未来の教育研究3 教育の自由・新自由主義

  私が学生時代以来、最も重要な理論的基本として考えてきたのは、堀尾輝久氏の「教育の自由」論から、教育や教育制度を構築する議論だった。しかし、「教育の自由」という概念は、公教育では、歴史的にもほとんど認められてこなかったもので、唯一、憲法上、教育の自由を認めているのは、オランダ憲法のみであるとされている。そもそも、公教育は、社会権としての教育権を実現したもので、自由権はその論理のなかに含まれていない。もちろん、実態として、自由に教育が行われている、つまり、教育の内容について、政府、公権力が規制しない時代(国によって、相当異なるが)があったことは事実であるが、それはまだ、教育内容を詳細に規定するほどの、政治情勢がなかったか、あるいは、政府にそれを実効的に規定できる力がなかったからである。
 最も、伝統的な教育、庶民の学校では3R、中等教育機関では、古典文化を学ぶなどの伝統的な内容はあった。更に、職業教育の要請は、内容上明確であるから、あえて国家的に規制する必要もなかったといえる。オランダの教育の自由も、実際に存在する学校が教えていることを追認するものであったといえるのである。
 最も、日本はその例外であった。明治期に義務教育制度を創設したけれども、当初は、政府がコントロールするまでに至らず、明治10年前後までは、学校での教授内容はかなり自由だった。しかし、その後国家的な指示が入るようになり、検定制度を経て、間もなく国定教科書の時代が敗戦まで続く。ナチスも、当然教育内容には厳しく介入し、日本以上に軍国ドイツ的な内容の教科書が作成された。日本がドイツ・イタリアとともに第二次世界大戦を闘って破れ、軍国主義教育を一掃するための改革が行われた。そのプロセスや結果に大きな問題点もあったろうし、1950年代になるといわゆる逆コースが進行することになるが、戦前の国家統制的教育やそれに復帰するかのような逆コースに抗した論理が、堀尾氏の「教育の自由」概念であった。国家が教育をコントロールすることへの反対の論理であり、教科書検定、学習指導要領の法的拘束力化、全国学力テスト、教育委員会の任命制化、勤務評定等に対する反対の表明であった。では、どうするのかという立場については、多少の幅があったが、文部省対日教組の対立として、これらがことごとく闘いの対象であった。
 しかし、1980年代になると、この構図に大きな変化が生じる。そのきっかけは、中曽根内閣によって設置された「臨時教育審議会」である。それまで教育政策を審議するのは、中央教育審議会であり、また、多様な審議会が付随的に存在していた。いずれも文部省の管轄であったが、中曽根首相は、内閣直属の審議会として臨教審を設置し、教育の全面的な改編論議をさせたのだが、当初最も大きな議論を呼んだのが「教育の自由化論」であった。
 その中心となった香山健一氏は、「追いつき追い越せ型の教育から、21世紀の高度情報社会に対応する教育に転換しなければならない。そのためには、国家が画一的に配給する教育システムではなく、私学主導のネットワーク的なシステムが必要となる。そして、需要サイド(子ども)だけではなく、供給サイド(学校、教師)も競争する、選択の自由が保障された制度が必要であるという主張を行った。(香山健一『自由のための教育改革』PHP研究所1987.9)そして、塾も学校と認めようというような極端な言い方が「自由化論」として流布し、これに反対する文部省と日教組が協力関係に変化していった。その後日教組は、有力な政治勢力ではなくなっていく。
 中曽根首相は、一般的にサッチャーやレーガンと並ぶ新自由主義的政治家と言われ、だからこそ、「教育の自由化論」を華々しく主張させたが、教育の自由を尊重する政策などは、実際にはとらなかった。しかし、「新自由主義」と呼ばれる政策が、その後先進国を覆うようになっていく。そして、その後堀尾氏は、「教育の自由」を表立って主張することはなくなり、20世紀から21世紀への転換期に東京を中心に導入された学校選択制度へも、新自由主義政策であるとして反対の姿勢をとるに至る。
 しかし、新自由主義とは何だったのか、新自由主義から必然的に導かれる教育の原則、制度、政策はあるのか、この点は、各論者や具体的な政策にそった検討が必要であるように思われる。
