中学受験と宗教二世問題

 昨年、統一教会問題から、宗教二世という側面がクローズアップされた。日本では、宗教自体のなかから、宗教二世への、適切な対応のための改革が現れたことは、ないように思われるが、キリスト教の世界では、いくつかの例がある。再洗礼派は、その代表的な運動であり、弾圧されたが、現在でも、いくつかの教派に受け継がれているという。成人になってからの信仰の自覚と表明を、信者であることの必須条件とすることは、子どもに大人の信仰を押しつけないことを意味する。アメリカ移民当時の生活スタイルを保持しているアーミッシュも、18歳になったときに、共同体に残るか、外に出るかを、自由に選択させるそうだ。
 実態はどうかという問題はあるが、少なくともそうした考えが実行されていれば、宗教二世問題は生じない。

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保育園・学校での当たり外れ

 朝日新聞昨年の12月20日に「「保育園に当たり外れ、おかしい」 遺族が語る、虐待事件の根っこ」(田淵紫織)という記事が出た。具体的事例は省略するとして、注目したのは、以下の部分だ。https://www.asahi.com/articles/ASQDM3JD2QDGULEI00H.html
 
 「最近、各地で虐待などの問題のある保育が発覚しています。ただ、以前からこうした実態はあり、保育死亡事故にもつながっていました。藤井さんは、「根本的に『当たり外れ』が出てしまいかねない現状の保育制度がおかしい」と訴えます。」
 
 被害者としては、外れの保育園にあたってしまったという気持ちがあり、当たり外れのない状況をめざすべきであるという主張なのだろうか。しかし、人間に限らず、自然的な環境にしても、あたり外れにぶつかることはあり、まして、人間組織に関しては、100%あたり外れはあるのではなかろうか。

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都立高校が校内で塾を

 12月26日の読売新聞に、「都立高が塾講師招き「校内予備校」開設へ…受講費用は都教委が負担、経済的格差減らす狙い」と題する記事が掲載された。
 経済的な事情で十分な受験対策ができず、進学や希望が薄く進路を諦める生徒を減らす狙いなのだそうだ。放課後や土日、長期休みに実施し、英語と数学中心で、費用は、都の教育委員会が負担する。今後、実施する高校と提携する予備校を選定するという。
 記事の最期に、有料で校内予備校を実施している都立松原高校校長の談話があり、教師たちは個々の受験対策まで手が回らない。学習塾の効果的な学習方法で学力をつけ、進学への意欲が高まっていると語らせている。短い記事だが、コメントも既に700を超えている。賛否両論という感じだ。高校の教師は効果的な学習をさせていないのか、という疑問は置いておこう。

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再論 学校教育から何を削るか12 いじめアンケート1

 教師に過重労働を強いている要素として、たくさんの調査と報告書の作成がある。文科省や教育委員会からもたらされるそうした調査と報告は、拒否することは難しい。管理職が処理すれば、教師の労働がそれによって過重になることはないだろうが、多くが個々の教師に課され、報告書の作成も負わされる。教育実践に役に立つ調査であれば無駄ではないだろうが、単に行政的な観点からの調査などは、時間の浪費以外の何物でもない。特に、年3回義務つけられている「いじめアンケート」は、前後の検討も含めて、大きな負担を強いているだけではなく、いじめ対応を逆に難しくしてしまう側面もある。
 
 いじめ問題が、現在の日本の学校教育における最大の問題のひとつであることは、多くの人が認めるところだろう。学校に子どもを通わせている親は、自分の子どもがいじめられていないか、あるいは、いじめの加害者になっていないかを、不安に思っているに違いない。いじめによる自殺という、取り返しのつかない悲劇も引き起こす。いじめは、学校に限らず、また現代社会に限らず、どんな人間社会にも存在していただろうが、今の日本で起きているいじめ問題の深刻さは、例をみないといってもよいのである。

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教師の休暇 アイドルの公演をみにいくことは?

 教師たちが、過重労働を強いられているというとき、労働時間や労働内容の過重であることももちろんだが、休みをとりたいときにとれないことも、過重労働感を増幅しているといえる。教師は、子どもの授業を絶対に休んではならないというような感覚があり、それが、休みをとることを躊躇させる。
 もちろん教師にも、法律で定められた「有給休暇」が認められているが、それを自由に、法律通りに取得できる学校は、まずないといえるだろう。文科省ですら、教師の過重労働を軽減するための一方策として、有給休暇を夏休みに集中的にとらせて、労働時間と休暇の辻褄をあわせ、その分、学期中の労働量を増やすような政策を打ち出している。普段の労働は、少しも改善しないにもかかわらず、別にとる必要がない時期に、有給休暇をとらせて、ちゃんと休みがとれているという、はっきりいえば、ごまかしの政策である。

