スクールカースト

 ゼミのテーマが人間の尊厳ということで私が人間の尊厳が侵されている事例として思い浮かんだのが「スクールカースト」についてだった。スクールカーストとは学校の教室内で自然発生的に起きる生徒間の人気の度合いのことを示す。インドのカースト制度に似ていることからスクールカーストという言葉が生まれた。
 
 スクールカーストのある教室では下のランクのものは教室で騒ぐことが許されていない。常に上のランクのものに目をつけられないよう、目立たないように気を使い続けなければならない。上のランクのものには教室で騒ぐ権利があり、クラスの空気を変える権利がある。このようなことが現代の学校の教室で起きている。このことは人間の尊厳を侵していると私は考え、スクールカーストを個人テーマにすることにした。他にも私にはこのテーマを設定した理由がある。私自身、高校時代にスクールカーストを経験していた。上のランクではなかった私はクラスの上のランクのものに目をつけられないように無意識にだが気を使っていた。とてもモヤモヤした気持ちで高校時代を過ごしていたのを覚えている。大学に入ってからスクールカーストという言葉を知った。高校の頃のあのモヤモヤの正体はこれだったのかと気づいた。それでスクールカーストに興味を持ち、二年生の授業で自分でテーマを設定して発表するという授業があったのでスクールカーストについて調べ発表した。このゼミの中では以前自分が調べた内容をさらに深めていきたいと思っている。

では
具体的に何を調べていくのか。まずスクールカーストの上下関係を形成してしまう要因を調べていきたいと思っている。主に知られているものとしては、容姿や学力、運動の得意不得意などがある。また最も重要なものがコミュニケーション能力だと言われている。これらの様々な要因が複雑に絡み合い、スクールカーストは形成されていると言われている。他に調べる内容としてはいじめとの関連についてである。スクールカーストといじめは同じものではないが全く別のものとも言えない関係にある。全てのいじめがカーストから発生している訳ではないが多くの場合にはカーストで下のランクのものがいじめられる割合の方が高いようである。研究の中で私はどのような場合においてスクールカーストはいじめに発展してしまうのか調べていきたいと思っている。また現場の先生にもインタビューを行いスクールカーストをどう思っているかや、「教室内カーストを書いた鈴木翔さんにもインタビューを行っていきたいと思っている。

「人間の尊厳」を侵すクレーマーズ

 人間の尊厳が侵されているケースを考えてみたときに、始めに浮かんだのはクレーマーに代表される道徳性を欠いた客の言動や態度だ。

 近年、クレーマーやモンスターペアレントなど道徳性を欠いた者たちの存在が、度々メディアに取り上げられている。そのような異分子に対して疑問や憤りを抱くようになったのは最近のことで、少し前までは「お客様は神様」という考え方が一般的であった。
現代人である私はそのような考え方には否定的で、高圧的な態度だけでなく、敬語で話しかけているのに“タメ口”で答えられると疑問を感じる。
 “タメ口”とは、主に二つの場面で用いられる言葉だ。一つ目は、友人関係や血縁などのお互いに親しい関係である場面。もう一つは、上司から部下や先輩から後輩など格差が存在する関係である場面。この二つの場面で客が用いる“タメ口”は後者であり、その“店員よりも客が優位に立っている”という立場誇示に対して誰も疑問を持たない。
もし、“タメ口”の客に対して“タメ口”で対応すると十中八九そのことでクレームをつけられるだろう。

なぜこのような理不尽なことがまかり通るのか。

客と店員は互いに納得して金と商品を交換しているだけなので、等価交換である以上、立場も同等のはずだ。
しかし、そのような疑問を抱く人は少なく、“客優位説”が世間には蔓延している。また、少し前までは“客は神様説”とより過激であった。
 だが、そのような考え方が広まったのは“大量生産社会”になってからで、むしろ江戸時代以前は売り手の方が優位であった。 このことは、現代の社会でも例外ではないだろう。
例えば、芸術作品など“特定の人物にしか作れないモノ”である場合や、“一見さんお断り”などの高級店だ。これらのケースは客よりも店側が明らかに優位である。このことを踏まえると、私たちは“客は店員より立場が上”という常識に囚われ、流されてしまっていると言える。

 これまでの内容は、クレームを受ける側を中心とした個人的な見解である。
そこで、“店員と客の立場関係”や“クレームの実態”などをバイト経験の有る学生を対象にアンケートを取り、そこから共通点や傾向などを見つけていきたい。
また、クレームを言う側の視点にも立って、「クレームを言ったことがあるか」、「クレームを言った理由」、「クレームと苦情の違い」などのアンケートを同時進行で進めたいと考えている。

