ダイヤモンド・オンライン(草薙厚子氏)の安楽死記事の批判

 ダイヤモンド・オンラインに「日本人への安楽死適用が難しい理由、Nスペ安楽死のジャーナリストが語る」と題する草薙厚子氏の文章が掲載されている。https://diamond.jp/articles/-/207969?utm_source=daily&utm_medium=email&utm_campaign=doleditor&utm_content=free
 NHKスペシャルで放映された「彼女は安楽死を選んだ」という番組制作に取材した宮下洋一氏にインタビューをしての記事である。私は、最近ほとんどテレビをみなくなってしまったので、残念ながらこの番組を見ていないが、記事の紹介でだいたいはわかった。治療方法のない、確実に死亡する難病にかかった日本人の女性が、唯一外国人に安楽死の措置をすることが認められているスイスで、安楽死を実行した、そのドキュメンタリー番組である。
 しかし、この記事には、いくつかの勘違いと思われる部分があるので、それを指摘しておきたい。今週、私の授業で、安楽死を扱うことになっているという事情もあるのだが。

安楽死は判例上容認されている
 最初の部分に、「安楽死は日本では認められていない。たとえ患者側が医師に「安楽死」を要求したとしても、実行した場合、刑法199条の「殺人罪」で死刑か無期、もしくは5年以上の懲役となる可能性がある。また、安楽死の協力者や仲介者も、刑法202条の「自殺関与及び同意殺人」に抵触するのだ。」と書かれている。これは、2,3年前に文藝春秋が安楽死特集をしたときにも、同様のことが書かれていたので、別ブログで批判したことがあるのだが、「日本では安楽死が認められていない」というのは、正確ではない。認められているかというと、もちろんそのように断言することもできないのだが、「認められていない」と断言するのは、間違いなのである。
 法的に認めるかどうかは、法律で認められればもちろん確実であるが、法律で認められていなくても、判例が積み重ねられれば、事実上、法的に認められることになる。判例法という法源があるからだ。
 実は、日本は、国際的に最初に安楽死を認める判決がだされた国なのである。1962年の山内事件の判決である。この判決は、父親を安楽死させた息子に、当然有罪を言い渡したものであるが、安楽死の違法性が阻却される事由として、以下の点をまとめている。

 一 病者が、現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。
 二 病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
 三 もっぱら、病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
 四 病者の意識が、なお明瞭であって意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託、または承諾のあること。
 五 医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には、医師によりえないと首肯するに足る特別な事情があること。
 六 その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。

 これらの条件が満たされなかったために有罪とされたが、この裁判では、満たされれば無罪とされたわけである。これ以後、安楽死事件を扱った訴訟はいくつかあるが、この条件は基本的に維持されている。ただ、条件を満たした実行例がないために、無罪にされた事例がなかっただけである。そして、この条件は、世界で最初に安楽死を合法化したオランダでの条件とほぼ一致している。オランダでも、当初は裁判での判例を通して、合法化に進んだのであって、法律による合法化までは20年以上がかかっている。その間、安楽死協会が活動して、合法的な措置のための努力をしたことが、結果として社会的な容認へと至ったわけである。日本では、そうした活動がほとんど行われていない。だから、散発的に患者と医者のあいまいな意思疎通によって実行されるために、いずれも有罪とされてきたのである。

 第二に、同調圧力に関してである。尊厳死と安楽死の区別が認知されないまま議論されることは危険だとして、続けて次のように宮下氏がいう。

 「日本は、同調圧力が強い国だといわれます。例えば自ら安楽死したいと思った時、それは本当に自分がそう思っているのか、または思わされているのか、そこが重要です。欧米人の意思というのは、本当に個人の意思に近いのです。子どもがそうしてくれと言ったら親は認め、尊重します。逆に親が安楽死を選んでも、子どもも親の考え方を尊重して、わかったと言います」
 「子どもに迷惑をかけるから、そろそろ死んだ方がいいかなと思うことは、本当に自分がそう思っているのか、迷惑をかけて申し訳ないと思って自分をそう仕向けているのか、わからないわけです。そうなると、本当の自分の意思による死ではないのかもしれない。安楽死を審査する4つの基準『本人の明確な意思』に当てはまらなくなるのです」

