『ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』は、原題を忠実に訳せば『あるドイツ人の生涯 ゲッベルス秘書の話は、我々に対して、現代のために何を教えているか』となり、ゲッベルスの秘書の話から、教訓を引き出そうとする書物であることがわかる。そして、それを担当しているのが、ポムゼルの回想をまとめた上で、長い解説を書いたハンゼンである。
ナチが政権に至るまでと、政権をとっていた時代が、現在のポピュリズムをめぐる状態と似ているという前提で、ハンゼンは論じている。
彼のいう、共通点とはなにか。
第一に、敵をつくることで、国民をまとめようとしていること。ナチの敵はユダヤ人であり、現在のポピュリズムの敵は移民、イスラム教徒である。
第二に、その際に、宣伝やフェイクニュースを強力な手段として使用し、国民を欺くこと。
第三に、国民の多くが、そうした事実を知ろうともせず、事態が悪化すると考えたとしても、何らの行動もおこさない人が絶対多数であることである。
非常に説得力がある部分もあるが、また疑問をもたざるをえない面もある。
ポムゼルの告白そのものが示すのは、なんといっても第三の共通点である。前回までに紹介したように、ポムゼルの告白は、自分が、ゲッベルスというナチのナンバー2の間近にいながら、ナチの行った悪行について、ほとんど知らなかったといい、また、知ったとしても何もできなかったのは、誰もがそうだったのだ、という言い訳に終始している。もっとも、水晶の夜の事件とか、友人のエヴァが失踪したときなどに、異常を感じていたと述べているが、しかし、知らなかったとするのが、大部分である。
このインタビューを元に映画が制作されたのだが、それをみると、何故この人は、人生の最晩年に、わざわざこのようなインタビューに応じたのだろうかと、疑問がわいてくる。102歳のインタビューであるから、要請に単純に応えたというものではあるまい。映像をみると、いくつか驚くことがある。100歳を超えているにもかかわらず、言葉が明瞭であること、しかし、話し方はおどおどして、いかにもどうやって自己弁護するのかに、意識が向いているように感じること、そして、アップ映像ばかりなので、正直見ていてつらいし、本人もこうした姿を晒すことを、積極的かつ喜んで引き受けたはずはない。しかも、ほとんどの人は、自分を非難しながら見るであろうことは、充分に自覚していたはずなのである。戦争が終わってから70年も経過している。このようなインタビューを受けなければ、文字通り忘れ去られたまま、つまり、特別な非難の内に過ごすことなく世を去ることができたはずである。何故、敢えて大衆に自分をさらけ出して、弁明をする必要があったのだろうか。
アイヒマンは、アルゼンチンに逃げていたが、逃げきることもできたのに、敢えて捕まったという説もある。それは、死刑になることを覚悟して、自分を世に認めさせたかったのだという説明がなされているが、似たような感情だったのだろうか。つまり、歴史に自分の名を残したいという。全く違う人生を歩んできた私には、到底理解できないところだが。
政治的無関心は罪か
さて、先の三点のナチとポピュリズムの共通点を踏まえて、ハンゼンが論じていることは、「知ることの意味、知らないで済ますことは許されるか」という点である。
ハンゼンは、ポムゼルが、知る立場にあったにもかかわらず、見ないようにしたと批判する。
「政治的無関心というのもはそれ自体が罪なのだろうか?現代に生きる私たちが、ポムゼルの伝記から学ぼうとするとき、こんな問いが浮かぶ。彼女が確信的ナチだったかどうかは、この際重要ではない。彼女は明らかに熱心な党員ではなかった。「積極的に参加した」のか、あるいは「積極的に見ないふりをした」のか、この罪のとらえ方には幅があるのだが、彼女はおのれの愚かさとナイーブさを盾にして自己弁護することで、問題をうやむやにしてしまっている。倫理的には、見ないふりをすることだけでも罪である。なぜなら、「生」とはつねに「共生」を意味するからだ。このことは、普遍的な人間の権利が基本的の主要な柱になっている民主主義国家では重要になってくる。」
