改めてショック・ドクトリンを考える

 ナオミ・クラインが、フリードマンに代表される新自由主義政策の、最も醜悪な側面を「ショック・ドクトリン」と名付けて批判したことは、まだ記憶に新しい。この批判によって、それまで圧倒的な力をもっていた新自由主義に対する、広範な批判意識が芽生えたのだった。
 ショック・ドクトリンとは、何か大きな災害、戦争・自然災害等が起きたとき、民主主義が根付いていないと、そこに生じた大規模な被害を根拠に、新自由主義的勢力にとって都合のいいような政治体制、経済システム、地域政策などが押しつけられ、被害からの回復よりは、そうした支配層の利益になるような体制が作られることである。しかも、そうした災害がない場合には、人為的に混乱を引き起こして、同じようなことを実行してしまう。自然災害では、ハリケーン・カタリーナやハイチ、スマトラの大地震、そして、人為的な混乱としては、チリのアジェンデ政権転覆などが有名だが、ナオミ・クラインの著書には、他にも様々な事例が分析されている。民主主義的な国民の意識が根付いているところでは、そうした策謀は程度の差はあれ、押さえられるのだが、日本では、阪神淡路大震災や東日本大震災のときに、攻防があったが、部分的には、ショック・ドクトリン的な政策が実行されたといえる。
 現在進行中の新型コロナウィルスの感染拡大は、ショック・ドクトリンの活用の恐れがある事態だ。かなり根強く、生物兵器が使用された、あるいは管理が不十分で漏れ出たなどという見解もあるが、可能性がまったくないとともいえないが、ここではその説はとらない。やはり、一種の災害であろう。
 現在の日本に、充分民主主義が根付いているかは、見解が分かれるところだろうが、脆弱ではあっても、民主主義の感覚は決して弱くない。だからこそ、安倍内閣の「うそ」については、継続的な追求がなされている。また、安倍首相自身は、自分の地位や支持率、やりたいオリンピックや憲法改定などへの執着はあっても、ショック・ドクトリンを発動して、社会を改造してしまおうという強烈な意思をもっているかどうかは、かなり疑問である。オリンピックの年内開催に執着していても、国際世論やスポーツ界の意向などが、明確になってくると、あっさり延期に切り換える。2月には、オリンピックの開催のために、あわてて学校休校を指示したことと、今回逆に世論を考慮して、延期に切り換えたことは、実は同じ基準からの決定だろう。つまり、自分の支持率のためといってよい。しかし、他方で、不可解な手法もいくつかえる。
 まず、クルーズ船への消極的対応、厚労省への丸投げ的なやり方、PCR検査への一貫した消極的対応、既存の法律で対応可能であるのに、新法の制定。しかしまだ緊急事態の宣言はしておらず、ここまでの経緯は、むしろ後手後手と批判されるような消極的な対応のほうが目立っている。そして、休校措置や催し物の再開などを、それぞれの組織に判断を委ね、最終的な責任をとるまいとする姿勢は、ショック・ドクトリンとは異なるように見える。私自身は、休校措置や催し物の開催決定は、それぞれの組織責任において行うのがよいと思っているので、むしろ、国として一律の基準をつくって、国として指示すべきであるという意見には賛成しない。疑問があるとすれば、休校措置を当初強く要請しながら、そのことによっておきるマイナス面への対応の検討なしにだした点である。
 さて、では、その後ショック・ドクトリン的な進行を危惧するとすれば、それはどういうことだろうか。
 最も起きうる事態は、国民の行動の徹底した管理システムの構築だろう。
 確実かどうかわからないが、ニュースでは、イタリアやフランスでは外出禁止令がだされており、外出するときには、外出許可証を携帯していないと、かなり高額な罰金をとられるとされる。それでも、違反者が多いので、罰金を増額させ、そして、携帯番号から、GPS装置を使って、個人の行動そのものを監視するという方向をとるのだそうだ。まだ実施はしていないようだが、技術的には可能であり、準備が整えば、個人がどこにいるか、外出禁止を守っているか、違反しているかが、たちどころにわかることになる。中国の都市では、膨大な防犯カメラと顔認証システムで、だれかが何か違法行為をすれば、直ちに警察に察知され、警官が駆けつけるようになっているそうだが、それと、携帯による場所確認があわされれば、個人の行動の自由は、ほとんどなくなるに等しい。プライバシーは、国に対して0になる。携帯をもたずに外出することも可能だろうが、携帯が身分証明書になり、常に携帯が義務づけられれば、携帯をもっていないことで違法になってしまう。
 感染の拡大→外出禁止→違反者対応として、携帯電話による監視→携帯電話の携帯義務(究極の携帯電話)
 こうした事態は、まさしくショック・ドクトリンを活用した国家による国民生活の完全監視システムの構築といえる。その先には、マイナンバーと携帯電話の結合が出てくるかも知れない。
 中国人のなかには、中国の防犯カメラと顔認証システムによる違法取締が、安全のためにいいことだと考える人が少なくないそうだ。確かに、防犯カメラはフライバシーの脅威であると言われる一方、犯罪者の逮捕にかなり大きな役割を果たしていることで、日本でも強い批判は既になくなっていると思われる。しかし、上記のようなことが実行されるとなると、本当に「1984年」の世界が現実化することになる。
 結局、このコロナ騒動は、治療法の確立によってしか、厳密には終了しないと思うのだが、国として、そうした医学研究への援助の政策が、あまり見えていないのが気になる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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