『教育』2019.8を読む 何故教員の働き方改革は失敗するのか

 『教育』8月号(2019)の特集は、「『学校の働き方を』を変える」である。私は、ブログで、「学校教育から何を削るか」を連載したが、(今電子書籍にすべく準備している。)教育に関わるほとんどの人が、なんとかしたいと思っている問題であろう。もっとも、私のゼミの卒業生で新任から毎日16時間労働を強要されている教師が複数いることを考えると、長く働かせることが管理職の役割だと考えている校長がいるのかも知れないとは思うが。そういう校長こそ、早く退職してほしいと思うだけだ。
 さて、最初の論文は、石井拓児氏の「なぜ『教員の働き方改革』は失敗するのか」という文章である。
教育学的批判を
 最初に苦言を呈しておきたい。教科研の文章に、いつも感じることが、ここでも当てはまる。悪いことは、新自由主義のせいにするという論法は、いいかげんやめるべきではないだろうかと思うのである。もちろん、新自由主義政策はよくないと思っているし、それが教育によくない影響をもたらしている元凶であるとも思う。しかし、教育学は、教育の論理で分析すべきものであって、政治が悪いから教育が悪くなっているというだけでは、「教育学」の役割を果たしていないのではないか。また、逆に、新自由主義の政策としてだされていることが、本当に新自由主義的論理から出てくるのかという問題もあるが、すべてが教育的に悪いことなのか、ということも吟味されなければならない。もし、そんなに悪いことなら、何故、支持があるのか。新自由主義の政策として、教科研の文章が多く指摘していることは、住民や保護者がある程度願っていることが少なくないことは、認めねばならない。だからこそ、経済学や政治の論理から一端離れて、あくまでも教育学的に諸政策を評価する必要があると思うのである。
 私が学生として、専門課程の教育学部に進学したときに、五十嵐顕教授の教育財政学の講義があった。そこで、宗像誠也氏、持田栄一氏らと行った公選制教育委員会の実態調査の話をされた。非常に印象的に残っている。
 公選制教育委員会は、選挙が政治的になって、政党によって分かれてしまったのだが、実際に教育委員として集まって、教育問題を議論する段階になると、政治的党派の違いはほとんどなく、むしろ、共通した意識で学校の改革に取り組んでいたのだという、当時の教育委員の話を聞いたのだ。当時は、校舎も満足にない状況だったから、酷い教育水準で、なんとかましな教育環境にできないかということは、自民党だろうが、社会党だろうが、変わりなかったのだという。考えてみれば、ごく当たり前のことだろう。 
 現在、学校の教師が殺人的な忙しさで大変な目にあっていることは、ほとんどの国民的な認めているだろう。文科省の役人だって、なんとか改善しなければならないと思っているし、中教審もそういう答申をだした。しかし、どういうわけか、改善が一向に進まず、忙しさが増している学校だってある。(学校によって、けっこう違う環境であることもまた注意すべきである。)
 文科省に対して、石井氏は、10年以上改善の努力はしているが、努力しているのに、何故改善されないのか、という反省をまったくしていないので、有効な対策が出てこないのだと批判している。確かにそうだ。中教審は、若い教師が増えていることを理由にしているが、理由ともつかない理由だという。それは、私もそう思う。それなら、ベテラン教師は時間を余裕もって使っているのかというと、そんなことはないわけだ。
 私自身は、文科省や中教審から、本当に学校のブラック職場環境を改善する方策が出てくるとは思っていない。だから、独自に考えている。
教員過重労働の石井氏の分析
 さて、石井氏は、基本的に、2006年あたりから、新自由主義的政策が貫徹するようになって、競争主義的な原理で学校が運営されるようになったことに原因を求めている。そのことに異論はないが、個々の問題の扱いが、「新自由主義だから」で済ませているようにしか、私には読めない。
 新自由主義政策を一言でいえば、「選択と競争と評価」を通じた財政削減と財政配分を通じた国家的コントロールの仕組み、とまとめている。国家的コントロールなのに、なぜ「自由主義」なのかということは、ここではおいておく。
 具体的に、「通学区域の弾力化」「特色ある学校づくり」「校長のリーダーシップ」があげられる。これらのシステムが完成をみたのが2006年くらいで、そこから、教育目標が法定され、学校評価や教員評価が本格実施される。不適切教員の指導研修が始まる。加配のない少人数授業やTT授業。学校は、予算獲得のために、「教育プロジェクト」を立ち上げ、申請書を提出する。進学実績競争が繰り広げられ、高校では海外引率や補習授業などに追われる。
 こうして、過重労働状態になってきたというわけである。
 さて、もしこうしたことが、過重労働の原因だとして、それが何故いけないのか、というときに、新自由主義政策だからということが理由となるのは、少なくとも、政治的に新自由主義反対の立場にたつ者には通じるだろうが、新自由主義がいいではないかという人には、響かないだろう。しかし、新自由主義がいいと思っている人でも、教師が毎日夜遅くまで働き、土日も平日の昼休みもない状態であることに賛成はしないだろう。そういう状況で、教師が疲弊している学校に、自分の子どもを預けたいとは思わないだろう。もちろん、熱心にやっているという表面だけみている親ならば、別かも知れないが。
過重労働の原因か?
