指導死を考える1

 教師による指導死が問題になっている。指導死とは、教師の不適切な指導によって、生徒が自殺してしまうことであるが、実際にどの程度の指導死が起きているかは、厳密にはわからない。ウィキペディアには、知られた指導死の事例が出ているが、文科省の統計には、項目として存在しないだけではなく、文科省のホームページで「指導死」で検索すると2件ヒットするのみである。
 ひとつは、「いじめ防止対策協議会(平成27年度)(第1回)議事要旨」での小森美登里氏の発話のなかに一回出てくるだけで、委員による反応はない。
 小森氏は、指導死は広い意味でいじめ事件であると認識しているのに対して、委員たち、そして文科省は、いじめのなかに含めていない。そのことは、次の文章で明確である。
 山田太郎という人のブログに以下のような記述がある。
 
「教員による「指導死」は調査に含まれない!?こども庁には、現場の調査機能が必要!」
「”バレーボールの授業中にAさん(小4)が誤ってボールを頭で受けてしまい、兼ねてから仲が悪かった女性担任から「ふざけるなら、やらんでもいい」と怒られました。以降、不登校になり、通学路を見るだけで吐き気に襲われるようになりました。

 これに対し、母親が訴えたところ教育委員会は「教員の振る舞いによる不登校は、いじめ防止対策推進法の対象ではない。だから調べる義務はない」と回答が返ってきた”という事例です。このように、教師が関わったものについては調査すら行われないのが現状です。」
https://go2senkyo.com/seijika/68604/posts/234019 山田太郎ブログ 2021/4/27
 
 調査が行われていないことは、文科省のページのなかに、そうした統計が現れていないことでもわかる。
 文科省のホームページに出てくる、指導死のもう一件は、名古屋市の公務員懲罰表のなかに、「教員の不適切な指導」が懲戒免職を含む処分の対象になることが示されている。しかし、「指導死」という言葉が出てくるわけではない。
 確かに、指導死という言葉が、正確に事態を表現して、そこから適切な対策を導き出すような概念であるかは、検討の余地がある。指導の結果として、学生が死亡した(自殺ではない)事例を知っているからである。しかも一般的には不適切な指導とはいいがたいものだった。
 ある女子学生が、短大から編入してきた。極端に痩せていて、拒食症であることが、一目でわかるほどだった。実は短大時代に、体型をさんざんからかわれ、拒食症になってしまったのである。編入先では、体型のことをからかうような学生はおらず、生き返ったように、勉学に取り組むようになった。しかし、拒食症が治癒したわけではなく、編入後に入院したこともある。学生の勉学意欲は強く、またゼミの指導教員もしっかり勉強するように励ました。しかし、それは逆効果となり、本来まだ入院治療が必要で、過度の頑張りは危険だったのだが、それを押してゼミ発表などの準備をしていた際に風邪をひき、通常の薬でも過剰摂取となって、ショック死してしまったのである。私が指導教員なら、無理せず、まだ身体を元に戻すことが必要だ、と説得したのになあ、と思ったことは事実である。しかし、励ますことが不適切指導といえるだろうか。妥当だったのかは、まったく検討されないまま、不幸な成り行きと考えられて終わった。
 みなさんは、その教員の指導は不適切だったと思うだろうか。
 小中学校での指導死とされる事例でも、教師の側では、よかれと思って指導したということは、少なくないに違いない。明らかに、教師によるいじめといわざるをえないような行為もあるが、そうともいえない事例があることも事実だ。びしびし厳しく指導してください、という保護者からの要請に、逆に悩んでいる教師も少なくないのである。
 
 ただし、部活や授業、あるいは別の機会の指導などが、生徒自身にとって耐えがたいものになって、悲劇を生む場合があることは事実であるので、対策を考えてみよう。
 以上のことを踏まえて、対策を考えてみよう。
 「「後絶たない、学校の「指導死」 息子亡くした大貫さん「管理職が責任もつ体制ない」」(朝日デジタル 2022.11.11)で大貫隆志氏は、次のような提言をしている。
・管理職が責任をもって指導死を防ぐ体制にする。違反した場合に、刑事罰も課す。
・校外に通報窓口を設置する。
 