人間の尊厳 障がい者支援について

 私は、特別支援学校に通う障がいをもった方々が、卒業後にそれぞれの進路先でどのような支援体を受けているのかを調べていきたいと思う。調べようと思った理由は、ジョブコーチ(職場適応援助者)という支援事業があるということを知ったからである。ジョブコーチとは障がい者が職場に適応できたり、人間関係や職場でのコミュニケーションを改善できるよう、支援計画に基づきジョブコーチが職場に出向いて直接支援を行うといった事業である。私はジョブコーチについて知り、この支援事業は障がいを抱えた人であっても、それぞれの場所で自分らしく生きていくための支援であると思った。私は人間の尊厳とは自分らしく生きること、であると考えているので、特別支援学校を卒業した後のサポートは、人間の尊厳と大きく関わってくると考え、このテーマに決めた。

ジョブコーチについて調べていくと、他にもさまざまな支援体制があることが分かった。
その一つに、障害者雇用促進法がある。これは障がい者の雇用対策として、企業に対して雇用する労働者の2.0パーセントに相当する障がい者を雇用することを義務付けたものである。この雇用支援によって、多くの障がい者の進路の幅が広がったのは確かである。しかし、私は障がい者にとって、「雇用されること」よりも「働き続けること」の方が大切なのではないかと考えている。だが、就職することができても、障がいについて周りから理解を得ることができずに職場になじめず辞めていったり、コミュニケーションを上手く取れず、仕事に適応することができなくて自信を失っていったりする人が多いことが現状である。また、その現状をふせぐためのジョブコーチの数が足りていなく、多くの障がい者が就職先で悩み苦しんでいることも事実である。私はどうすれば障がいを持った方が自信をもって働き続けることができるのかや、現在の支援体制が本当に障がい者のためになっていることなのか、なども考えていきたい。

また私は、支援体制などについて調べるとともに、支援を受ける側の、障がいを持った方々や、その家族は支援体制についてどう思っているのか、改善してほしいことや、このような支援があれば・・・といったような、支援を利用する人々の思いを伺うことができればと考えている。

調査方法としては、文献やインターネットなどを利用して、特別支援学校を卒業した障がい者の方々のために、どのような支援体制が整えられているのかを調べる。いくつかの特別支援学校にたずねて、卒業後はどのような進路があるのかも知りたい。そして調べたことなどを基にして、実際に障がいを持った方が働いている企業や作業所などに行き、本人や上司、責任者などの方々にインタビューしていきたいと考えている。

学校現場におけるこどもの尊厳

私は「学校での子供の守られるべき尊厳」について考察していきたいと考えている。

まず、学校現場で教師が子供に不快に思うようなことや傷ついてしまうような行為を行うことも、子供の尊厳が侵されているといえるのではないだろうか。私が小学生だった時に「嫌いな食べ物も残さず食べないと昼休みがもらえない」というルールがあった。また「人前で話すことが苦手な子に泣きながらクラスメートの前で発表させる」ということもあった。これはその子にとって嫌なことであり、尊厳が侵されている状況なのである。

しかし、教師の立場から考えてみると、今後進学したり社会に出たときに必要であるから行わせていることもあるかもしれない。また、できなかったことができるようになったという達成感を味わってほしいからこそ、そのようにしていたのかもしれない。このような教師の意図をきちんと受け取ってもらうことは難しいことである。時にはその意図が伝わらないまま子供が投げ出してしまうこともあるだろう。

一方、子供が不快感を抱いたり、傷つくことがあったとしても、なかなか教師に伝わらなかったり、言い出せないということも事実であろう。いくら子供が、教わる立場であるからとはいっても、守られるべき尊厳は存在するのである。

このような教師と子供たちとの心のすれちがいは実際に教師になれば誰もが経験する道であると考える。だからこそ私は、週一回、小学校に行かせてもらっているという環境を生かして、教師と子供の両方の観点から、子供の守られるべき尊厳について考えていきたいと考えている。

 

調査方法としては週一回行かせてもらっている小学校での観察や実際に先生方からお話を伺っていく。また、子供側の視点も得るために、文教大学の学生に過去の学校生活で教師からの押しつけと感じたことについてのアンケートも協力してもらう。

教師の影響力

人は20歳までの年に、人生の半分を過ごしたことになると、以前読んだ本の中に書いてありました。その20歳までの中で、学校に通う時間というものは大半を占めている。人々が生まれてから死ぬまでに学校という場に触れない人はほぼいないだろう。その学校という場において大事なものは友達であったり勉強であったりと様々だが、絶対に教師という存在が欠かせない。教師のもとでわたしたちは考え、行動し、成長していく。勉強を教わるのはもちろんであり他の様々な活動でも教師からなにかを得るということはおおいだろう。

 