ドイツでは、戦後、ナチの蛮行を知っていたのかを問う調査を何度もやっている。そうした調査がどの程度信頼できるかは疑問だが、多くの国民が、「知っていた」わけではないことは、間違いないのだろう。わざわざ宣伝省という機関を作って、国民にフェイクニュースを国家的に流していたのだから、正確な認識をもつためには、よほどの情報網と高い批判的知性をもっていなければならない。
しかし、ハンゼンが指摘するように、ポムゼルは、ゲッベルスの秘書であり、口述筆記者であったわけだから、知らなかったはずがないという疑問も生じざるをえないだろう。おそらく、知ったとしても、自分と関係ない、これは単なる文書なのだ、と自分に言い聞かせて、意識の外に追いやったのだろう。ポムゼルの用意した、それに対する言い訳として、行動を起こしたとしたら、直ちに自分は殺されてしまっただろう、実際にそういう人たちもいたではないかという。それもまた事実である。例として、白バラ抵抗運動の事例をだしている。つまり、ポムゼルは全く知らなかったのではなく、知ったとしても、自分とは関係ないと思ったと解釈すべきだろう。
では、このようなとき、どうしたらいいのだろうか。映画を見た人の多くは、ポムゼルを戦争加担者として非難する気持ちはもたなかったという。ユダヤ人が残酷に扱われ、また、抵抗運動していた人たちも、見つかれば直ちに殺されるような状況のなかで、抵抗意思を示すこと自体が、死の覚悟が必要である。それを考えれば、ポムゼルを、抵抗しなかったからといって、非難するのは酷だというわけだろう。戦争中ドイツに残った多数のドイツ人たちが、戦後批判されたときに、ポムゼルと同じような感情をもったに違いない。ナチを批判して、亡命した有名ドイツ人は、概して、戦後ドイツ国民に冷たい対応をされている。その代表がトマス・マンだ。
ハンゼンの主張は、まだ芽の内に、その危険性を認識して、危険な勢力の拡大を防ぐ、そのために、「知る」「認識する」ことが大事なのだということだろう。ナチですら、選挙で勝利して政権をとったのである。選挙に勝たなければ、フューラーとしてのヒトラーは生まれなかった。そして、投票することは、危険な行為ではない、少なくとも民主主義的な制度がとられているところでは。ポピュリズム政党が次第に選挙で得票を増やしていることに対する警鐘をならしているのである。そういう意味では、「知らなかったという言い訳」は許されない。
「民主主義の価値をはっきりと前面に押し出すことが重要である時代に、人々が依然として沈黙して、受動的にふるまい、「バラエティー番組」ばかり見ていれば、過激な少数派は、自分たちの世界像に合わない人々に対するスローガンで非難と憎悪をあおり、こうした人々の日常的な政治活動を押さえ込もうとする。彼らは時代の雰囲気を毒していき、嘘と憎悪の拡散によってさらに同志を増やし、最終的には権力まで掌握するかも知れない。私たちはみずからの無関心と受動生によって倫理を崩壊させてしまう危険があるのだ。」
ユダヤ人排斥と移民排斥
では、ハンゼンが前提としている、3つの点を検討していこう。ナチと現在欧米で進出しているポピュリズムとは、同じものなのか。
第一に、ナチのユダヤ人排斥と、現代ポピュリズムの移民排斥は同じものなのか。
結論的にいうと、私はこのふたつはかなり違うと考える。
「敵」をつくるという点では同じであり、ユダヤ教徒とイスラム教徒という特定宗教を対象にしているという点でも同じである。