 新自由主義政治とは何だったのか。様々な規定があるが、私は極めて古典的な資本家階級と労働者階級の階級闘争だったと考えている。19世紀後半から労働運動が力をもつようになり、社会主義革命が起きるなかで、社会権に基づく政策(社会保障政策、教育保障)が導入され、所得再分配がなされるケインズ主義が、先進国で支配的になる。新自由主義政治とは、労働者に譲歩するケインズ主義を捨て、資本家階級の利益を復権させる政治だったのである。労働現場のブラック化が進み、経済的格差が極端に拡大した。現在の代表的な多国籍企業、大企業の経営者の法外ともいえる報酬をみれば、そのことがわかる。公企業の民営化も、可能な限り国民全体の利益のために行う公企業経営を廃止して、利益追求のための企業に再編することで、資本家に奉仕したわけである。そして、それを正当化する論が「自由」である。
 では、新自由主義は、「教育の自由」を擁護する立場なのか。また、民営化や所得再分配の否定は、教育とどのように関係するのか。それは自由を拡大するのか、あるいは関係ないのか。
 新自由主義の政治家たちは、「教育の自由」を拡大しはしなかった。サッチャーは、国家基準のない自由な教育体制を変えて、ナショナルカリキュラムを導入し、後継者のメイジャーは、視察制度を導入して、学校の運営がうまくいっているか、国家が監視するシステムを確立させた。
 レーガンは、連邦教育省を創設したが、めだった教育改革をしたわけではない。「危機に立つ国家」が公表され、改革が模索されたが、続くブッシュなどに引き継がれたのは、教育水準の引き上げであり、そこに国家が介入していく動向であった。
 日本では、逆コース以降、自由な教育政策がとられたことはなく、国家管理は一貫して強化されている。

 では「教育の自由」とは何か。
 オランダの憲法で認められているのは、学校を特定の教育理念に基づいて設立すること、その理念に基づいて教授をすること、そして、理念に基づいて運営することである。更に、学校の設立、運営が公立と私立の間で不平等にならないように、財政補助の公私平等も憲法で規定されている。日本では、私立学校を設立することは、法律上は自由にできるが、莫大な資金が必要なので、ほとんどの人にとっては無縁である。しかし、オランダでは私立学校でも、公立学校と同じレベルでの財政補助がだされるので、学校を設立、運営することは、それほど難しいわけではない。制限は基本は生徒数で一定以上在籍が確保されていることである。90年代に国家的な到達目標がだされるまでは、教育内容や方法は、ほとんど制約がなかったとされる。今は、到達目標があるので、かなり大雑把な大綱的基準であり、充足する必要がある。しかし、それが「教育の自由」を阻害しているとは、考えられていないようだ。他方で、国民の共通教養を重視する立場、そして、移民の文化、主にイスラム学校などを敵視する立場から、「教育の自由」に制限をすべきとする人たちも、当然存在している。
 国民の教育権論における教育の自由(堀尾理論)は、教師が専門職において、教授の自由をもつこと、その点での国家の命令・監督権がないことを意味していたと解釈できる。
 臨教審における「教育の自由化論」は、その後答申等には反映されないものだった。国家の配給システムのような学校ではなく、もっと多様な教育形態を学校と認めるという主張だったが、そもそも、国家管理を強化する意識で行われた臨教審では、当初からアドバルーン的意味を出なかったと解釈できる。しかし、フリードマンなどの「選択の自由」論との絡みでいえば、民間活力、民間企業の学校領域での活動の自由と重なる。
 教育は、必ず「主体」が存在する。だから、どういう主体を想定した「自由」であるかによって、分類することが可能だろう。
 堀尾氏においては、「教師」の自由。
 フリードマンにおいては、教育を対象とする営利企業の自由。また、別の面として、利用者(親)の自由。
 オランダでは、教育にかかわる主体を、できるだけ広範に当てはめる自由。学校経営者、教師、利用者(親)
 そして、日本の行政では、教育の自由は、認める余地がない。
 これらの概念の相違を検討して、あるべき「教育の自由」論を構築する必要がある。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です