そこで、ゼミのテーマである人間の尊厳と関連して考えてみたところ、学校での教師によって子どもの尊厳が冒されている場面があるのではないかと考えた。教師と子どもというのは密接な関係であるからして、その影響力というものは大きいだろう。教師のたった一言の発言やちょっとした行動でも子どもは何かを感じ影響されていく。自分にとっていい意味で影響させてくれる教師もきっとたくさんいると思うが、今回はそれが悪い意味で影響されてしまうことに対してスポットを当てたいと思う。 学生時代という貴重な時間の中で一体どんなことが生徒の尊厳をおかしてしまうことになっているのかを研究していきたい。

 

調査方法として、まずはそういった場面が本当にあるのかということをネットや文献などで調べる。それだけでは足りないと思うので文教大学の方々に教師の発言や行動により傷ついたと感じたことなどのアンケート実施する。教師がどんな存在であるのか、教師にどんな存在でいてほしいのかということも併せて聞きたいと考えている。 そしてそこからでた意見や事例を法律的観点や道徳的観点などの様々な観点から考察し、影響力の大きさ、どんなものが尊厳をおかしているかということを調査していきたい。

子どもの貧困

今回私が子どもの貧困について調べたいと思った動機は、子どもにとっての人間の尊厳が失われるとき、一番に仕方なく奪われてしまう原因は貧困によるものだと思ったからだ。生まれた時から貧困家庭にいる子もいれば、途中で貧困状態になる子もいるだろう。しかし、これらは子どものせいではないし、子どもがどうにかして改善できるものでもない。確かに、貧困だからといって幸せではない、というわけではないだろう。しかし、人間としての尊厳を奪われる機会は多いはずだ。

貧困について調べてしたところ、厚生労働省の調査では2009年の「子どもの貧困率」は15.7%となっており、約6人に1人が貧困状態と言われている。子どもの貧困とは、等価可処分所得の中央値の50%以下の所得で暮らす相対的貧困の17歳以下の子どもの生活状況を言い、一般的な水準の半分にも満たない水準で暮らしている子どもたちがどれだけいるのかということを指している。つまり社会がますます豊かになり、一般的な水準が上がっていくのに対して、その水準から落ちこぼれてしまっている子どもたちが、実に6人に1人の割合がいるということになるのだ。

さらに、母子世帯においては、66%が貧困となっており、一人親家庭に対しての社会保障が十分に追いついていない現状もうかがえる。

私はこれらより、貧困をいくつかに分類し、現代にはどのような貧困があるのかしらべてみようと思っている。例えば、経済的貧困ではなく、心の貧困であったり、経済的貧困の中にも、東日本大震災で被災して収入や資産を失った等の理由や、生まれたときから貧困家庭だった、 両親が病気などで働けなくなった、など、様々な貧困があるだろう。

そして、貧困から生まれる様々な格差がどのようなものであるか、どう子どもに影響しているのか調べ、最終的には、貧困は子どもたちにとって人間の尊厳をどれほど奪っているのか、改善策や貧困児童の保護について考えていきたい。

調査方法は、週に1回通っている小学校の校長先生や教頭先生に、実際の子どもの貧困状況やそれからうかがえる子どもの様子などについてインタビューしたい。また、アスポートという貧困状態にある子ども達をサポートする団体にインタビューしたり、その子たちと関わることができたらコミュニケーションをとりたいと考えている。また、ネットや文献も利用していく。

人間の尊厳と障がい児教育

 

人間の尊厳と聞いた際に、私は障がいを持った方々の尊厳が日本においてはあまり守られていないのではないかと考えた。また、日本においてはまだまだ障がい児の子どもに対しての補助や対応が遅れていると感じる。

現在の日本のでは、まだまだ障がい児に対する差別も強くそれは教育現場にも表れている。そこで、日本の統合教育について、世界で行われている統合教育と比較しながら、考えていきたい。また、日本では、知的障害を抱えたこども達や発達障害をどのように支援、サポートしているのか調べていきたい。

今年の2月に北欧研修に行った際、フィンランドや、スウェーデンでの障害児教育の現場を生でみることができた。

フィンランドでは、障害児学級の子ども達と、障害を持っていない子どもたちは同じフロアで学んでいた。特に日本と大きく異なる点としては、障害児学級のクラスには子どもたちの障害に応じて、先生の数が決められるため、人数が多いという点である。