しかし、ユダヤ人については、「既にそこに住んでいる」人たちであるのに対して、移民は、新たに「やってくる」人たちである。ユダヤ人差別や排斥には、何らの合理的理由も存在しえないが、移民排斥には、ある程度国民が支持する要因がある。そして、ナチのユダヤ人追放には、ユダヤ人のもっていた財産と地位を奪うという「略奪」的要素があったが、移民は、まだ財産も地位ももっていない存在である。ユダヤ人は裕福な人たちが多かったし、また、社会的に重要なポストについている者もたくさんいた。そうした財産とポストを奪って、ドイツ人に与えることで、ドイツ人の支持をえるという要素があったのである。もちろん、これには、何ら正当性がない。
だが、移民はまったく逆である。優秀な人材が多いとしても、当初は言葉がわからないし、居住地ももちろんないわけだから、それを国家が補償しなければならない。それは国民の税金である。
私がオランダに滞在していた1992年から1993年にかけては、途中でEUが成立した一方、ドイツではトルコ人迫害が多かった。オランダは移民に対する優等生といわれていたのだが、私のとなりに住んでいる人が、「大きな声ではいえないが、あまりにオランダは移民をたくさん受け入れすぎる。彼らには莫大な税金が使われている。我々が払った税金なのだから、我々のためにもっと使ってほしい、と多くの人は思っている。もちろん、移民を大事にするというのは、悪いことではないのだが。」と語ってくれたことがある。10年後、911のテロが起こって、オランダでも移民排斥の動きが顕在化し、移民排斥を主張する政党が躍進するに至ったのである。では、隣人のいうことは、不当なのだろうか。
外国人労働者の問題に限らず、世の中には、あることの受益者と、負担者がまったく分離することがある。外国人労働者の受け入れは、多くが低賃金労働者を必要とする人たちの主張である。彼らは、低賃金労働によって、利益をえる。しかし、外国人労働者には、社会的な費用が発生する。労働できるまでの職業訓練、語学訓練、生活保障など。それらは国民が負担する。このことに対する国民の不満は、まったく不当とは、私はいえないと思う。利益をえるものは、負担を一部共有すべきなのである。もし、外国人労働者受け入れに際して、利益をえるものと、負担するものとの「バランス」をとるような政策をとれば、ポピュリズムの浸透はもっと防げるのではないかと思う。しかし、移民受け入れ、難民受け入れは、人道的な措置で当然であるということであれば、「それはそうかも知れないが、そんな負担はこりごりだ」という素朴な感情をおさえることは難しいのではないだろうか。
ユダヤ人排斥と移民排斥を、単純に同一視するのではなく、ポピュリズムに傾きがちな移民政策を、もっと慎重に考察すべきであろう。
更に、移民は、多くが経済的格差が原因となっている。この国際的格差の是正も視野にいれた政策、論理でなければ、「空疎な人道主義」に陥る可能性がある。
フェイクニュース
第二に、ナチの宣伝とフェイクニュースは同じだろうか。
この点もかなり違う構造になっている。ナチ時代には、もちろん労働者側も宣伝手段をもっていたとはいえ、それでも高い教育を受けたものだけが、宣伝手段を任されて、それぞれの立場を主張していた。ナチは権力を握ったことと、ゲッベルスの才能による特殊な宣伝効果を狙った「精神の鋳造」ともいうべき効果をもたらした。国民は真実を知らされず、たくさんの虚偽をふきこまれた。そして、集団の動員によって、強制的に一体感を醸成された。
それに対して、現代のインターネットによる情報は、権力の宣伝機関でもあると同時に、誰でも発信できる情報媒体になっている。アラブの春が、本当に国民の自発的な決起と、ツイッターなどのインターネットの利用で成功したとは思わないが、つまり、背後にかなり組織的にバックがあっただろうが、しかし、権力とは相対的に異なる位置からの情報発信によって、独裁権力が打倒されたことも否定できない。偽りの情報がたくさんあるとしても、真実を追求する意思と、鍛えられた思考力があれば、偽りではない情報に到達することも可能である。
長くなったので、もう一度、ハンゼンの主張の検討を、続きにする。