 また、個々にあげられている内容が、本当に過重労働になっている原因とは、直ちにはいえないようなことも、原因であるかのように、石井氏はあげている。例えば、職員会議の位置づけである。学校教育法施行規則の改訂で、職員会議は補助機関と規定されるようになっている。教職員が議論して、方向性をだしていく会議ではなく、いわば伝達機関になっている現状がある。しかし、考えてみると、しっかり議論していれば、だいぶ時間がかかるわけだし、校長が全部決めて、それを伝達するだけなら、時間は短縮される。もちろん、それで学校運営がうまくまわることにはなってはいないのが、時間が節約される部分は確かに否定できないはずである。また、「通学区域の弾力化」が、教師の過重労働と結びつくのは、私にはすっきりとは理解できない。子どもたちの競争が激化することは間違いないが、学校は受け入れるだけだから、弾力化自体が過重労働を生むとは限らないだろう。通学区域の弾力化は、ほとんどが住民、保護者の要求によって実施されるものだ。保護者や住民の要求は間違いだというのだろうか。間違いだというのならば、もっと丁寧な説明が必要だろう。通学区域は固定的なほうが本当にいいといえるのか。私が住んでいるN市と市境のM市の、M市側の境のところに中学校がある。校門を出て一分も歩けば、N市である。当然、周辺に住んでいるN市の生徒にとっては、遠くのN市立にいくより、こちらのほうが断然近いので便利だ。その住民の願いは部分的に適えられている。つまり、通学区域の弾力的運用がなされているのである。これは間違いなのか。
拒否をするのか、それとも?
 一番すっきりしないのが、少人数教育やTT授業である。加配なしに実施されているので、教師の労働過重になっていることは、もちろん間違いがない。では、やめるべきなのか。その問いに答えるような文章は、見当たらない。しかし、そこが問題だろう。
 もし、単純に過重労働が更にきつくなるのであれば、少人数授業やTTはやめるほうがよい、と私は思う。もちろん、学校には、授業を普段もっていない教師がけっこういるものだ。校長、副校長、教頭、主幹など。あるいは、小学校では専科になっている教師は、通常の授業ももてるはずである。そういう教師たちを動員できれば、やるのがよいだろう。もし、学校評価をよくするために、校長が、少人数授業を導入しようと提案してきたら、今のままでは、教員の負担がますます過重になってしまうので、校長、副校長もそのときだけ一クラスもってほしい、というような要求ができる教師集団でありたい。誰かが、負担を軽くしてくれるわけではないのだから。
 新自由主義政策の下で、進学実績競争が繰り広げられたというのは、私には、かなり疑問である。石井氏は1971年生まれということで、私より大分若いのだが、団塊の世代である私は、1960年代に、高校入試、大学入試で、空前の受験戦争を引き起こしたことになっている。しかも、当時は高校ですら、収容力の関係で、高校にいけなかった生徒は少なくなかったのである。大学は当然だ。そして、高校にとっては、大学進学実績での競争はその時代にもあったので、決して、21世紀の話ではない。むしろ、高校全入、大学全入の時代にはいったから、受験競争は、かつてより大分緩和されている。それは、大学に迎え入れる立場の私も実感として感じる。
 「教育プロジェクト」が教師に過大な負担を強いていることには全く異論がない。だから、こういうことは、システムとして廃止していかなければならない。そのためには、教師や学校の評価方法を、研究する必要があるだろう。私の不勉強によるものかも知れないが、行政がだしてくる教師評価の手法への批判はあっても、教師にとって必要で望ましい評価方法の研究は、あまりないのではなかろうか。これは、勤評闘争の時代から、一貫しているような気がする。
 校長は、何故、「研究推進校」になりたがるのか、何故、いじめを隠蔽するのか、これは、現行評価システムにひとつの原因があるだろう。いじめを隠蔽するのではなく、しっかりと解決するようにしむける評価方法、教師を苦しめる「教育プロジェクト」や「研究推進校」ではなく、学校の教師集団の教育力・授業力を高める研修を、実際に取り組める評価方式を、もっと研究者は提起していく必要がある。
 そのために、「教育研究者」は、新自由主義云々の枠組みを一端離れて、ことがら自体の教育的意味だけで語ってみる必要があると、常々思っているが、石井論文を読んで、再度感じた。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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