また、スウェーデンの統合学校でにおいても、障害を抱えたこどもたちがいる特別学級と普通学級のこども達も同じフロアで学んでいた。更に、スポーツ大会などのイベントでは、全員が混ざり参加する。また、給食などを食べる場所も同じ場所であり、障がい児の子ども達とそうでないこども達がより関わりあえる環境になっている。発達障害のみを抱えたこどもたちは、普通学級におり、特別学級にいるこども達もそれぞれ自分の得意である教科などは、普通学級で同じように受けることも可能である。同じ教室には担任の先生に1人対し、障がい児の子どもの度合いに応じて補助の先生も複数人ついている。北欧においては、より、障がいを抱えていない子どもと、障がいを抱えた子ども達が深く身近にかかわれる環境作りがなされていた。

このような海外の障がい児教育の現状を見て、日本ではどのように障がい児教育が行われているのか、日本の現状はどのようになっているのかが気になったため、調べてみたい。

日本の特別支援学級ではどのような形で教育がおこなわれているか、どのような支援がなされているかを実際に特別支援学級にインタビューをさせていただき、調べていく。また、外国での特別支援について、文献を用いてしらべ、日本と比較しどのように日本で支援を行っていくことが良いか考えていきたい。

理解のスピード

授業中何故あまり発言しないの?と聞くと、理解するのや、考えるのが遅く、こういうことを言おうと思ったときには、次に進んでいることが多いのだ、との話を聞くことが多い。このような場合、どのようにして、理解や思考を速くすることができるのだろうか。あるいは、そんな必要は全くないのだろうか。あまり軽々しく考えて、熟慮しないまま意見を述べて、あとから突っ込まれ、訂正せざるをえなくなるよりは、熟慮したほうがいいに違いない。しかし、自己表現の時代に、言おうと思っていることがいえないのは、やはり、望ましいことではないだろう。
ではどうしたら、思考のスピードをあげることができるのたろうか。

スポーツなら、かなり明確になっていると思われる。短距離走、あるいは長距離走、また球技、水泳等々、主に使用する筋肉や身体部分が決まっている。そのスポーツで使用する筋肉を鍛えれば、たいていはスピードがでたり、遠くに投げることができたり、あるいは高く飛べるようになるはずである。スポーツは、基本的に心肺機能と筋肉・骨格の使い方がだいたいは明確になっているので、それに沿って適切な訓練をすればいい。しかし、思考はどうなのだろうか。思考の速い人と遅い人は実際にいるのだろうか、いるとしたら、何が違うのだろうか。
もちろん、話を聞いてすぐに反応するひとと、じっくり考え、時間をおかないと反応できないひとがいる。だから、ひとによって思考のスピードに差があることは間違いない。

そもそも人間が認識をするのに、どのような情報の処理が行われるのだろうか。
常識的には、いろいろな情報がはいってくると、それを記憶しつつ、整理して、考え、意見としてまとめて、それを表現すると考えられがちであるが、しかし、どうやら、それは違うようだ。ある情報を外部からインプットしたとき、その情報をすべて取り入れてから処理するのではないらしい。たとえば、あるひとを遠くから見たときに、全体をみなくても、「あ、誰々だ」と認識することがある。それが間違っていることも含めて。ある情報が入り始めると、それに似たデータを脳は読み出し、過去のデータと新しい情報を組み合わせて認識が行われるらしい。したがって、非常に似たひとの場合、重なるデータが同じなので、実は違うひとであるにもかかわらず、当人だと思ってしまうことが起きる。本人は、実際にAさんをみているのに、Bさんを見えたと感じることがある。認識とは、基本的に脳内の情報処理なので、今Aさんをみているにもかかわらず、にているBさんのデータが脳で処理されていると、Bさんをみているように錯覚してしまうのである。これは、意図的に勘違いするわけではなく、実際にそのように「見える」のである。「確かに、そのように見えたんだけど」という、自分でも納得できないような思いをしたことがある人は、少なくないと思うが、このようなメカニズムによるらしい。
このことからわかるように、脳はデータが入り始めると、どんどんそのデータを取り入れるのではなく、似た状況のデータを参照し始めるということだ。あるひとが、戦争についての話をきいたときに、前に似たような問題を考え、自分なりの意見をもっていたとすると、その戦争を話を聞いている最中に、前に考えた戦争についての自分の意見を思い出すことになるし、また、話も予め知っているので、理解が速くなる。意見を求められても予め考えられているので、新たに考える必要がない。つまり、理解が速いということは、思考スピードそのものも、別のこととしてありうるかも知れないが、通常は、前もって似たことを考えていると、そのデータがすばやく参照されるということなのではなかろうか。だから、その参照データによって、自分の意見をいうことができる。

以上考えると、極めて陳腐な結論だが、授業で意見をすばやくいうためには、その領域についての知識をもっていること、そして、同じような課題を、事前に考えておくことが有効だということになる。
速読術のように、特殊な本読みのスピードをあげる技術があるように、速考術なるものがあるのかも知れないが、まずは、この平凡な「予習」を実践することがいいのではないだろうか。