前回は、子どものための対策を考えたが、今回は、教師のための対策と制度的対策を考えることにする。
教師は指導死の加害者であり、「教師のための」というのはおかしいのではないか、という感情もあるだろうが、いじめ問題の解決のためには、加害者のケアも必要であるように、指導死における教師のケア、特に指導死に至るような指導をしないで済む対策が必要である。
指導死をもたらすような指導を教師がしている場合、それは大きくふたつの要因が考えられる。
第一は、そもそも間違った指導観、厳しくすることが効果をあげる、いっても聞かない生徒は、力をもってわからせる必要がある、ミスをしたら徹底的に反復練習をさせる、等々の感覚をもっていることである。
第二には、そうした間違った指導観をもっていなくても、疲労などでいらいらしてしまい、感情的な指導になってしまう場合である。
第一の指導観については、異論もあるに違いない。厳しい指導は、決して「間違っている」わけではないという信念をもった人は少なくないに違いない。学生のなかにも、「中学生のときに、先生が私を殴ってくれたから目が覚めて、その後しっかりやろうと思って、いままで来れた」などと発言する学生がいた。私が子どものころは、親が子どもを殴ることは普通で、教師に対しても、「うちの子が悪いことをしたら、どんどん殴ってください」と注文する親は少なくなかった。さすがに、現在ではそうした親は少ないだろうが、特に強豪校である部活の部員の親は、厳しい指導を求める傾向があると言われている。「言ってもわからない子ども」というのは、かつての自分だった可能性が高い。だから、「厳しい指導」は、信念になっているに違いない。
しかし、厳しい指導が効果をもつのは、その指導が何故必要であるのか、つまり、子どもたちが、そのことを逃げずにやりとげねばならないのは、何故なのかを、しっかりと理解していることが前提である。むしろ必要なことは、理解させることだ。本人が理解すれば、自ら進んで練習、学習するだろう。従って教師に求められるのは、子どもに理解させる能力である。「言ってもわからない」子どもがいるのではなく、「子どもに言葉でわからせることができない」教師がいるだけなのだ。
教師の指導力を高めるためには、研修のあり方を根本的に変えていく必要がある。これは、研修論として、より本格的に考察する必要があるが、ここでは簡単に書いておきたい。
現在の教育委員会が法令に従って進める研修は、同じ学校の教師が指導する場合もあるが、より多く外部講師による講習や指導が行われている。例えば、研究授業などを行う際、大学教員や教育委員会の指導主事などが、授業をみて講評する。しかし、外部の人間が授業をみて行う指導は、基本的に教師の教え方を、形式的に把握してのものになりがちである。子どもをみていても、日常的に子どもを知っているわけではない。だから、子どもの特性や個性を踏まえて、教師の指導の仕方を講評することは、困難なのである。だから、こうした研究授業とその講評によっては、本当にえられる成果の半分程度しか、授業を行った教師はえられないのではなかろう。つまり、教師のことも子どものこともよく知っている人が、授業をみて、自由な論評と討論を行う、そうした研修を積み上げていることが、最も効果的なのである。そして、日常的な授業こそ、講評の対象になるべきものであって、外部講師にみせるために、特別に準備した研究授業などは、負担が多い割に成果が少ないものになりがちである。そういうなかで、暴力的・暴言的な指導ではなく、子どもも納得するような指導は、どうするのか、どうやれば、子どもが受け入れるかを知っていくのではないだろう。
こうした指導観については、厳しい指導を求める親に対しても、啓蒙活動として広めていく必要がある。
第二の問題の解決のためには、当然教師の過剰労働を解消することが不可欠である。どんなに正しい指導観をもっていても、極端に疲労しているときに、子どもにいらいらした感情をぶつけてしまうことはありうる。それは決して、教師だけの責任ではない。
しかし、過剰労働だけが、教師のいらいらを生むわけではないもの明らかだ。力量不足で、子どもの指導がうまくいかない。子どもたちとの相性が合わないこともある。子どもたちのカウンセリング体制は、かなり整えられたが、教師に対しては、まだまだなのではないだろうか。大学での「学校臨床」の講義でも、対象は子どもであって、教師へのカウンセリング理論・方法は、まだまだ不十分であるように思われる。何冊かの学校臨床心理学の著作をざっとみたが、教師はカウンセラーと協力して、子どもや保護者に対応する存在として扱われているのが主流である。企業に勤める人や一般公務員とは、明らかに異なる職業的特色をもつ教師は、やはり独自のカウンセリング対象として研究し、また実践する臨床家が必要になっている。
最後に大きな制度改革の必要性を明らかにしておきたい。
自殺するほどに、特定教師の指導を嫌悪している場合、当然、なんどもそこから逃れたいと強く思ったはずである。しかし、義務教育の公立学校は当然として、高校までの学校では、教師から逃れることは、非常に難しい。大学であれば、授業をとらなければよいし、演習などで選ばなければよい。それでも、逃れられないこともあるだろうが、小中学校では、指導してくる教師から逃れることは、ほとんど不可能である。そして、逃れられない絶望感から自殺してしまうとするなら、やはり、最終的な手段として、逃れることを可能にする制度に変換すべきである。
これまで何度も書いてきたので、繰り返しになるが、まずは部活を学校教育から排除して、社会体育のクラブに移管すること。同一地域に、同じ競技のクラブが複数できることになり、あるクラブの指導者と軋轢か生じたら、他のクラブに移ることが容易にできる。そうすれば、特定の教師の指導に、自殺したくなるほど悩むことは、ほとんどなくなるはずである。
では、部活以外の、学校生活での教師の指導についてはどうか。これは学校選択制度を実施することで回避できる。私が、オランダの学校選択制度を研究するようになったきっかけは、1980年代の日本で、いじめによる自殺が顕著になってきたのに対して、学校制度としての対応はありえないのか、と思ったことがきっかけだった。義務教育は、学校を指定しているから、逃れようがないが、学校選択制度にすれば、どうしても指導されたくない教師から逃れるために、あるいは、そうした教師がいる学校に在学しないために、学校を選択し、転校も自由にできるようにすればよい。実際にオランダでは、そうした制度が100年も続いていることがわかり、そこで研究を始めたわけである。そのときの意識は、いまでも同様に思っているし、その必要性はますます高まっていると思っている。
逃げることを制度化するのは正しくない、と思う人もいるだろう。しかし、弱い存在は、強い存在から自分を否定されたら、逃げざるをえなくなるときがあるし、それ以外のリスク回避は不可能なこともある。子どもが教師と話し合って、教師を説得できれば、理想的だろうが、やはり、最後には回避できる、つまり逃げることを可能にしておくことは、リスク回避の智恵である。