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再論 学校教育から何を削るか11 生徒会3

 
 私は、ずっと中学の社会科と高校の公民科の免許をとろうとする学生を指導していた。そして、模擬授業をかなりやるのだが、憲法の基本的人権を扱う場合、まず、学生たち自身が「権利」を実感していないと、いつも感じていた。彼らは、知識としては、憲法の人権規定を知っている。しかし、それがどういう意味をもち、現実社会の中でどのように問題となるのか、というリアルな感覚をもっていないのである。それは、彼らの責任ではない。権利を単に「知識」として学習してきたから、実感をもてないのは当然なのだ。では、最も必要で、かつ効果的な「権利の教育」は、何か。学校の場で、当人たちが、権利をもつことなのである。学校教育を支えている教職員、生徒、父母たちが、それぞれの固有の領域で権利をもち、それを保障されていることである。もちろん、学校運営の基幹は、教育委員会と校長である。しかし、他の構成員が、単に協力する、従うという関係で、健全な民主主義者の担い手を育成できるはずがない。
 
    生徒会を民主主義的な主体を育てるための変革理論としての「アソシエーション論」を検討しておこう。

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再論 学校教育から何を削るか10 生徒会2

 社会のルールを守ることは、市民としての当然の義務であろう。しかし、そのためには、市民がルールを納得していることが必要である。納得できないときには、それを変える権限があること、また、必要なルールを作ることができなければ、ルールを守ろうという意識は育たない。単に、ルールがよいかどうかではない。
 子どもにとっては、そうしたルールは校則である。
 日本の校則には、かつてとんでもないものが少なくなかった。私が記憶している、最も不可解な校則は、トイレットペーパーは30センチ以上使用してはならないというものだ。校外では、たとえ家族であっても、学校の許可なく異性と一緒に出かけてはならない、などというのもあった。

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再論 学校教育から何を削るか9 生徒会1

 
 民主主義社会の担い手として、子どもを成長させることは、非常に重要である。そして、そのためには、子ども自身の組織があり、民主主義的な運営がなされ、そして、権限をもって活動できることが不可欠であろう。しかし、残念ながら、日本の学校教育には、そうした子どもの組織は存在しない。あるのは、児童会や生徒会であり、それらは、決して民主主義的な組織ではない。だから、生徒会は不要といえる。もちろん、それに代わる組織が必要であるが。生徒会で十分ではないかと思っている人には、ぜひ、アメリカのサドベリバレイ校を知ってしほしい。
 
 サドベリバレエ校では、校則や処分を決めるためには、全校集会の決定が必要である。そして、全校集会は、4歳の子どもから大人のスタッフまで全員が出席する権利があり、そこでの一票は平等である。NHKの番組では、盗みがあった件について、司法委員会で議論している場面が写されていたが、スタッフの発言に対して小さな子どもが堂々と反論していたことが印象的である。そして、極めて筋が通っていた。もちろん、日本の通常の学校でそのようなシステムを取り入れることはできないだろうが、子どもの判断力は、大人が考えるよりもずっと高いのではないだろうか。

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再論 学校教育から何を削るか8 集団的宿泊行事

 教師の過剰労働には、日常的なものと、年に一度の行事とがある。行事は単にその当日だけではなく、実行のための準備期間が必要だ。おそらく準備期間が大変なのが運動会であり、当日事故なく行うのが大変なのが集団的宿泊行事であろう。集団的宿泊行事の仕事を、教師に強制することは、極めて過酷であるだけではなく、不当な内容を含んでいるといわざるをえない。従って、集団的宿泊行事は廃止されるべきである。
 
 学習指導要領には、特別活動の学校行事の項目で、「遠足・集団宿泊的行事」が明記されている。

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指導死を考える2

 前回は、子どものための対策を考えたが、今回は、教師のための対策と制度的対策を考えることにする。
 教師は指導死の加害者であり、「教師のための」というのはおかしいのではないか、という感情もあるだろうが、いじめ問題の解決のためには、加害者のケアも必要であるように、指導死における教師のケア、特に指導死に至るような指導をしないで済む対策が必要である。
 指導死をもたらすような指導を教師がしている場合、それは大きくふたつの要因が考えられる。
 第一は、そもそも間違った指導観、厳しくすることが効果をあげる、いっても聞かない生徒は、力をもってわからせる必要がある、ミスをしたら徹底的に反復練習をさせる、等々の感覚をもっていることである。
 第二には、そうした間違った指導観をもっていなくても、疲労などでいらいらしてしまい、感情的な指導になってしまう場合である。

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