同調圧力ではなく、制度が重要
 私は、日本に限らず、家族に「死んでくれ、安楽死を願ってくれ」という同調圧力がかかるとは思えないが、「迷惑をかけて申し訳ない」という思いが発生する可能性はあるだろう。だが、日本人にはそういう発想があるが、欧米人にはないというのは、おかしいだろう。制度の仕組みと関連づけて説明すべきなのである。
 制度の仕組みというのは、二種類ある。
 第一に医療システムである。安楽死を国家として合法化している国は、だいたいにおいて、医療費が無料であるか、それに近い。つまり、本人に大きな負担がかかる国ではない。「迷惑がかかる」という最大の要因は、おそらく医療費の問題だろう。日本は、国民皆保険であるが、それでも入院手術をすれば、かなりの費用がかかる。だから、「迷惑がかかる」という考えになる可能性は小さくない。だから、安楽死が容認されるべきであるとするならば、この点の改善が最も必要なのである。
 第二に、扶養義務の問題である。日本は、親子には相互の扶養義務規定がある。年老いた親の扶養は、基本的には子どもにある。今は杓子定規に適用されているわけではないが、民法上の原則としては残っている。しかし、ヨーロッパでは、扶養義務は法的には未成年の子どもに対する親の義務だけである。だから、ヨーロッパでは、通常成人になった子どもは、親元を離れる。もちろん、普通の家族は、相互に行き来をするが、それは扶養関係ではない。自立できない高齢者は公的な支援が原則なのである。
 この二点において、日本では「家族に迷惑をかけられない」という意識が生まれやすくなっている。
 しかし、欧米で、「家族に迷惑をかけられない」という意識がないかといえば、そんなことはない。かなり前にオランダの安楽死を扱ったオランダの番組が、日本で放映されたことがある。そのなかで、安楽死した夫は、妻が自分の看病のためにだけ時間を使っていることは、自分には耐えがたいことだということも、理由のひとつとして、安楽死を選択していた。この、子どものいない夫婦は、入院を嫌い、難病にかかった夫は自宅で療養していた。介護サービスを利用していたかどうかは、番組でまったく触れていないのでわからないが、妻はずっと夫の世話をする生活をしていたわけである。しかし、そこには、「同調圧力」はまったくなかったといえる。
 では、欧米では同調圧力は全くないのか。もちろん、詳細は知るよしもないが、私には、ないとはいえないと思える。様々なメディアによるキャンペーンなどは、同調圧力として機能するだろうし、宗教なども同じだろう。要は程度問題であり、同調圧力という「雰囲気」ではなく、それを実際の行為に仕向けることを防ぐ「安全弁」的な制度があるかどうかのほうが重要である。

本人の意思確認
 次に本人意思の問題である。宮下氏は次のようにいっている。

 「法律があれば、あなたがそう決断したんですね、ではやりましょうと医師が言えば実施できてしまいます。本当にその人の意思なのかを確認するのは非常に難しい。極端な例ですが、子どもから保険金目当てでそう仕向けられているというケースだってあるかもしれない。そういったことを考えても日本では法制化はすごく危険だと思います」

 実に乱暴な話だ。法律があれば、簡単に意思確認して安楽死を実行できてしまうとしたら、それは法律そのものが欠陥品であるに過ぎない。法律がもし安楽死を認めるとしたら、(1)本人の自筆による文書、(2)複数医師の確認、(3)いつでも撤回可能であることの保障、などが明記されるものでなければならない。簡単な話ではないのである。
 ちなみに、どんなに厳密な規定ができても、「保険金目当て」のケースは生じうる。実際に、オランダでも、医師がある金持ちの高齢者女性に、自分に遺産を相続させるという遺言を書かせたあとで、安楽死希望の文書を偽造して、安楽死させたという事例が発生している。当然、その医師は、最高刑である無期懲役刑になっているが。こういうケースが起こりうるからだめだ、という発想は、基本的にものごとを進めない議論である。もちろん、対策は必要である。

 なお、日本では安楽死と尊厳死の違いが意識されずに議論しているとしているが、もちろん、そういう人もいるだろうが、きちんと問題を考えている人で、その点を曖昧にしている人など、今ではいないだろう。判例でもきっちり分けられている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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