起こされたといわれているが、捜査は22日に行われ、ずっとテレビ中継された。サティアンなどと呼ばれた建造物が大勢の機動隊によって調べられ、当時小学生だった3女のアーチャリーが、機動隊に食ってかかっているような写真が新聞にのり、話題になったものだ。
地下鉄サリン事件の捜査はなかなか進まなかったが、あるとき、心臓外科医としても有名な林郁夫が、別件で逮捕されていて、突然サリン事件の自白をしたようだ。それでサリン事件のほぼ全容がわかり、次々と実行犯が逮捕された。
当時オウムの幹部たちの何人かが、盛んにテレビ出演して、オウムの無実を訴えていたことなどが、思い出される。そして、そういう幹部の一人である村井秀夫が、取材陣たちが大勢いる目の前で(東京のオウム本部)刺殺された。テレビで何度も放映され、国民に恐怖心を与えた。犯人はすぐに逮捕され、刑も確定、かつ現在では出所しているが、事件の真相はいまだにわかっていない。
その他、オウムの起こした凶悪犯罪は多数あるが、それについては触れない。
特に大きく話題になったのは、サリン事件を実行した犯人たちもそうだったが、幹部にはたくさんの学歴エリートがいたことだった。少し前に話題になった連合赤軍事件では、幹部たちが国立大学二期校の出身者が多かったので、劣等感が要因としてあったのではないか、という邪推ともいうべき理由付けもあって、共通一次の実施、そして一期校・二期校の区分を無くしたとまでいわれていた。つまり、学歴コンプレックスが連合赤軍などという暴力集団を形成した理由などともいわれたのだが、オウム真理教幹部の場合には、学歴というレベルでは、正真正銘のエリートコースに乗った者が少なくなかったのである。どうして、という疑問が盛んに議論されたが、その回答はいまだに明確にはなっていないように思われる。
結局は、麻原彰晃という「教祖」の魅力に惹かれたということなのだが、空中浮遊などは、どう考えてもいかさまであるし、薄汚く、教養のかけらも感じられないし、話している内容も薄っぺらであるあのような人物に、なぜ心酔したのか。正直、私にもわからない。死刑になった者も少なくない。日本は安全だという評価に大きな打撃を与えた。そして何より、多くの犠牲者が出た。
当時、私は大学の教師となって10年間経っていたが、この前後で、学生の宗教に対する態度ががらっと変わったことを感じた。それまでは、統一原理のようなカルト的なものも含めて、宗教=おかしなものという感じはなかったし、また、ある程度宗教をまじめに考える学生がいたが、オウムの事件が起きてからは、「宗教=怖いもの」というイメージをもつ学生がほとんどになった。それ以前は、あやしげな勧誘や募金活動などで被害も出ていたが、このあとは、そうした被害がほとんどでなくなったほどだ。カルトの弊害を減少させたという点では、オウムの蛮行は、人の目を覚まさせる効果があったのかも知れない。
しかし、逆に、宗教的な理由による行為に対して、寛容な精神が生じてきたことも見逃せない。教育の世界では、宗教的な理由で、決められた行為を回避することに対しては、極めて否定的であったように思われる。日本では、異文化の子どもが、公教育で学んでいることが少なかったせいもある。ところが、エホバの証人が、体育で柔道などの武道を拒否する人が現れるようになった。当然当初は、学校でのトラブルになっていた。
神戸高専での訴訟は、1990年に提起されたが、最高裁判決で確定したのは、1996年だった。エホバの証人の学生が、体育の剣道の授業を、見学とレポート提出で代替してほしいと願い出たところ、学校は認めず、単位取得ができなかったので、留年することになった。再度の申請も拒否されたので、提訴した。
争点は、
・実技を見学とレポートで代替することを認めないことは、学校の裁量権の範囲か
・宗教上の理由で、剣道等を別に代替措置を認めないことは、憲法の信教の自由に反するか、あるいは、代替措置を認めることは、特定の宗教に関与することになるか
・剣道の実技は、代替措置を認めないほどに必須のものであるか
一審は学校の措置を認めたが、高裁、最高裁は、原告の訴えを認めた。つまり、特定の授業が、宗教上の教えと矛盾する場合には、代替措置を講ずることが、憲法に沿うとしたわけである。
この最高裁判決が1996年であることは、サリン事件の影響があったとは考えられないが、ある意味、宗教的な寛容が、カルトなどを排除していく上で必要だと判断された可能性はある。このあと、学校教育に価値観的な「寛容」が求められるようになったし、また、学校教育もそうした方向に進んでいったといえる。それは、評価すべきことだろう。
さて、個人的なことでいえば、サリン事件は、私の教師生活にも思わぬ影響をもたらした。というのは、事件から10年近く経ったとき、教祖の娘が入学してきたからである。彼女にとって、合格したにもかかわらず、合格を取り消された3番目の大学であった。そして、これ以上無理だと考えたのだろう、合格取り消しは違憲であるという訴訟を起こしたのである。もちろん、合格者の判定は教授会事項なので、教授会が開かれ、議論がなされた。その詳細をここに記すことはできないが、結局、大学の学長サイドで取り消しを決めており、それを教授会は承認することを求められただけだった。そして、訴訟になることは当局も覚悟していて、最高裁まで争うという姿勢を強調していた。そして、仮処分申請で、通常にはない詳細な判決理由が述べられ、合格取り消しは、この場合(親を理由とする拒否)憲法に違反すると判断された。予想通りだった。最高裁まで争うはずが、結局本裁判の前の仮処分の判断で決着し、入学を認めることになった。受け入れ学部は、比較的スムーズにいったが、他学部では、それでも受け入れに猛反対をしていて、学部長が他学部の教授会に出席して、暴言をはかれながら説明をしてきた。保護者からの抗議もそうとうあったと聞いている。
私の学部では、一年生はクラス編成され、担任がつき、担任が基礎演習を担当する。数名の担当者の他は誰もが引き受けないので、終始受け入れを主張していた私が担任をすることになった。その翌日、一年生の大教室授業があったので、授業後、クラスのメンバーを集めて事情を説明し、放課後に受け入れに関する討論をした。皆非常に真剣に受とめていた。このときの討論のためか、彼女の受け入れは実にスムーズにいき、すぐにとけ込むことができたようだ。登校初日こそ、マスコミがたくさん来ていたが、トラブルなどはまったくなかったし、その後も同様だった。
考えてみれば、彼女は、まともに学校に通ったことがない。いろいろな人と、この件について話をしたが、年配の人間ほど、そんな人を学校は受け入れるべきではないと考えており、若者ほど、受け入れは当然と考える者が多かった。だから、学生は、ごく自然に受け入れてくれた。犯罪を犯したのは、家族であって、当時小学生だった当人に責任があるはずはないのだから。付き合いたくなければ、近寄らなければいいだけのことだ。
上の寛容の精神が、若者には定着してきたことを実感したものだ。
私の研究上では、「犯罪加害者の家族の抱える問題」に関心をもつようになるきっかけになった。