 通報窓口は、既に存在しているだろうが、ただ、身近にはなっていない。誰にもわかる形でアクセス可能にすることが大事だろう。電話、ネット(メール、オンライン面談)、対面による面談など、様々な形態で設置することが大事だ。公的なものと、NPOなど、形態も多様にあったほうがいいに違いない。
 管理職の責任については、法的な改定な必要となるが、明確にすべきである。文科省は、校長の権限を強化しようとするが、権限に伴う責任については、あいまいにする傾向がある。権限を強化して、責任をとらせない体制は、管理される側にとって、不当なことが起きる可能性が高い。
 校長や教師の責任を考察する場合、勤務評定のあり方も必要に応じて変えていく必要がある。校長の多くは、学校で何か事故、事件のようなものが「なかった」ことが、高い評価をえるために必要であると考えているようだ。だから、いじめによる事件があると、それをなかったようにする隠蔽工作が行われやすい。また、自殺した子どもがいても、いじめはなかったとか、いじめによるものではない、と弁明する。しかし、そうした隠蔽こそが、いじめ解決に最もマイナスをもたらすものなのである。人間がたくさん一緒に生活している以上、大人でも子どもでも、いじめは発生してしまうものだ。避けるべきなのは、自殺などの取り返しのつかない事態にいってしまうことである。だから、大切なことは、いじめを隠すのではなく、いじめを適切に対応して、対応することだ。いじめも少しずつ激しくなっていくもので、突然被害者が自殺してしまうものではない。そして、その過程で必ずサインを出しているものだ。サインを見のがさず、適切な介入をして、大事にならずに済ますこと、そして、それを正確に報告することこそが、管理職としての手腕と評価する。逆に、いじめに対応してかったり、隠蔽したら、それをもって、低い評価とする。
 そうした評価基準をつくって、校長や教師に実践させていくように変えていく必要がある。
 
 法令を改正しなくても、現場の考えで変えることができることで、ぜひ必要だと思うことを書いておきたい。
 問題を起こした生徒を、複数の教師たちが指導することがある。問題を起こしたわけだから、生徒は当然引け目があり、しかも、教師たちは、正義の立場から強く生徒を非難する。高校以上の学校や私立学校では、生徒が懲戒処分を受けることがあるが、そういうときにも、複数の教師が生徒から事情聴取をするはずである。しかし、そのようなときに、生徒は、まったく孤立してしまう。いかに問題を起こしたとしても、弁明する機会は与えられるべきである。もちろん、教師に取り囲まれても自己弁護できる生徒はいるかも知れないが、多くの場合に、いいたいこともいえないのではないだろうか。生徒の立場にたって、弁護してくれる大人が必要である。生徒が信頼できる教師を指名するのがよい。
 しかし、こうした考えは、教師たちの間に極めて希薄である。私自身、勤め先の大学で、そうした提案をしたことがあった。少し前に、学生が盗撮したという嫌疑で処分されたことがあった。しかし、その過程での学生の説明には、とうていありえないような内容が多かった。もちろん、学生委員たちが、学生を詰問したのだろう。盗撮という極めて恥ずべき罪での追求ということもあり、正常な対応が不可能になって、ありもしないことを口走ってしまったと考えても、不思議ではないようなことだった。しかし、それはそのまま受け取られ、処分が決まったのだ。それで、大学全体の重要事項を審議する委員だったので、その審議会で提案してみたわけである。ところが、誰一人賛成する者もなく、まともに取り上げられることがなかった。
 だが、やはり必要だと思うのは、今でも代わりはないし、とくに、教師集団に取り囲まれて指導された結果、自殺してしまう生徒が、現に存在しているのである。誰か一人でも、教師が弁護する立場で、生徒のいいたいことを代弁してくれたら、違う結果になった可能性は十分にある。
 近年、日本の警察、検察の取り調べに、国際的批判が寄せられるが、ここでの取り調べと、生徒たちを指導する場とは、極めてよく似ている。司法が、欧米的な標準に近づけるべきであるとともに、同じ原則が、生徒たちへの指導についても適用されるべきなのである。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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