未来の教育研究8 市場化・民営化

 新自由主義の主要な原則に「市場化」と「民営化」がある。新自由主義者は、だから正しいと主張し、反対者はだから間違っているとする。つまり、新自由主義政策が市場化と民営化を柱とすることについては、一致している。だが、本当にそうなのだろうか。
 新自由主義の巨頭フリードマンは、確かに、『選択の自由』のなかで、「アメリカにおいて公立学校教育制度が樹立されたことは、この国の自由市場体制という大きな海の中に社会主義の出島をこしらえることになったが、このような出島がはやくもできたのはインテリたちの市場や自発的交換に対する不信感によってであると解釈するのは、ほんの少ししか正しくない。このような事態が発生することになったのは、社会が「機会の平等」という理念に対して大きな重要性を付与したことをただ単に反映した結果でしかない(245)」と述べ、「平等」ではなく、「自由」を重視、バウチャー制を主張している。それは、金持ちだけではなく、貧困層にも「自由」を与えることになり、そうすれば、学校教育が政府によって運営される必要はなくなっていく、というのである。(257-258)
 これに対して、二宮厚美氏は、「市場原理とは、教育の需給両面にわたって自由競争を組織することである。・・・規制緩和では権利としての教育保障ではなく能力競争の権威が重視される。」(『現代資本主義と新自由主義の暴走』1999 p220) 「 (バウチャーになると)公教育期間が学校の運営や教育の提供そのものには直接に関与しない。学校は、教育サービスを売る側にまわる。教育サービスそのものの需要と供給の調整は、子どもと学校の間の自由契約にゆだねられている。教育サービスは、市場機構に組み込まれている。バウチャー方式とは、教育の市場化を公的して金でバックアップするものにほかならない。(228)」と批判する。 
学校は市場化できるのか
 しかし、よく考えてみよう。「市場」とは、国家の干渉を排して、自由競争が行われている経済的場であるが、バウチチャー制とは、国家の教育予算の配分方式を変えることに過ぎない。学校単位の予算を、生徒数に応じた予算にするということに変えるだけである。生徒数を集めると多い予算を獲得できるので、生徒をたくさん集めるための競争が起きる。だから、教育水準があがるという、極めて単純な発想に基づく。しかし、学校の予算を計算するときに、通常は、物的資産、教師数、生徒数などを勘案して、学校ごとに予算を決めていくはずである。生徒数が全く考慮されないわけではない。学校予算を100%バウチャー制にすると、生徒数ですべてが決まる。生徒数に応じた教師の数、それに応じた設備というように予算を配分していく必要がでてくる。
 こうした違いによって、学校の雰囲気、運営が変わることは間違いないが、それが「市場」の論理で運営されることになるというのは、乱暴な話ではないだろうか。国家予算の配分方式の問題が、なぜ「国家の干渉を排して」になるのか。競争ではあっても、市場のような自由競争でないことは明らかである。
 そもそも、学校に自由競争など存在しえないことは、明らかなことなのだ。市場的な自由競争であるとすると、学校が供給側であり、親や子どもが需要側であることになるが、需要側が自由によい学校を選択できる条件がある地域が、どれだけあるだろうか。通学範囲に自由に選択できるように、たくさんの公立学校を設置する自治体など、考えられないだろう。少しの公立学校に、複数の私立学校があれば、それなりの選択があるが、公立と私立とでは、自由な選択にはなりえない。私立学校が高い授業料を徴収する学校なら、選択できる親は限定される。バウチャーを使って私立学校にいけるというのであれば、また、自由な選択を助長するよりは、阻害するというべきだろう。もし、私学が授業料を徴収することは禁止して、バウチャーで運営するなら、それは複数の公立学校が存在することになり、それなりに自由な選択が可能になる。実は、そうした制度をとっているのがオランダであるが、オランダが公立と私立とが、財政的にはまったく同じである構造になったのは、100年も前のことだ。帝国主義時代、ケインズ主義時代、そして、新自由主義の時代を通して、その制度自体には、変化がなかったのである。とするならば、そうした学校選択の自由は、少なくとも新自由主義政策からでているものではないことになる。
 更に次のようなことを考えてみよう。
 学校選択によって、生徒獲得競争が起きているとしよう。評価の高い教育をしているA校に、生徒たちが多数応募した。低いB校にはあまり集まらなかったとしよう。もし、これが通常の生産活動をしている企業の商品であれば、Aの商品は多数売れて利益がどんどんあがり、ますます売れていくだろう。生産設備を増強して多くの製品を作る、どんどん売れる。Bはその逆になって最悪潰れてしまうかも知れない。もともと、Aのほうが人材もいて、設備もよく、優れた製品を安く作れるから、購入希望者が多くなると考えられる。しかし、学校の場合はどうだろう。いくら希望者がいても、ある程度のところで断る必要が出てくる。それ以上受け入れたら、当然教育の質が低下してしまう。急遽設備を増設して、受け入れ数を増やすということは、学校では難しい。工場設備は、機械の導入で済むが、その学校の教育方針に共感し、なおかつ優れた実践力をもった教師は、容易に見つかるものでもない。他方、生徒が少なくなった学校では、丁寧な教育が可能になり、そうした努力をすれば、やがて評価が高くなるかも知れない。商品は日々売られているが、学校では年に一度の販売(?)である。こうした競争形態は、市場的な自由競争とは似て非なるものといわざるをえない。新自由主義政策の酷いところは、学力がある基準以下の学校は廃校にするということを前面にうちだしたことだろう。学力の低い生徒たちを、その学校から放り出して、問題が解決するはずはない。ますます教育の荒廃領域を拡大するだけである。

