広島呉市のいじめ 形式主義の対策が解決を遅らせる

 毎日新聞3.26に、いじめ放置という記事が出た。自殺などの最悪の事態になったということではなく、卒業して高校生活への期待をもっているということのようだ。しかし中学3年間、いじめ被害を訴えたにもかかわらず、適切な対応をされなかったという記事の内容である。いろいろ考えるさせられるところがあるので、それらを整理しておきたい。

 記事のなかで、経緯が年表風に整理されている。
2016夏 同級生から服を破られるなどのいじめがはじまる
2017.11 3回教室で服と下着を脱がされる
     保護者が学校と市教委に連絡。学校が加害生徒に聞き取り
2018.4 学校が保護者に「グループ内の罰ゲーム」と説明。一時不登校
   6 不安障害と睡眠障害と診断。休みがち
   11 市教委が保護者に「重大事態として再検討」と連絡
2019.2 市教委が保護者に「重大事態として第三者委員会を設置したい」と連絡

 以上が、毎日新聞が整理した経緯である。
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道徳教育ノート 二匹の蛙2

 文部科学省の「二ひきのカエル」を考えてみたい。
 この文章が、文部科学省のホームページに掲載されている道徳教育の教材であることに、まず驚いた。これはいったい如何なる「徳目」なのか。どういう道徳的価値を教える教材なのか、いくら考えても、私にはピンと来ないのである。(テキストは二匹の蛙1にあります。)
 若い蛙のピョン太が井戸に落ちて、なんとか這い上がろうとするができない、助けを求めても、誰も助けてくれない。おじいさん蛙がいて、諦めろ、ここもけっこう楽しいし、安全だなどといっている。そのうち、人間がやってきて、井戸水を汲むためにおけを落として、引き上げるとそこに蛙もいて、外に出られるという話である。
 いくら道徳の教材でも、あまりにリアリティの欠如した話というのは、教材としてふさわしくないだろう。
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道徳教育ノート 二匹の蛙1

 文部科学省の道徳教材のページを見ていたら、「二匹のカエル」という教材があったので読んで、授業研究などがあるか検索したら、まったく別の「二匹のカエル」という新美南吉という童話があり、更に別の様々な「二匹の蛙」があるようだ。不覚ながら今まで知らなかった。分析は次回にし、今回は教材の紹介だけにする。

 どうやら、その元祖は、イソップ寓話らしい。非常に短い話だ。
 題は、「水を探す蛙」というもので、極めて短いので全文引用する。

 蛙が二匹、池の水が干上がったので、安住の地を求めてさまよい歩いた。とある井戸の辺りまで来た時、おっちょこちょいの一匹は、跳びこもう、と言ったが、相棒が言うには、
「もしここの水も干上がったなら、どうして上がるつもりかね」
 後先の考えもなく事に対処してはならぬと、この話は我々に教えている。(『イソップ寓話集』中務哲郎訳岩波文庫)
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道徳教育ノート「泣いた赤鬼」2

 ここでの道徳教育ノートは、授業案を考えることに目的があるのではなく、道徳教育を行う、あるいは、教育全体のなかで道徳教育を位置づけることを考えている教師に、まずは大人として、道徳教育の理解をぎりぎりまで、深く、かつ広く掘り下げてほしいという目的で書いている。私自身は、子ども相手に道徳教育をしたことはないので、正確には、わからないが、もちろん、起きることの予想はできる。そういう点も含めて今回は考えてみたい。
鬼って何?
 子どもが、「鬼って何」「なんで、人間は鬼とつきないたくないと思っているの?」「赤鬼と青鬼は人間に対して、違うような態度をとっているけど、鬼にもいろいろあるの?」とか、そういう疑問を出すことはあるだろうか。
 というより、そのような疑問が出てこないクラスがあったら、普段から興味や疑問をもって学習をしていないのではないかと、心配になってしまう。
 もちろん、節分などで、鬼は怖い存在だとという意識をもっているとしたら、じゃ、なぜ赤鬼は、自分はやさしくて怖くないのだから、人間につきあいまょしうなどといっているのか、という疑問が出てくるはずである。
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道徳教育ノート 泣いた赤鬼1

 道徳の教材としてよく用いられる文章の第二位が「泣いた赤鬼」だそうだ。もちろん、一位は「手品師」である。
「泣いた赤鬼」は、日本のアンデルセンといわれた浜田廣介の作品であり、発表は昭和8年である。最初の題は「鬼の涙」であり、「鬼同士の絆を描いたこの童話に出てくる犠牲という言葉からは、恩人さよへの負い目が廣介の心を離れなかったことが想像される」と、浜田廣介記念館の名誉館長をしている娘の留美は書いている。(小学館文庫『泣いた赤おに』の解説より。さよは、廣介の母の従姉妹で、廣介が経済的に困っていた時期に、ずっと援助し続けた恩人)
 留美氏によると、浜田は、常に人の善意を重視する物語をつくり続けたという。
 一貫して「童話」を書き続けたことからみて、それはごく自然なことだろう。
 しかし、世界の名作童話は、実は、ほとんどが、作者の意図を超えて、(あるいは、元々作者が意図していたのかもしれないが)大人が読んでも、様々な解釈が可能で、単なる善意とか、愛とか、友情などの枠におさまらない内容をもっているし、その多くは、実は大人でなければ充分には理解できないことさえある。
 アンデルセンの「裸の王さま」を考えてみよう。

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生徒の暴力で教師が市を提訴

本日(3月1日)の毎日新聞他、各新聞が、生徒に暴行された教諭が学校側を提訴という記事が掲載されている。この提訴は、1週間ほど前から予告されており、原告が記者会見を開いて、提訴することを公にしていたのだろう。
 報道によると、中学の教師が、2013年に給食時間中、教室の扉を蹴った生徒に注意をしたところ、頭を殴られ、手首を強く締めつけられ、膝蹴りを受け、鼻を骨折した。学校側は、警察や消防に通報しないばかりか、公務災害の申請も拒否し、保険での治療を勧めたという。手術を何度も受け、公務災害は認められたものの、2015年まで休職せざるをえなかった。
 毎日新聞の質問に対して、教育委員会は、「教諭に不安を与えたかもしれないが、学校と市教委の対応は適切だった」と回答しているそうだ。
 文部科学省によると、生徒による対教師暴力は、年間8000から9000件あるそうだ。
 他の報道によると、学校は、生徒の暴力には、教師は体をはって防ぐべきだ、といったともされている。

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いじめの深刻な事態への懲戒は教師ではなく校長にすべき

 今日(2月27日)の毎日新聞に、「いじめ不適切対応で懲戒 条文明記に賛否」と題する記事が載っている。学校の不適切な対応のために、いじめが深刻な事態に発展するケースが少なくないという認識からだろう、「いじめ防止対策推進法」の改正の一環として、超党派の国会議員で検討が進められているという。案の骨子として、毎日新聞は以下の内容を示している。

・いじめ対策は児童等の教育を受ける権利の保障のために欠くことができない学校において最優先に対応すべき事務であり、適切に行われなければならない
・教職員はいじめの防止に関する法令、基本的な方針、通知等に精通し、正しい理解の下に職務を行わなければならない
・教職員はいじめを受けた児童等を徹底して守り通す責務を有し、いじめまたはいじめが疑われる事実を知りながら放置し、または助長してはならない
・地方公共団体は教職員がこの法律の規定に違反している場合(教職員がいじめに相当する行為を行っている場合を含む)、懲戒その他の措置の基準および手続きを定めるものとする

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親と教師の懲戒権は削除すべき

 今日(24日)TBSサンデー・モーニングで、子どもの権利委員会が、日本政府に対して、親の体罰等に関する勧告を行ったというニュースを流した。あまり詳しくは触れられなかったのと、このことをうっかり見過ごしていたので、調べてみた。数年前から、私は、大学の講義で、教師の懲戒権を検討し、教師の懲戒権そのものを削除すべきであるという見解を紹介している。もちろん、そういう学説の紹介であるが、私自身の意見でもある。
 今回の勧告は、今年になって発覚した千葉県野田市の少女虐待死ではなく、昨年起きた東京目黒区での5歳の少女虐待死事件を受けてのことだろうと思われるが、野田市の事件が騒がれているときの勧告だけに、政府も検討を始めたようだ。
 事件等はよく知られているので、勧告の内容をまず紹介しておく。平野裕二氏の「子どもの権利・国際情報サイト」に掲載されている訳文を使用させていただく。https://www26.atwiki.jp/childrights/
 詳しく知りたい人は、ぜひこのサイトをチェックされることを勧めたい。

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道徳教育ノート 「手品師」2

  前回、「手品師」の文章そのものと、実習生の授業や大学生の意見をもとに考えてみたが、今回は、明治図書の『道徳教育』2013.3号で、手品師の特集を組んでいるので、それを参考にしながら、再度考えてみたい。
 この特集を読むまで、実は私自身誤解していたことがあった。それは「手品師」という文章が、原作は欧米で、日本語に翻訳したものを使っていたのかと思っていた。大道芸人の手品師などは、日本であまりみかけないし、また、大劇場での演技というのも、あまり聞かないからである。しかし、江橋照雄という、日本人の道徳教育の専門家が、道徳教材として創作した文章であることがわかった。『道徳教育』のこの特集号には、江橋照雄が作者としてきちんと記入された文章が掲載されているだけではなく、「手品師の履歴書-手品師のこれまでの人生を知る手がかりとして-」という、前史と「手品師に熱き思いを寄せて」という江橋氏の文章が載っている。このふたつの文章によって、「手品師」の内容そのものがよくわかり、作者の意図も理解できる。しかし、いくら作者であるといっても、既に書かれてかなり経過しているこの物語は、作者の意図を超えて、多様な解釈に委ねられているし、道徳教材としての賛否もまた活発に議論されている。始めて公開されたのが、1976年というから、既に40年以上経っているわけである。社会状況やそれに応じた子どもたちの意識にも大きな変化がある。そうした変化を無視して、作者の意図通りの授業をしても、心には訴えないと考えざるをえないのである。

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教育行政学ノート(3)国民が主人公である教育行政

 国民主権とは、国民が国政の主人公であるという意味である。しかし、ルソーが語ったという「選挙のときだけ主権者になる」という、主権者の実態を疑わせるような事態は、残念ながら普通にみられる。言葉として民主主義、国民主権をいっても、実際には国民のためではなく、一部の勢力のための政治が行われていることは、国民のために政治が行われていることよりも多いだろう。しかし、厳密に考えると、「国民」とは誰のことなのか、主権をもつとはどういうことなのか、非常に難しい論手がたくさんある。
 政治一般ではなく、教育行政学として、国民が主人公であるようなあり方を具体的に考察していきたい。
 教育行政は、法が、法律(国会による国全体の法)、条例(地方議会による当該地域に効力をもつ法)に分かれているように、国家機構のレベルに応じて、行政機構が存在する。
 国→文部科学省、都道府県→都道府県教育委員会、市町村→市町村教育委員会、学校→校長、(学校運営協議会)、学級→担任 教育行政が、教育組織の運営に関わる行為である以上、学級もその一種であることに変わりはない。

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