民営化の多様な意味
 次に民営化を考えてみよう。
 確かに、フリードマンの著書は、学校の国家運営に異常なまでの嫌悪感を示している。フリードマンの死の直前、弟子がフロリダでチャーター・スクールが増加しているという話を聞かされて、大いに喜んだという話が残っているが、チャーター・スクールは、決して、完全な民営の学校ではない。教育活動を民間に委託した公立学校がチャータースクールである。完全な民営学校は、アメリカのボーディングスクールとか、イギリスのパブリックスクールのようなものだろう。サッチャーは、グラマースクールを最大限擁護しようとした。グラマースクールは、私学ではない。
 かなり乱暴な言い方になるかも知れないが、オランダの学校は、アクレディテーションをともなったチャーター・スクールといえないこともない。
 では、チャータースクールの増加を喜んだフリードマンは、チャータースクールのような形態を理想の学校形態と考えたのだろうか。決してそうではないだろう。明確に書いているわけではないが、フリードマンのような人間にとって、自分の子どもをいれたい学校は、やはりボーディングスクールではないだろうか。
 昔から、最もよいと思う教育を自由に選べたのは、王侯貴族である。それが人間の発達にとって、本当に最良の教育であったかどうかは別として、王侯貴族は、支配下の人を支配するために、高度の能力を必要としたから、それにふさわしいと考える教育を受けたし、また、子どもたちに受けさせた。しかし、その教育は、莫大が費用がかかるものであって、受ける者の通常の負担で賄えるようなものではなかったはずだ。人々から収奪した資産が使用されたのである。つまり、よりよい教育を実践しようとすれば、非常に高い資金が必要なのでなり、それは今日ますますその度合いが高まっている。だから、国民教育というのは、国民全体が税金として負担し、未来を担う若い世代が受けるものなのである。受ける人たちの親が負担するだけでは、決して満足な教育は行えないのである。
 教育における民営化を考える上で、他の分野の民営化をふり返ってみよう。
 国鉄、電々公社、専売公社、郵便局などを考えてみよう。これらは分割して民営化された。当初は国が株を所有していても、次第に株は公開され、独立した通常の企業となることが期待され、そうした道を歩んでいる。企業になれば、国庫補助によって運営される組織ではなくなる。つまり、チャータースクールのように、お金は公費で運営は私人(民間)という組織とは違うのである。これが、新自由主義政策のなかで実施された「民営化」の本筋であろう。この評価は、ここでの課題ではないので、触れない。問題は、学校を民営化して、JRやNTTのように独立した運営組織になっていけるかということである。学校は、商品を売って利益をあげているのではなく、もし独立するとしたら、生徒からとる授業料だけで運営することになる。それで充分な教育が可能になるためには、アメリカのボーディングスクールのように、年額500万円もの授業料を徴収するしかないはずである。日本では、アメリカンスクールのような学校であろう。200万程度の授業料が必要である。このような授業料を小学生に払える家庭が、それほどたくさんいるはずもない。だから、国民教育としての学校は、授業料をとるにしても、公費でかなりの部分を支える以外には運営できないのである。『市場重視の教育改革』(八代尚宏 日本経済新聞社1999)という本があるが、具体的な学校改革の提案はあまりなく、(大学関連は多少詳しい)要するに、消費者サービスの観点を重視するという主張になっているだけで、「民営化」はほとんど触れていない。

 もう少し見方を変えてみよう。
 チャータースクールのように、公費だが、運営は民間が行うという意味での「民間」の「運営」という民営化だとしよう。それは、「私学助成」の充実ということと同じなのだろうか、あるいは違うのだろうか。あるいは、私学が、ほぼ全体的に公費で運営されるのは間違っているという主張になるだろうか。オランダの義務教育では、私学も100%公費で運営されるし、スウェーデンは85%、デンマークは70%くらいである。それは、私学の独自性をつぶすことになるというかも知れないが、オランダやスウェーデン、デンマークではそうしたことは生じていない。もし、私学も厚い公費補助があることを否定するなら、同じような教育を受けているのに、私学の生徒は多額の授業料をなぜ払う必要があるのか。あえて私学を選ぶ場合もあるが、そうでない場合のほうが多いのではないだろうか。特に大学の定員は、圧倒的に私学が多く、国立は入ることが難しい状況はいまでもかわらない。
 新自由主義→市場化・民営化→教育の破壊という単純な図式では、問題が解明できないのである。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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